ピルグリム・ファーザーズ
ピルグリムファーザーズ (Pilgrim Fathers) は、アメリカに渡ったイギリスのピューリタン(清教徒)である。「Pilgrims」は「巡礼始祖」の意。
目次
経緯
16世紀、イギリスのエリザベス1世がイングランド国教会を確立したが、17世紀にかけて、教会の改革を主張する清教徒が勢力を持つようになり、特に国教会からの分離を求めるグループは分離派と呼ばれ、弾圧を受けていた。
この為、信仰の自由を求めた清教徒を含む102人がメイフラワー号に乗ってアメリカに渡った。メイフラワー号船上での「メイフラワー誓約(右図)」は社会契約説に基づくものとして知られる。1620年に北アメリカ大陸に到着したピルグリムファーザーズは、キリスト教徒にとって理想的な社会を建設することをめざした。
彼らの上陸地は、1614年にジョン・スミスが発表した地図で「ニュー・プリマス」と名付けられた地域だった[1]。入植当初の状況は厳しく、半年で半数程が病死したが、先住民インディアンのワンパノアグ族が食糧や物資を援助したおかげで冬を越えることが出来た。ニュー・プリマスはやがて、発展するニュー・イングランドの最初の植民地となった。
インディアンとの対立
しかし間もなく、白人入植者たちは入植範囲を拡げ始め、インディアンとの間で土地と食料を巡って対立が発生し、戦闘が起きるようになった。
ワンパノアグ族の酋長マサソイトは、平和と友好を保つためにピルグリムと条約を結ぶ。
ピルグリムはまず1630年にマサチューセッツ族の領土に進入。ピルグリムの白人が持ち込んだ天然痘により、天然痘に対して免疫力があまりなかったマサチューセッツ族の大半は病死した。
1636年には1人の白人がピクォート族に殺された事が切っ掛けでピクォート戦争が発生。ピルグリムは容疑者の引き渡しを要求したがピクォート族がそれに応じなかったため、ピクォート族の村を襲い、大量虐殺を行った。
さらに、平和の条約を結んでいたワンパノアグ族との関係も悪化していった。マソサイトの息子メタコメットは父マサソイトが結んだ条約を不平等条約であるとして異議申し立てをし、これを拒絶されたためワンパノアグ族は1675年にピルグリムのプリマス入植地を攻撃。こうして白人が「フィリップ王戦争」と呼ぶ土地紛争が勃発した。この戦争は周辺部族も巻き込み、1676年に終結するまで、ピルグリムとインディアンの両方共に多くの犠牲者を出した。
注
- ↑ 『 History of Plymouth Plantation. Boston, Massachusetts: Little, Brown, and Company』(Bradford, William、1856年)