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[[Image:Saga plain creek.jpg|thumb|right|250px|佐賀県[[千代田町 (佐賀県)|千代田町]](現[[神埼市]])付近のクリーク地帯。国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省、1974年撮影。]] [[Image:Shiroishi town Ariake kantaku.jpg|thumb|right|250px|佐賀県[[福富町]](現[[白石町]])付近の干拓。国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省、1981年撮影。]] '''佐賀平野''' ('''さがへいや''')は、[[佐賀県]][[佐賀市]]を中心として、佐賀県南部から佐賀県東部にかけて広がる[[平野]]である。[[筑紫平野]]のうち、[[筑後川]]より西の地域を特に指して呼ぶ名称。典型的な[[沖積平野]]であり、現在も拡大が続いているため、河成平野に分類される。 == 範囲 == 佐賀平野と言えば、多くの場合、南は佐賀県[[鹿島市]]から、北は佐賀県[[鳥栖市]]までの平野のうち佐賀県内の部分を指す。しかし、東隣にも平野は広がっている。このうち南のほうの平野は[[筑後平野]]と呼ばれている。また、北のほうは[[筑後川]]周辺に広がった[[河岸段丘]]となっており、北野地域とよばれている。そして前述の地域全体を、大きく[[筑紫平野]]と呼んでいる。 小城市や久保田町より西の佐賀平野は、'''白石平野'''または白石地域と呼ぶことがある。これに対してそれより東の地域を佐賀地域と呼ぶ。 佐賀平野の北は[[脊振山地]](大きく見れば[[筑紫山地]])に接しており、[[鳥栖市]]から[[小城市]]付近までは[[長崎自動車道]]がちょうど[[平野]]と[[山地]]の境界になっている。南は[[有明海]]に接している。東に[[筑後川]]があり、この川が佐賀平野と[[筑後平野]]の境界となっている。 佐賀平野の面積は約700km²で、佐賀県の総面積の3分の1を占めている。また、佐賀県の人口の半分(約40万人)を有する。 == 平野の拡大 == 筑紫平野の大部分と同様、佐賀平野も河川の運搬によって土砂が堆積して拡大してきた平野である。[[筑後川]]と同水系の諸河川をはじめとして、[[嘉瀬川]]、[[六角川]]、[[塩田川]]など(以上東から順に並ぶ)多数の河川が並ぶ。堆積量は東へ行くほど多く、筑後川がもっとも多くなる。また、[[江戸時代]]以降には海岸で[[干拓]]が行われ、さらに陸地が拡大した。明治から昭和中期までは行政が中心となった大規模な干拓事業も行われた。有明海沿岸の地域には「搦」や「拓」といった干拓特有の地名が多く見られる。 2000年前([[縄文時代]])は現在[[長崎自動車道]]が通っているあたり、400年前(江戸時代)は、現在[[九州旅客鉄道|JR]][[長崎本線]]が通っているところあたりが海岸線であった(神埼市より東ではさらに南にあった)と推定されている。その後の[[自然陸化]]や干拓によって陸地が広がったため、[[地盤]]が軟弱であった。。 == 農業 == 佐賀平野は九州でも有数の穀倉地帯である。既に[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、[[米]]の生産が盛んになっており、[[戦国大名]][[龍造寺氏]]の勢力は、佐賀平野南部の土豪であった[[鍋島氏]]、[[肥前石井氏|石井氏]]、[[太田氏]]、[[鹿江氏]]、[[南里氏]]らの豊かな財力により支えられた。 現在でも、佐賀平野は、[[地形図]]や土地利用図などを見て分かるように、[[水田]]が広がっており、米の生産が盛んである。これらの水田に灌漑用水を導くため、[[クリーク]]と呼ばれる水路が各地に見受けられる事は佐賀平野最大の特徴とされる。ただし、クリークが[[農業機械]]の導入を困難にしていたことなどから、戦後は農地の区画整理が進んだ。