寧宗 (宋)

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寧宗(ねいそう)は、南宋の第4代皇帝光宗の第2子。

概要

1194年、病弱な父が趙汝愚高宗の皇后であった呉氏によって廃立された後に皇帝に即位した。この際に趙汝愚に協力した韓侂冑は寧宗の恭淑皇后韓氏の叔父であったために大きな権力を有するようになり、趙汝愚を排除し独裁体制を確立した。この時に反対勢力の一人でもある朱熹も同時に追放してその理学を禁止している(慶元の党禁)。このような強引な手法で反対派を排除する方法に怨嗟の声は高まっていたが、寧宗は1205年に韓侂冑を平章軍国事に任じたため、なおも実権を掌握され続けた。皇后韓氏が死去し政権の後ろ盾を失った韓侂冑は、権力維持のためにに対する大規模な北伐を計画した。しかし準備が不十分なこともあり戦況は不利となり、呉曦など金に寝返る将軍も出現する状況となった。この状況下、新しく皇后となっていた楊氏の兄・楊次山史弥遠は、金征討失敗の責任者として韓侂冑の首級と以前よりも不利な和議条件をもって金と講和することに成功し、韓侂冑に代わって権力を掌握した(開禧用兵)。

寧宗には9人の息子がいたがいずれも夭逝していたため、甥にあたる趙竑を後継者としていた。しかし趙竑には史弥遠を排除する動きがあったため、1224年に寧宗が危篤状態になると新たに趙昀が立太子され、寧宗崩御により皇帝に即位した。

家族

妻妾

  • 恭淑皇后韓氏
  • 恭聖仁烈皇后楊氏
  • 曹美人
  • 高平郡夫人閻氏
  • 鍾夫人

  1. 趙某
  2. 趙埈 - 生母:恭淑皇后韓氏
  3. 趙坦 - 生母:恭淑皇后韓氏
  4. 趙增
  5. 趙埛 - 生母:恭聖仁烈皇后楊氏
  6. 趙圻
  7. 趙墌
  8. 趙垍
  9. 趙坻

  • 祁国公主(夭折)

関連項目

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