不動明王
テンプレート:Sidebar テンプレート:密教 不動明王 (ふどうみょうおう)、梵名アチャラ・ナータ (अचलनाथ [acala naatha])は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。また、五大明王の中心となる明王でもある。真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。
目次
概要
密教の根本尊である大日如来の化身、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものであると見なされている。「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王(だいにちだいしょうふどうみょうおう)、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれる。アジアの仏教圏の中でも特に日本において根強い信仰を得ており、造像例も多い。真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もある。御縁日は毎月28日である。
真言・種子・三昧耶形
【真言】
不動明王の真言には以下のようなものがある。 一般には、不動真言の名で知られる、小咒(しょうしゅ)、一字咒(いちじしゅ)とも呼ばれる真言が用いられる。
「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」
(namaH samanta vajraaNaaM haaM)
また、長い真言には、大咒(たいしゅ)、火界咒(かかいしゅ)と呼ばれる真言がある。
「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」
(namaH sarvatathaagatebhyaH sarvamukhebhyaH, sarvathaa traT caNDamahaaroSaNa khaM khaahi khaahi sarvavighanaM huuM traT haaM maaM)
その中間に位置する、中咒(ちゅうしゅ)、慈救咒 (じくしゅ)と呼ばれる真言も知られる。
「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」
(namaH samanta vajraaNaaM, caNDamahaaroSaNa sphoTaya huuM traT haaM maaM)
大意:「激しい大いなる怒りの相(すがた)を示される不動明王よ。迷いを打ち砕きたまえ。障りを除きたまえ。所願を成就せしめたまえ。カン マン。」[1]
(なお、真言を唱える際には個別の潅頂[※ 1][2]を必要とし[※ 2][3][4][5][6][7][8]、正しく潅頂を得ていない場合には[※ 3][9][10]、密教の三昧耶戒に違反し、その功徳を失う。[※ 4][11][12][13][14][15][16][17][18][19][20][未潅頂者 請勿誦呪][※ 5][21])
【種子】
種子(種字)はカーン(haaM)、或いはカンマーン(hmmaaM)。
【手印】
- 不動根本印
- 不動剣印
【三昧耶形】
起源
不動明王の起源は、ヒンドゥー教の最高神シヴァ神にあるとの説が有力である。梵名のアチャラナータもヒンドゥー教ではシヴァ神の別名とされている。密教がヒンドゥー教を取り込むために、シヴァ神を不動明王として大日如来の眷属とする一方で降三世明王がシヴァ神を屈服させたとしたものと思われる。梵名の「アチャラ」は「動かない」、「ナータ」は「守護者」を意味し、全体としては「揺るぎなき守護者」の意味である。チベット仏教などではこの名よりもチャンダ・マハーローシャナ (चण्डमहारोषण [caNDamahaaroSaNa])即ち暴悪忿怒尊の名でより知られる。しかし、こちらは三眼で毛皮を身に纏い髪が逆立っているなど、日本に伝えられた不動明王とは図像的にやや異なるものである。
空海(弘法大師)が唐より密教を伝えた際に日本に不動明王の図像が持ち込まれたと言われる。「不動」の尊名は、8世紀前半、菩提流志(ぼだいるし)が漢訳した「不空羂索神変真言経」に「不動使者」として現れるのが最初である。「使者」とは、大日如来の使者という意味である。大日如来の脇待として置かれる事も多い
