明治用水

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明治用水(めいじようすい)は、西三河南西部に農業用、工業用のを供給する用水である。幕末明治維新期に、全国に先駆けて測量・開削が行われた近代農業用水だったため、明治という元号を冠するエポックメイキングな命名がされた。大正時代には、農業王国として、中原に位置する安城市が「日本デンマーク」と称して教科書に掲載されるほど、画期的な成功を収めた。安城ヶ原の開発により、10万以上の収量となった。(当時、岡崎藩が5万石)

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頭首工(豊田市)

概要

愛知県豊田市にて矢作川から取水し安城市、豊田市、岡崎市西尾市碧南市高浜市刈谷市知立市に水を供給している。

本流、西井筋、中井筋、東井筋の幹線と支線から成り、幹線は88km支線は342kmある。灌漑面積は約7000ヘクタール。

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都築弥厚像。安城市弥厚公園

歴史

都築弥厚の計画

明治用水の計画は江戸時代に始まる。 碧海郡和泉村(現安城市和泉町)の豪農都築弥厚(つづきやこう 1765年-1833年)の碧海台地に矢作川の水を引き開墾を行うという計画である。(現在の本流、東井筋、中井筋) 都築は1822年に用水路の測量に着手し、1826年に測量が完了した。翌年には開墾計画を『三河国碧海郡新開一件願書』にまとめ、幕府勘定奉行に提出した。願書によると碧海台地が原野のままである理由は用水がないためであるとし、越戸村(現豊田市平戸橋町)で矢作川の水を分水し、台地上に水路を建設するといった計画であった。1833年幕府は都築の計画を許可したが、同年都築は病没した。

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水路が地下に埋められた箇所の一部は自転車道として整備されている。(安城市)

伊豫田与八郎・岡本兵松の計画

都築の死後、地元の反対もあり計画は頓挫していた。一方岡崎の庄屋伊豫田与八郎(いよだよはちろう 1822年-1895年)は栗寺村(現豊田市)ら支配地域の排水を改善するために用排水計画を立案し、1851年岡崎藩に提出した。この計画は水路地のある刈谷藩、板倉藩の了解が得られなかったので頓挫した。明治維新後の1872年額田県に悪水路計画を提出した。

都築家が所有していた石井新田(現安城市石井町)の開拓農民であった岡本兵松(おかもとひょうまつ 1821年-1903年)は、当時開墾したばかりで畑地ばかりだった新田に水路を作り水田に変えるべきだと考えた。都築の計画を知った岡本はその実現を決意し、1868年京都民政局に計画を提出した。維新の混乱期で行政機関がめまぐるしく変わったためたらい回しを受けた。そのため、1872年額田県に計画を提出した。

伊豫田・岡本の計画の合併と明治用水の完成

伊豫田・岡本の計画の提出を受けた県庁の働きかけにより両者の計画は合併することになり、伊豫田・岡本は1875年愛知県令に用水路掘割溜池不毛地開拓再願書を提出した。この計画に対して地元農民は反対する者が多かったが説得に当たった岡本は「工事ができあがれば、恨む村は三か村、喜ぶ村は数十か村、なにほどのこともない。」と述べたといわれる。1879年に本流の工事が開始され、1890年には完成式典が挙行された。また、同年には中井筋、東井筋の工事が始まり完成している。西井筋は1891年に完成した。またこの年に明治用水と命名された。

明治用水の発展

老朽化が目立った1932年に県営明治用水幹線改良事業が始まる。(1942年終了) 1971年には国営矢作川総合農業水利事業明治用水地区工事が開始され暗きょ化などの近代化が進んだ。

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暗きょ化された水路

明治川神社

明治川神社は愛知県安城市東栄町にある神社1885年建立。都築、伊豫田、岡本ら明治用水建設の功労者が祀られている。例祭は4月18日

明治用水関係者が祀られている神社としてはこのほかに水源神社(豊田市水源町)がある。

外部リンク

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