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太田一吉
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'''太田 一吉'''(おおた かずよし、? - [[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]]))は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]([[大名]])。[[豊臣氏]]の家臣。別名に政信・宗隆・政之・重之・重正などがある。父は[[太田宗清]]。子は[[太田一成]]。飛騨守。小源五。 == 生涯 == 一吉の[[太田氏]]の本姓は[[菅原氏]]で、[[美濃国]]の太田村出身。元々は[[斯波氏]]の家臣であるが、父の宗清は[[織田氏]]に仕えた。 はじめ[[丹羽長秀]]に仕え、長秀の死後は[[豊臣秀吉]]に仕える。[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]では目付役を務め、文禄の役で[[晋州城の戦い]]に参加。文禄の役での失態により[[大友義統|大友吉統]]が改易されると、その旧領であった[[豊後国]]臼杵に6万5,000石を領した。なお、一吉が出世(豊後国の諸大名の中で、6万5,000石は大身であった)できたのは、一吉が[[石田三成]]と親しく、その引き立てが常にあったためといわれている。慶長の役では[[南原城の戦い]]、[[蔚山城の戦い]]に参加。その後、[[福原長堯]]や[[熊谷直盛]]らと共に吏僚派として、[[加藤清正]]、[[福島正則]]ら[[武断派]]と対立することになる。 [[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]では甥の[[太田政成]]を東軍に、息子の一成を西軍に参加させ、自身は病と称して居城の臼杵城に立て籠もっていた。しかし、その態度が一吉が西軍に与していると見なされ、東軍に与した[[黒田孝高|黒田如水]]と[[中川秀成]]に攻められると、降伏した。なお、一吉はこのとき、小身の秀成に降伏することを恥辱として、秀成とは徹底交戦し損害を与えた後([[石垣原の戦い#佐賀関の戦い|佐賀関の戦い]])、かねてから親交があった如水に城を明け渡している。 その後は[[京都]]に隠棲し、元和3年(1617年)に死去した。 {{デフォルトソート:おおた かすよし}} [[category:織豊政権の大名]] [[category:戦国武将]] [[Category:美濃国の人物]] [[Category:16世紀生]] [[Category:1617年没]]
太田一吉
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