密教では三輪身といって、一つの「ほとけ」が「自性輪身」(じしょうりんじん)、「正法輪身」(しょうぼうりんじん)、「教令輪身」(きょうりょうりんじん)という3つの姿で現れるとする。「自性輪身」(如来)は、宇宙の真理、悟りの境地そのものを体現した姿を指し、「正法輪身」(菩薩)は、宇宙の真理、悟りの境地をそのまま平易に説く姿を指す。これらに対し「教令輪身」は、仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる、外道に進もうとする者はしょっ引いて内道に戻すなど、極めて積極的な介入を行う姿である。不動明王は大日如来の教令輪身とされる。煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。
また、密教経典によれば、不動明王とは釈迦が悟りを開いた菩提樹下の坐禅中に煩悩を焼きつくしている姿だとしている。釈迦が成道の修行の末、悟りを開くために「我、悟りを開くまではこの場を立たず」と決心して菩提樹の下に座した時、世界中の魔王が釈迦を挫折させようと押し寄せ、釈迦に問答を挑んだり、千人の少女に誘惑させたりしたところ、釈迦は穏やかな表情のまま降魔の印を静かに結び、魔王群をたちまちに説破し、超力で降伏したと伝えられるが、不動明王はその際の釈迦の内証を表現した姿であるとも伝えられる。穏やかで慈しみ溢れる釈迦も、心の中は護法の決意を秘めた鬼の覚悟であったというものである。他にも忿怒の相は、我が子を見つめる父親としての慈しみ=外面は厳しくても内心で慈しむ父愛の姿を表現したものであると言われる。[※ 6]
伝承
唐の不空が訳した密教経典「底哩三昧耶不動尊聖者念誦秘密法」(ちりさんまやふどうそんしょうじゃねんじゅひみつほう)には、大自在天(ヒンドゥー教の最高神シヴァ)を不動明王が調伏する説話がある。
それによると、大日如来が悟りを開いて仏陀になったとき、ありとあらゆる三界の生き物たちが集会に来たが、自分こそ三千世界の主と考え慢心する大自在天だけは招集に応じなかった。
大自在天は「持明者(インドの魔法を使う精霊、ここでは夜叉明王)が使いとして来るだろうが、奴らは不浄なものを嫌うから、不浄なものを幻術で作り出し四方に張り、その中にいれば持明者の明術も役に立つまい」として結界を張り、近寄れないようにした。
不動明王が大自在天を呼びに行くと不浄の結界で覆われていたので、不動明王は不浄金剛(烏枢沙摩明王)を召還し、不浄を食らい尽くさせた。そして、ただちに不動明王は大自在天を捕らえて仏陀の元へ連行する。
しかし大自在天は「汝らは夜叉に過ぎぬが、私は神々の王なのだ」と言い何回も逃げ続けた。仏陀が「断罪すべし」と命ずると、大自在天とその妃(ウマー)を踏み殺し絶命させたのだった。(これが降三世夜叉明王の姿である)
そして、大自在天の処分を尋ねると仏陀は「蘇生させよ」と言うので、法界生真言を唱えて復活させた。大自在天は喜び不思議がり「この夜叉は何者なのでしょうか?」と尋ねると、仏陀は「諸仏の主である」と答えた。大自在天は感激し、万物の全てにおいて尊い諸仏の上に、さらに諸仏の主がいることを知り、また彼が不動明王という「大王」のお陰で将来仏になれる授記をも得たのだった。
ここでは、不動明王のことを、夜叉、大王、諸仏の主と呼んでいるのが特徴的である。
像容
密教の明王像は多面多臂の怪異な姿のものが多いが、不動明王は一面二臂で降魔の三鈷剣(魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切る)と羂索(けんじゃく。悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を縛り吊り上げてでも救い出すための投げ縄のようなもの)を持つのを基本としている(密教の図像集などには多臂の不動明王像も説かれ、後述のように日蓮は四臂の不動明王を感得しているが、立体像として造形されることはまれである)。剣は竜(倶利伽羅竜)が巻き付いている場合もあり、この事から「倶利伽羅剣」と呼ばれている。
また、その身体は基本的に醜い青黒い色で表現される像容が多い。これはどぶ泥の色ともいわれ、煩悩の泥の中において衆生を済度せんことを表しているといわれる。しかし底哩経などには、身体の色は青黒か赤黄とあり、頂は七髷か八葉蓮華、衣は赤土色、右牙を上に出し左牙を外側に出す、というのが一般的とされる。
人間界と仏界を隔てる天界の火生三昧(かしょうざんまい。人間界の煩悩や欲望が天界に波及しないよう烈火で焼き尽くす世界)と呼ばれる炎の世界に住している。不動明王は多くの明王の中でも中心的な存在であり(五大明王の中でもリーダー格である)、像容は肥満した童子形に作ることが多く(『大日経』の出典による)、怒りによって逆巻く髪は活動に支障のないよう弁髪でまとめ上げ、法具は極力付けず軽装で、法衣は片袖を破って結んでいる。その装束は古代インドの奴隷ないし従者の姿を基にしたものとされ、修行者に付き従いこれを守る存在であることを表している。右手に剣、左手に羂索を握りしめ、背に迦楼羅焔(かるらえん。迦楼羅の形をした炎)を背負い、憤怒の相で岩を組み合わせた瑟瑟座(しつしつざ)か、粗岩(岩座ともいい、仏典では「磐石」。「金剛石」とあるのでダイヤモンドの原石である)の上に座して「一切の人々を救うまではここを動かじ」と決意する姿が一般的である(日本では坐像の他、立像も数多く存在している)。以下に典型的な像の形を示す。
