曹真

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曹 真(そう しん、? - 231年太和5年)3月[1])は、中国三国時代武将子丹曹操の従子(おい)[2]。父は曹邵(曹操の同世代の親族。異説として秦伯南)。子に曹爽ら。『三国志』「諸夏侯曹伝」に伝がある。

曹操・曹丕(魏の文帝)・曹叡(明帝)の三代に仕え、魏の建国後は宗室の筆頭格の一人として重きをなした。曹叡の代に、蜀漢北伐から領土を守った。

生涯

若き日

190年初平元年)[3]、父は曹操が挙兵した時に一族として呼応した。しかし、董卓方だった黄琬と悶着を起こして殺害されてしまう[4]。曹操は曹真が年少の身で父を失ったことを憐れみ、自らが引き取って他の子と同じように養い、曹丕と起居を共にさせた[5]

ある日、曹真が猟をしている時、虎に追われてしまったが、馬上から後ろ向きに矢を放ち、虎を倒した。曹操はその勇敢さを褒め、自らの親衛部隊「虎豹騎」の隊長とした。霊丘の賊を討ち、霊寿亭侯に封じられた。

魏の重鎮

曹操が漢中一帯を巡り劉備と争うと、曹操に従い劉備と戦った。まず、下弁において劉備の別働隊を破り、中堅将軍に任命された。そのまま曹操の供をして長安に行き、中領軍の任務を受けた。夏侯淵が陽平で戦死すると(定軍山の戦い)、曹操により征蜀護軍に任じられて徐晃らを指揮し、陽平で劉備軍の高翔を破った。曹操は自ら漢中に出向き諸軍を救援したが、曹真は武都に赴いて曹洪の軍を迎えとり、陳倉に駐屯する任務を受け持った。

220年、曹丕(文帝)が禅譲により魏帝国を興して即位すると鎮西将軍となり、仮節・都督諸軍事(雍州・涼州の軍事長官)となり、東郷侯に封じられた。

酒泉の張進が反乱すると、費曜を派遣しこれを鎮圧させた。また、張郃とともに安定の盧水胡と東羌を討伐した(魏志「張郃伝」)。事あるごとに諸軍を指揮して、雍州・涼州の反乱を鎮圧した。

222年には洛陽に戻って上軍大将軍・都督中外諸軍事となり、節と鉞を与えられ、大きな軍権を握ることになった。

同年から翌223年にかけて、文帝が三方向から侵攻すると夏侯尚[6]とともに朱然が守る江陵を攻撃した。曹真は別働隊により江陵の中州を占拠し(呉志「呉主伝」によると223年春正月)、土山を築いて矢を射掛けたり地下道を掘ったりしたが、結局は朱然が守る江陵城を陥落させられず、223年3月に撤退している[7]揚州の牛渚で勝利したという記録もある。

226年、文帝が死去した際には、曹休陳羣司馬懿と共に曹叡(明帝)を助けるよう委ねられている[8]。曹叡が即位すると大将軍となり[9]、邵陵侯に昇格した[10]

228年春、諸葛亮率いる蜀軍が攻めてきて祁山を包囲すると、一時は南安・天水・安定の三郡が蜀に降伏したが、曹真は明帝の命令で郿に布陣しその迎撃にあたった。曹真は別ルートより長安を伺う趙雲鄧芝の軍に備えた(蜀志「趙雲伝」)。街亭において張郃が馬謖を破ると(街亭の戦い)、蜀軍は撤退した。しかし安定の住民であった楊条が、他の住民を連れて月支城に立て籠もった。このため曹真が自ら出陣して城を包囲すると、楊条は大将軍が自らやって来たということで降参を申し出てきた。

曹真は諸葛亮が敗戦の反省を踏まえて、次は矛先を変えて陳倉に侵入してくるだろうと予測し、郝昭・王生に陳倉の守備を固めさせた。同年冬[11]、曹真の予測が的中し、諸葛亮が攻めて来て陳倉を包囲した。郝昭はわずかな兵で諸葛亮の軍勢を寄せ付けず、頑健に防衛した。このため曹真は費曜らを援軍として派遣した。諸葛亮は陳倉を落とせないまま、兵糧が底を突き、魏の援軍も到着したので撤退した(陳倉の戦い)。

蜀征伐と死

蜀軍を撃退した功績により230年には大司馬となり、帯剣したままの昇殿と、宮殿内で早足で歩かなくてもよいこと(当時の宮殿内では、皇族でも臣下は屈んで早足で歩かなければならなかった)を認められた。同時に多くの封地を賜り、2900戸までになった。

大司馬となった曹真は明帝に対し、蜀を征伐することの必要性を説き、これを認められた。230年8月、長安を出発し子午谷より蜀に攻め入った[12]。この作戦は、荊州方面の司馬懿に漢水を遡って南鄭を攻撃させるなど、斜谷道や武威といったいくつかのルートから一斉に侵攻する大規模なものであったが、秋の長雨が30日続き、桟道が一部崩壊するなどしたため失敗し、明帝の命令により曹真は撤退した[13]

洛陽に戻った曹真は間もなく重病となり、明帝は自ら見舞ったが病状は好転せず、231年春3月[14]に逝去した。曹真の跡は曹爽が継いだ。

明帝は生前の曹真が厚遇を受けた身でありながら、寛容でかつ謙虚であった人物として元侯諡号を送った。

曹芳(斉王)の時代となった243年秋7月、他の功臣らとともに曹操の霊廟前の広場に祭られた(魏志「三少帝紀」)。

逸話

曹真は若い時に、従弟の曹遵や同郷人である朱讃が早くに亡くなってしまったことを憐れみ、その子らに自身の封地を分け与えることを明帝に願い出るなど、自らの幼い頃の苦労と重ね合わせたように情で報いている。また、恩賞が足りない者がいれば、自らの財産を与えるなどした。このため、曹真は将兵から人望が厚く、その率いる軍の団結力も強固なものであったという。

