張華

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張 華(ちょう か、Zhang Hua, 太和6年(232年) - 永康元年(300年))は、三国時代から西晋の政治家。に仕えた。茂先。范陽方城(今河北省固安県)の人。晋書に伝がある。妻は劉放の娘。

生涯

父は漁陽の郡司であった。幼い頃に孤児となり、羊飼をしていたが、同郷の名士である盧欽や劉放に認められ任用された。劉放の娘婿ともなっている。学問の才に恵まれ、聡明で性格も善良であった。

『鷦鷯賦』という作品を著すと、それを見て感銘を受けた阮籍から「王佐の才なり」と賞賛され、声名が世に広がるようになった。やがて魏に仕え、歴史編纂を任務とする著作郎となり、さらに宮中の事案に関与する中書郎となり、長史を兼任した。晋が禅譲により興ると、黄門侍郎となり、関内侯となった。記憶力にすぐれていたため、武帝(司馬炎)の信任を受け、中書令、散騎乗侍となった。

羊祜の要請で武帝が呉の征伐を諮ると、朝廷の群臣皆が反対する中で唯一張華だけは賛成を示した。張華は羊祜のもとへ派遣され、呉征伐の作戦計画を練った。咸寧5年(279年)、呉征伐が実行に移されるに及んで度支尚書に任命され、運漕(水路で物資を運ぶこと)を担当した。呉征伐がやや停滞すると、呉征伐に反対していた賈充は張華を誅するよう進言したが、武帝は張華を庇った。

無事に晋がを滅ぼすと、武帝は張華の功績を賞し、広武県侯を与えるなど褒美を手厚く与えた。これによって張華の名声は高まり、三公の位に上ることが期待された。しかし、権臣の賈充と荀勗らは、張華の躍進を快く思わず、あるとき張華が武帝の実弟の斉王・司馬攸を賞賛するような発言で武帝の不興を買ったことを知り、張華を外鎮として中央から遠ざけるよう武帝に進言した。この結果、張華は安北将軍・都督幽州諸軍事として辺境に赴任することになったが、そこで異民族を慰撫して心服させ、歴代にわたって中華王朝への従属を拒んできた二十数ヶ国から朝貢の使者を得ることに成功した。朝廷は張華の功績を認め、中央に召し返して再度宰相としようという意見が強まったが、馮恢が反乱を起こした鍾会を例に武帝に対し張華を讒言したため、張華は一時太常とされ、さらにまもなく理由をつけて罷免された。

永熙元年(290年)に武帝が崩じて恵帝が即位すると、太子少博となった。元康元年(291年)に賈后が国政を掌る汝南王・司馬亮録尚書事衛瓘を排除するために楚王・司馬に密詔を下して彼らを殺させるという事件が起きた。張華は恵帝に進言して騶虞幡(停戦を指図する皇帝の旗)を遣わして軍を解散させ、さらに事後処理として司馬が詔勅を偽造したことにして処刑するよう勧めて政変の混乱を鎮めた。これによって賈后の信任を得た張華は中書監を拝命して国政を補佐した。これ以降の元康年間(291年-299年)は賈后や賈謐が専横しながらも国内は一時的な平穏を保つことができたが、これは張華と尚書左僕射・裴頠らの尽力によるものだったという。数年して司空へ進んだが、元康9年(299年)、賈后が皇太子司馬遹の殺害を謀るとこれを諌めたため、免職となった。永康元年(300年)、趙王司馬倫のクーデターで賈后が殺害されると、かつて司馬倫の不興を買っていたことから張華も捕らえられ、三族皆殺しとされた。朝廷と民衆の者で悲しまない者はなく、推挙の恩がある陸機は『詠徳の賦』を作ってその死を悼んだ。のちに司馬倫が失脚すると名誉回復がなされた。

人物

張華は人材を好み、優れた者であれば身分が賤しくとも力添えを惜しまず推挙したという。陳寿(後に『三国志』を著述)は 蜀漢滅亡後に不遇をかこっていたが張華によって孝廉に推挙された。呉の名将・陸抗の遺児である陸機と陸雲の兄弟も、敵将ながら見事な才能を持つ人物として張華から武帝へ推薦された。他にも、のちに遼西に割拠して前燕の実質的な創始者となる慕容廆、涼州に割拠して前涼の実質的な創始者となる張軌、荊州を統括して建国初期の東晋を支える陶侃など次世代の俊英たちも若い頃に張華に評価されたエピソードを各々晋書の伝に持つ。

文学の才にも優れ、『博物誌』という著書を残している。「鷦鷯賦」や女性の心境をうたう詩(五言詩)が知られている。

参考

  • 佐藤利行 六朝文人伝「張華」:『晋書』張華伝] テンプレート:NAID
  • 張華の博物誌(全訳)ISBN 9784864761529