吾彦

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吾 彦(ご げん、生没年不詳)は、中国三国時代からにかけての武将。西晋に仕えた。士則揚州呉郡呉県の人。『晋書』に伝がある。

経歴

出自は貧しかったが文武の才能があった。身長が八尺あり、猛獣を素手で仕留めるなど力があったため採り立てられ、通江史となった。薛珝の姿が堂々としているのを見て感心していたところ、ある人から「あなたも薛珝と同じぐらいには出世するだろう」と慰められた。後に陸抗に見出され、抜擢された。272年歩闡が呉に対して反乱を起こしたときも、陸抗に従って参加している(『三国志』呉志「陸抗伝」)。

その後、建平太守となった。279年長江上流から流れてくる多数の木屑を見て、晋が軍船の建造をしていると予測し、孫皓に対して建平の守備を強化するよう上奏したが、容れられなかった。晋軍が侵攻してくると、諸城が降伏していく中で、吾彦は長江に鉄鎖を張り巡らせるなど防備を固め、最後まで抵抗した。しかし孫皓が降伏したことを知ると、自らも開城し降伏した。

晋代には金城太守となった。あるとき、武帝が呉の旧臣である薛瑩に対し、呉がなぜ滅びたかを質問したところ、薛瑩は孫皓の悪政を正直に述べた。それと同じ質問を吾彦にしたところ「孫皓は英明であり、呉の将兵も精鋭ばかりであった。よって、呉の滅亡は天命だったのだ」と述べた。つづく張華の質問に対しても、正々堂々と論述した。

燉煌太守を務め、恩寵に溢れた統治を行ない、雁門太守となった。やがて順陽王の司馬暢の下で内史となったが、司馬暢にその清廉な人柄を敬遠されたため、員外の散騎常侍となった。ある人に、かつて仕えていた陸抗・陸喜の人物について尋ねられたところ、吾彦は「徳や名望では陸抗は陸喜に及びません。しかし功績を立て賞賛されることでは、陸喜が陸抗に及びません」と評価し、かつての恩人である陸抗のみを立てるようなことは言わなかった。そのため、陸抗の子陸機陸雲には疎まれるようになり、吾彦から陸家への贈り物は拒否されるようになったという。その後、吾彦の悪口を繰り返す陸機・陸雲に対し、尹虞が「古代より賤しい身から出世した者には帝王さえいるのです。たかが公卿くらいがどうだと言うのです。(中略)あなた方は士則(吾彦)どのがご下問に対してちょっと褒めなかったくらいのことで、ひっきりなしに悪口を言っておられますが、南方の人々が皆あなた方を見捨てて、あなた方が一人ぼっちになりやしないかと心配です。」と忠告したため、陸機らはの気持ちもようやく解けていったという。

陶璜が没すると、後任の南中都督交州刺史となって、二十年ほどその任務にあたり、各地の反乱鎮圧に努めた。その後、中央に戻り大長秋となり没した[1]

資料

脚注

  1. 陶璜は270年前後に虞汜の後を継いで交州刺史となり、三十年前後も長きに亘って交州を統治したので、記述が正しければ、陶璜と吾彦の二人で約半世紀にわたり交州を統治した事になる。また、吾彦は陶璜が没した300年前後に交州刺史となり、320年前後に中央へ戻っているので、呉の滅亡八王の乱永嘉の乱東晋の成立を体験していることからすると、かなりの長寿で亡くなった事になる。
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