水路が直線的になるところが増えたり、小規模なクリークがまとまって1つになったりしたことで、クリークは減りつつある。 佐賀平野の稲作は、[[1920年代]]後半から[[1930年代]]前半に大きく発展した。クリークから電動[[ポンプ]]で取水を行うようになり効率がアップしたこと、[[品種改良]]が進み、それに合わせて[[肥料]]の改良が進むなどしたことで、飛躍的に効率が伸び、農家の意欲が増したことなどが原因ではないかと考えられている。この発展期は佐賀段階(第一次佐賀段階)と呼ばれた。 佐賀段階後はいったん発展が停滞したものの、[[1950年代]]後半から[[1960年代]]にかけて再び発展した。国営[[嘉瀬川]]農業水利事業に伴う[[北山ダム]]と川上頭首工の建設、嘉瀬川を水源とする用水路網の整備が行われたことに加え、農法や農作業を広域的に統一することで収量を伸ばした。この発展期は新佐賀段階(第二次佐賀段階)と呼ばれた。 また、佐賀平野は米と[[コムギ|小麦]]・[[大麦]]の[[二毛作]]を行っていることも大きな特徴の1つである。6月に水入れ・田植えを行い、10月ごろに[[稲刈り]]を行い、[[野焼き]]によって[[藁]]を[[灰]]にして肥料とする。11月下旬ごろに麦が植えられ、3月ごろ収穫となり、再び野焼きを行う。佐賀県は[[田植え]]が47都道府県の中て最も遅い(平均6月16日)という統計結果もあるが、晩生種が多いことと二毛作の影響によるものだとされている。ちなみに、稲刈り後から麦植えまでの農地が「空いている」期間に合わせて[[佐賀インターナショナルバルーンフェスタ]]が行われ、佐賀平野中西部の広範囲で[[熱気球]]が離着陸する。 また、温暖な[[気候]]や粘土質で水持ちがよい土壌などを活かした[[たまねぎ]]や[[れんこん]]、[[イチゴ]]の生産も盛んで、佐賀県第一の農業地帯になっている。 == 地盤沈下 == 軟弱な地盤の影響で、佐賀平野は日本でも有数の[[地盤沈下]]地帯となっている。1950年代から始まったと見られ、1960年には白石地域北部で大規模な沈降による窪みが出現し広く知られるようになった。その後も断続的に地盤沈下は進み、1994年には1年間で16cmという過去最大の沈降を観測した。主因は地下水の過剰な汲み上げと見られており、上下水道や農業用水路の整備が進んだ佐賀市方面では沈下は緩やかになってきている。白石地域でも地下水取水量は減少しているものの、更なる削減が必要だと見られている。 == 地質 == 表層は[[有明粘土層]]、次に[[島原海湾層]]、阿蘇[[溶結凝灰岩]]と順に並ぶ。地下50m~120mには砂礫層があり、[[帯水層]]を形成している。 == 気候 == 北と西は直接、東は筑後平野を隔てて筑紫山地に接し、南東や南西は山地や丘陵地に囲まれており、唯一南側だけは有明海に接している状況で、[[内陸性気候]]の様相を呈している。佐賀県内はもとより、九州でも[[熊本平野]]に次いで、夏の最高気温が高い地域である。 == 出典 == *[http://www.maff-kyushu-nn.go.jp/new/17/mizu/mizu01.html 佐賀平野の水と大地の歴史] 九州農政局 佐賀中部農地防災事業所 *[http://www.toukei.maff.go.jp/dijest/kome/kome05/kome05.html 5 米のできるまで] グラフと絵で見る食料・農業, 農林水産省。 *[http://www.nishitech.ac.jp/%7Ezhou/research/contents/reserach/sagaGroudwater.pdf GIS を用いた水循環 -地盤沈下時空解析システムの構築 ― 筑後佐賀平野を例として ―] 周国云, 江崎哲郎, 三谷泰浩, 西日本工業大学 周研究室 == 関連項目 == *[[日本の地理]] *[[筑紫平野]] [[Category:日本の平野|さがへいや]] [[Category:佐賀県の地理|さがへいや]]
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