曹真は肥満だったため、呉質から酒宴の席でそのことをからかわれて激怒したという逸話が残っている[15] また、このとき同席していた王忠や曹洪にも冷やかされた。後に、曹洪が文帝の不興を買い罪に問われ逮捕されると、これを弁護している(魏志「曹洪伝」が引く『魏略』)。

一族

文帝の時代に、既に弟の曹彬が列侯されていたが、曹真の没後、詔勅により五人の子(曹羲曹訓・曹則・曹彦・曹皚)が揃って列侯された。曹爽は明帝の没後に曹芳(斉王)の後見役を任され、政治の実権を握ったため一族は隆盛したが、失政が続いたため司馬懿のクーデターにより失脚し、謀反の疑いをかけられ三族皆殺しとなった。嘉平年間に曹真の功績を鑑みて、従孫の曹熈が曹真の家を継ぐことが許され、新昌亭侯となっている。

曹真の姉妹には徳陽郷主(夏侯尚夫人)がおり、夏侯玄は甥に当たる。

また、『烈女伝』で有名な夏侯令女の夫である曹文叔も、曹真の甥である。

大将軍曹真残碑

清朝道光年間(1821年 - 1850年)、陝西省西安の郊外で、曹真の業績を称えた石碑が発掘された。石碑は曹真の死亡から数年後の235年 - 236年の頃の建立と推定され、内容は一部しか残っていないものの、蜀漢の諸葛亮が攻めて来たのを曹真が迎撃したというものである。文章の書体(魏代の隷書)も書道史的に高い価値を持つ。なお、文中の「蜀」と「諸葛亮」の間の文字が削られているが、これは3世紀の建立時には魏の立場から「蜀賊諸葛亮」とあったのを、発掘後に『三国志演義』の諸葛孔明の大活躍を愛する地元民によって、「賊」の字が削り取られたものである。

(参考)大將軍曹眞殘碑京都大学人文科学研究所画像データ)

『三国志演義』における曹真

小説『三国志演義』における曹真は、皇族出身として曹叡を支える重臣の一人とされている。諸葛亮の離間工作によって群臣の多くが司馬懿を疑った時、「蜀か呉の計略ではないか」と一人彼を弁護したり、病気療養中に呉蜀が連合して魏に侵攻してきたという知らせを聞くや、自ら進んで都督の印綬を司馬懿に譲り、彼に全権を委ねるなど、基本的に公正で良識ある人物として描かれている。

その一方で、司馬懿を諸葛亮と伯仲させるため、史実では曹真が諸葛亮を防いだ功績は、『演義』では一貫して司馬懿の功績とされ、曹真はその引立て役に回されている。また諸葛亮と対戦し、圧倒的に優れたその知略の前に連戦連敗を喫してしまう。腹心の王双魏延に斬られ、同僚の司馬懿との賭けに負け、自分の能力の差に愕然とする。決して暗愚ではなく、人の意見を聞き入れる度量のある人物なのだが、なまじ聡明で、諸葛亮や司馬懿と自らの力量の差がわかるため心中苦しみ続け、そのことが原因で病にかかってしまう。最後は諸葛亮の罵言を記した書状を読み、憤死している。

脚註

  1. 『三国志』魏志「明帝紀」
  2. 三国志』「曹真伝」にある裴松之註の『魏書』による。 </li>
  3. 『三国志』魏志「曹真伝」の裴松之の注に引用される『魏書』には、父は初平年間に、曹操が挙兵した時に呼応して兵を集め曹操に従ったが、豫州牧黄琬が曹操を殺そうとした際、曹操は難を逃れたが父は殺された、とある。ただしこれは黄琬が189年中に豫州牧から司徒に遷っていると記されている『後漢書』「献帝紀」の記述と矛盾する。
  4. 裴松之が注釈として引く『魏略』によると、曹真の姓は元来は秦氏で、父の秦伯南は曹操と親しい間柄であった。興平の末年、曹操は袁術とともに盗賊の討伐に向かったところ、逆に盗賊に追われることとなり、秦伯南の邸に逃げ込んだ。盗賊が邸に来ると秦伯南は自ら門を出て、盗賊に「私が曹操だ」と名乗ったために殺害された。曹操はその功績から子の真に曹姓を名乗らせたとある。
  5. 『三国志』魏志「曹真伝」。
  6. 呉志「呉主伝」によると、張郃・徐晃が従軍。
  7. 『三国志』魏志「文帝紀」、呉志「呉主伝」・「朱然伝」。
  8. 魏志「文帝紀」。役職は中軍大将軍となっている。
  9. 魏志「明帝紀」によると12月の出来事。
  10. 裴松之は注で、父のが入っている「陵」の封地名はあまりにも不自然で、これを誤りだと指摘している。
  11. 魏志「明帝紀」によると12月。
  12. 魏志「明帝紀」によると、詔勅が出たのは秋7月。
  13. 魏志「明帝紀」によると9月。
  14. 魏志「明帝紀」
  15. 魏志「王粲伝」の伝中に附伝された「呉質伝」の注に引く『呉質別伝』。</span>
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