- 東寺型 東寺講堂の空海作の坐像が典型で、ほぼ前述の通り。不動明王像では非常に多い形である。
- 浪切不動型 高野山南院の立像が典型。空海作。剣をかざす立像で、波を斬るような像容である。
- 黄不動型 園城寺の画像が有名。円珍が感得した像。体型はスリムで成人男性。金色で立像という異例の像[※ 7]。
インドで起こり、中国を経て日本に伝わった不動明王であるが、インドや中国には、その造像の遺例は非常に少ない。日本では、密教の流行に従い、盛んに造像が行われた。日本に現存する不動明王像のうち、平安初期の東寺講堂像、東寺御影堂像などの古い像は、両眼を正面に見開き、前歯で下唇を噛んで、左右の牙を下向きに出した、現実的な表情で製作されていた。しかし時代が降るにつれ、天地眼(右眼を見開き左眼を眇める、あるいは右眼で天、左眼で地を睨む)、牙上下出(右の牙を上方、左の牙を下方に向けて出す)という、左右非対称の姿の像が増えるようになる。これは10世紀、天台僧・安然らが不動明王を観想するために唱えた「不動十九観」に基づくものである。
また、日蓮宗系各派の本尊(いわゆる十界曼荼羅)にも不動明王が書かれている為、日蓮宗でも不動明王を奉安する寺院が存在する[※ 8]。愛染明王と同様、空海によって伝えられた密教の尊格であることから、日蓮以来代々種子で書かれている。なお日蓮の曼荼羅における不動明王は生死即涅槃を表し、これに対し愛染明王は煩悩即菩提を表しているとされる。
不動三尊・不動八大童子
不動明王は、八大童子と呼ばれる眷属を従えた形で造像される場合もある。ただし、実際には八大童子のうちの2名、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒(多)迦童子(せいたかどうじ)を両脇に従えた三尊の形式で絵画や彫像に表されることが多い(不動明王二童子像または不動三尊像と言う)。三尊形式の場合、不動明王の右(向かって左)に制吒迦童子、左(向かって右)に矜羯羅童子を配置するのが普通である。矜羯羅童子は童顔で、合掌して一心に不動明王を見上げる姿に表されるものが多く、制多迦童子は対照的に、金剛杵(こんごうしょ)と金剛棒(いずれも武器)を手にしていたずら小僧のように表現されたものが多い。
八大童子の残り六名は、慧光(えこう)童子、慧喜(えき)童子、阿耨達(あのくた)童子、指徳(しとく)童子、烏倶婆伽(うぐばが)童子、清浄比丘(しょうじょうびく)である。これら八大童子の彫像の作例としては、高野山金剛峯寺不動堂に伝わった国宝の像がよく知られる なお、不動明王の眷属として八大童子を配することは、サンスクリット経典には見えないようで、中国で考案されたものと言われている。この他に三十六童子、四十八使者と呼ばれるものがある。
また東寺のように五大明王と呼ばれる主要な明王の中央に配されることも多い。
主な経典
- 聖無動尊大威怒王秘密陀羅尼経 (しょうむどうそん だいいぬおう ひみつだらにきょう)
- 大日如来の大法会で普賢菩薩が文殊菩薩と衆生に向かって自らの感得した不動明王について教えを説き、大日如来がお墨付きを与えるという筋書き。なお太平記において日野資朝の息子阿新丸による仇討ちの話中、行者が明王に祈念して舟で追手の手から逃げのびるシーンは、「大法の船を設け普く苦海を度して彼岸に到らしむる」という部分へのオマージュである。
- 仏説聖不動経(ぶっせつ しょうふどうきょう)
- 前述の経典の教えのエッセンスを短くまとめたもので、日本で成立したもの。不動明王自身が教えを説くという形式を採る。衆生の心の有り方は一様でない(悟りに到る道も個々によって異なる)ので心の中に住み(修行者自身が不動明王である)、各々に合わせて姿を変え願いを叶えるという内容が説かれている。
- 稽首聖無動尊祕密陀羅尼経(けいしゅ しょうむどうそん ひみつだらにきょう)
- 印を結ぶ動作が加わるなど、密教色の極めて強いものとなっている。
以下四つは他の尊格や日本の神々をも代表する存在であるとした讃嘆経に類するもの。他の神仏に優る超越的絶対者としてではなく、衆生の心のあり方は一様でないので悟りに到る道も個々によって異なるという前述の思想を受けたものと考えられている。
- 不動尊劔の文
