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『'''大日本史'''』(だいにほんし)は、[[日本]]の[[歴史書]]。[[江戸時代]]に[[御三家]]のひとつである[[水戸徳川家]]当主[[徳川光圀]]によって開始され、光圀死後も[[水戸藩]]の事業として継続、[[明治]]時代に完成した。[[神武天皇]]から[[後小松天皇]]まで(厳密には[[南北朝時代_(日本)|南北朝]]が統一された[[1392年]]([[元中]]9年/[[明徳]]3年)までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱う。[[紀伝体]]の史書で、本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)。 『大日本史』は光圀死後の1715年([[正徳 (日本)|正徳]]5年)、藩主[[徳川綱條]]による命名で、同時代には『本朝史記』や『国史』『倭史』と呼ばれている。質の高い[[漢文]]体で書かれ、記事には出典を明らかにし、考証にも気を配っている。 == 概要 == 『義公行実』など各種伝記史料によれば、水戸徳川家世子として教育を受けていた青年時代の光圀は非行も多かったが、1645年(正保2年)に『[[史記]]』「伯夷伝」を読んで[[伯夷・叔斉]]に感銘を受け、以来は反省して学問に精励し、史書編纂を志したという。世子時代の[[1657年]](明暦3年)には[[明暦の大火]]で[[小石川]]藩邸が焼失して[[駒込]]別邸へ移り、ここで史局を開発し編纂事業を開始する。史局ははじめ[[茶屋]]を利用して史局員を付け、後に火事小屋御殿に移して文庫も設置した。日本では『[[日本書紀]]』以下[[六国史]]など史書は[[編年体]]で編纂されるのが常で、『史記』のような紀伝体の史書が編纂された先例はなく、史館員からの反対意見もあったという。修史事業の動機には、幕府の編纂が行われていたことや、明暦の大火でその資料が亡失したこと([[江戸城]]本丸もこの時焼失した)、[[林羅山]]の死などが契機になったと考えられている。 その後、光圀は父[[徳川頼房|頼房]]の死去により家督を相続し、公務が多忙となったため事業からは遠ざかっていたが、幕府では1662年([[寛文]]2年)に[[林鵞峰]]に命じて編年体の史書『[[本朝通鑑]]』の編纂を開始しており、光圀は林鵞峰を藩邸に招いて面談し、編纂方針や正統問題について質問している。1672年には編纂事業を本格化させ、駒込別邸の史館を小石川本邸へ移転し、「[[彰考館]]」と改めた。史館員も増員し、遠隔地へ派遣して史料収集を行い、特に南朝関係の史料を広く収集している。また、光圀は日本へ亡命した[[明]]朝遺臣である[[朱舜水]]を招聘し、彼らより歴史の正統性の意味を諭された。特に、南北朝時代の南朝方武将[[楠木正成]]の忠誠心を朱舜水に示唆された(そもそも日本の正史にとって、北朝と南朝のどちらをとるのかは最大の選択「本朝の大事」だった)。さらに、[[北畠親房]]の『[[神皇正統記]]』の影響を受けており、[[林羅山]]父子が執筆していた歴史書『[[本朝通鑑]]』の草稿に、[[大和民族]]([[日本人]])を「[[呉 (春秋)|呉]]の[[太伯]]の末裔である」という記述を発見して憤慨したという。 1676年([[延宝]]4年)6月には[[神武天皇]]から[[後醍醐天皇]]までの本紀が清書され、[[天和 (日本)|天和]]年間には『新撰紀伝』104巻として完成するが、光圀は[[南北朝合一]]の[[後亀山天皇]]期まで扱う必要性と内容上の不備を感じ、同年には彰考館に総裁を置いて機構を改革し、新館を新築して史館員も増員させ、国史以外にも詩文集など編纂事業が拡大していった。光圀は1690年(元禄3年)に[[西山荘]]へ隠棲すると、国史以外の各種事業を停止して本紀の完成を促進させ、1697年には「百王本紀」として完成させる。 1715年(正徳5年)には藩主綱條により書名が裁定され、水館の主張する『皇朝新史』と江館の『大日本史』の間で論争があり後者に決定し、同年の光圀忌日には清書本(正徳本)が光圀廟に供えられた。また、[[享保]]5年にはさらに校訂を加えた享保本が幕府に献上されている。1737年([[元文]]2年)に光圀死後の事業を主導してきた[[安積澹泊]]が死去すると事業は休止する。 江戸後期には彰考館総裁の[[立原翠軒]]により、1799年(寛政11年)の光圀百年忌に備えた刊行のため、校訂作業が進められた。また、書名に国号を冠することや論賛の是非について、立原と史館員の[[藤田幽谷]]の間で対立が発生し、江館と水館の党派的対立に発展している(史館動揺)。[[明治]]以後は水戸徳川家の事業として[[栗田寛]]を中心に残された「志」「表」の編纂が進められた。[[1906年]](明治39年)に10代藩主[[徳川慶篤|慶篤]]の孫にあたる[[徳川圀順]]が完成させるまで、1645年(正保2年)光圀が学を志してから数えて261年(満260年)、1657年(明暦3年)光圀が史局を開発してから数えて249年(満248年)の歳月を要した(ただし、本紀・列伝は光圀存命中にはほぼ完成しており、[[幕末]]以後何度か刊行されている)。 草稿などは[[彰考館徳川博物館]]に所蔵されている。 ==特色== 次の点が三大特色とされる。 # [[神功皇后]]を皇后伝に列した。 # [[弘文天皇|大友皇子]]を帝紀に列した。 # [[南朝 (日本)|南朝]]正統論を唱えた。 全体的に[[水戸学]]=[[大義名分]]論とする[[尊皇論]]で貫かれており、[[幕末]]の思想に大きな影響を与えた。[[天皇の一覧|歴代天皇]]が現在のものに改編されたのも『大日本史』の影響とされている。近代の歴史学においては[[久米邦武]]が頼山陽の『[[日本外史]]』と共に「劇本の類」と否定的評価を行っている。思想書物としては哲学者[[西田幾多郎]]が「明治大正の間、歴史の名に値するほどの著述」は「水戸の大日本史があるだけである。」として高く評価している。 ==参考文献== *[[平泉澄]]編『大日本史の研究』([[立花書房]]、1957年11月) *[[鈴木暎一]]『徳川光圀』([[吉川弘文館]]、2006年) ==関連項目== *[[尊皇攘夷]] - [[攘夷論]] *[[勤王]] *[[大日本野史]] ==外部リンク== *[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40012387&VOL_NUM=00001 大日本史](画像データ) *[http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/dainihonsi/dainihon.htm 大日本史](テキストデータ・[[繁体字|繁体]][[中国語]]) {{DEFAULTSORT:たいにほんし}} [[Category:1900年代の書籍]] [[Category:江戸時代の歴史書]] [[Category:明治時代の歴史書]] [[Category:徳川光圀]] [[Category:水戸学]] [[Category:水戸藩]]
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