小川光氏
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(小川壱岐守光氏から転送)
小川 光氏(おがわ みつうじ、生年不詳 - 慶長15年(1610年)8月)は、戦国時代から江戸時代の人物。官位は壱岐守。通称は左馬助。小川祐忠の長男。弟に良氏。
関ヶ原の戦いで西軍に属したため改易となるが、祐忠正室の実家一柳氏の奔走もあって、慶長6年(1601年)に豊後国日田郡2万石に入領した。月隈山に丸山城を築くのだが、完成するまでの3年間は日田郡友田村の丸山(現在の友田町三郎丸の星隈山)に仮の城砦を築いて居城した[1]。慶長15年(1610年)8月病死し小川家は無嗣断絶となるが、元和2年(1616年)8月に石川忠総が6万石で入封するまでの間、城地は一族の小川喜助と小川又右衛門が管理した。
光氏の知行について
石川氏転封の寛永16年(1639年)に小川正長(藤左衛門)と小川氏行(九左衛門)が幕府直轄地日田、玖珠、速見郡内約4万1,800石の代官として着任し、1648年(慶安元年)に氏行が西下の途中で事故に遭い死亡、正長も1655年(明暦元年)に死亡し、その子息の行広(又左衛門)と正久(藤左衛門)が日田代官を務めている[2]。この日田代官の小川氏と小川光氏との関係は判然としないが、小川光氏の日田入領は、代官としての赴任であるという説が定説となっている。その一方、中野等(九州大学院教授)は『先哲史料館研究紀要 第3号』中で慶長6年9月7日(グレゴリオ暦1601年10月2日)付けの「豊後国内御知行方目録」を示して、光氏が大名であった可能性を指摘している[3]。