日米修交記念館
テンプレート:博物館 日米修交記念館(にちべいしゅうこうきねんかん)は、日本初のアメリカ船来航地である和歌山県東牟婁郡串本町の紀伊大島樫野埼に建つ町立の博物館である。
アメリカ商船レディ・ワシントン号とグレイス号が寄港した雷公の浜の北側に1975年に建てられた。館内には寄港当時の光景がジオラマで再現され、レディ・ワシントン号の模型や資料・写真とともに展示されている。
交通
レディ・ワシントン号の来航
1853年のペリー提督の浦賀来航(黒船来航)があまりに有名であるため、それ以前にも日米の交流があったことは忘れられがちである。実際にはアメリカ人として日本に最初に渡航して貿易を申し込んだのは、それより62年も前の1791年、ジョン・ケンドリックの紀伊大島への来航である。ボストンの商人等がスポンサーとなり、アメリカ西海岸で原住民から毛皮を入手し、太平洋を横断して広東で売りさばく計画が立てられ、1787年にケンドリックおよびロバート・グレイを船長とする2隻が派遣された。2隻はボストンから大西洋を南下し、南米ホーン岬沖を通過して太平洋に入り、北上して西海岸に到着したが、これはアメリカ人による最初の西海岸探検でもあった。毛皮の入手後、グレイは予定通り広東で毛皮を売り西回りでボストンに戻ったが、遅れてマカオに到着したケンドリックの取引は上手くいかなかった。このため西海岸に戻る途中で日本に寄港し、毛皮の販売を試みたものであった。交易交渉は上手くいかず、数日後に日本を離れている。
ケンドリックの一行は、当初の計画から交易という明確な目的をもって紀伊大島に寄航しており、住民に警戒心を与えないために「漂着」と装ったことや毛皮の貿易を申し込んだことが書簡や公文書(『マサチューセッツ海事史』ほか)などから明らかになっている。一方、日本ではこの来航は偶然の「漂着」に過ぎないとされている。ケンドリックは地元住民と交易交渉を行ったのみで、紀州藩や幕府の役人などと交渉すること無くそのまま日本を離れているため、ペリー来航などと比べると重要な出来事とは認識されていない。このため教科書にも掲載されておらず、日本においてはこの日米の最初の出会いはあまり知られていない。
なお、ワシントン州アバディーン市では1989年にケンドリックの乗ったレディ・ワシントン号の再建造が行われたほか、マサチューセッツ州ウエアハムにあるケンドリックの旧宅がケンドリック記念館として保存・公開されている。
わが名はケンドリック
ノンフィクション小説の佐山和夫『わが名はケンドリック』では、レディ・ワシントン号の来日の目的と、日本史にその事実が記載されなかった理由が示されている。
出版情報
周辺情報
脚注
外部リンク
- 本州最南端の町串本町 (串本町公式サイト) - 観光スポット>観光施設を参照。