- 不動尊祈り経
- 不動明王利益和讃
- 五體加持
その他、関連するものとして
- 五大力
- 南無三十六童子
- 南無八大童子
があるが、いずれも典拠は明らかではない。
不動明王を祀る主な日本の寺院
- 宮城・松島瑞巌寺五大堂 (秘仏)木造不動明王坐像(五大明王のうち)(平安時代、重要文化財)
- 埼玉・總願寺(不動ヶ岡不動尊)
- 埼玉・常楽院(高山不動尊) 木造軍荼利明王立像(平安時代、重要文化財)
- 埼玉・狭山山不動寺(狭山不動尊)
- 千葉・成田山新勝寺 木造不動明王二童子像(鎌倉時代、重要文化財)
- 千葉・弘行寺(長生不動尊)木造不動明王立像(平安時代)
- 東京・瀧泉寺(目黒不動)
- 東京・金剛寺(高幡不動) 木造不動明王二童子像(平安時代、重要文化財)
- 神奈川・大山寺 鉄造不動明王二童子像(鎌倉時代、重要文化財)
- 富山・日石寺 不動明王坐像(凝灰岩磨崖)(平安時代、重要文化財)
- 福井・圓照寺 木造不動明王立像(平安時代、重要文化財)
- 滋賀・延暦寺 木造不動明王立像(鎌倉時代、重要文化財)
- 滋賀・石山寺 木造不動明王坐像(平安時代、重要文化財)
- 滋賀・西明寺 木造不動明王立像(平安時代、重要文化財)
- 京都・東寺講堂 木造不動明王坐像(五大明王のうち)(平安時代、国宝)
- 京都・東寺御影堂 木造不動明王坐像(平安時代、国宝 秘仏)
- 京都・鹿苑寺(金閣寺) 石造不動明王像
- 京都・同聚院(東福寺塔頭) 木造不動明王坐像(平安時代、重要文化財)
- 奈良・東大寺法華堂 木造不動明王二童子像(南北朝時代、重要文化財)
- 奈良・新薬師寺 木造不動明王二童子像(平安時代、重要文化財)
- 奈良・唐招提寺 木造不動明王像(江戸時代、重要文化財)
- 奈良・長谷寺 木造不動明王坐像(平安時代、重要文化財)
- 大阪・観心寺 木造不動明王坐像(南北朝時代、重要文化財)
- 大阪・瀧谷不動明王寺 木造不動明王二童子像(平安時代、重要文化財)
- 和歌山・金剛峯寺 木造不動明王立像(平安時代、重要文化財)
- 和歌山・金剛峯寺(護摩堂) 木造不動明王坐像(鎌倉時代、重要文化財)
- 和歌山・高野山南院 木造不動明王立像 (波切不動)(平安時代、重要文化財)
- 兵庫・神呪寺 木造不動明王坐像 (平安時代、重要文化財)
- 鳥取・不動院岩屋堂 木造不動明王像 (黒皮不動)(伝平安時代)
- 香川・成田山聖代寺 不動明王像
- 熊本・天台宗・雁回山長寿寺 木造不動明王像(金錦不動、火伏不動、水引不動)(伝延暦年間782~805)
- 沖縄・安国寺 木造不動明王像
三不動
他説もある。特に広辞苑等では「三不動」として以下の組み合わせが併載されている。
五色不動
関連霊場
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『不動さま入門』 大法輪閣<大法輪選書>、1981年刊、ISBN 978-4804650043
渡辺照宏・宮坂宥勝・西山松之助・宮家準・山崎照義・村岡空。- なお渡辺には、『不動明王』朝日選書(初版1975年刊、ISBN 978-4022591357)がある。
- 松原哲明 著 『やさしい仏像入門』新星出版社、1999年刊。
- 木村秀明 著 『幻化網タントラにおける潅頂』、印度學佛教學研究第39巻第2號、平成3年刊。
- 宮坂宥勝 著 『講説 理趣経』 -『理趣釈』併録-、四季社、平成17年刊。
- 飯島太千雄 写真・文 『新出・空海書 請来上表』(墨美№286)、墨美社、1978年刊。
- 空海 原著 『秘密三昧耶佛戒儀』、普方金剛大阿闍梨 監修、總持寺出版社、民国70年(1981年)刊。
- 普方金剛大阿闍梨 著 『皈依灌頂儀規』、總持出版社、民国70年(1981年)刊。
- 普方金剛大阿闍梨 口述 『外内密戒律金剛乗十四根本堕講解』、總持寺出版社、民国69年(1980年)刊。
- 普方金剛大阿闍梨 編著 『外内密戒律手冊』、總持寺出版社、民国69年(1980年)刊。
- ダライ・ラマ十四世 著 『ダライ・ラマの密教入門』(文庫版)、石濱裕美子 訳、光文社、2001年刊。
- マルティン・ブラウエン 著 『【図説】曼荼羅大全』、森雅秀 訳、東洋書林、2002年刊。
- 岡坂勝芳 訳 『潅頂のための次第書』、ナムカ・キュンゾン・ダルマ・ソサイェティ 監修、蓮華堂出版部、2006年刊。
- 岡坂勝芳 編著 『金剛乗殊勝心要宝蔵解説』、ギェーパ・ドルジェ・リンポチェ 伝戒・許可、蓮華堂出版部、2003年刊。
- 梶山雄一 著 『仏教タントリズムにおける言葉の問題』(密教学研究 第11号)、日本密教学会、昭和54年(1979年)刊。
- 金剛峯寺 編 『いのちつながる』-松長有慶講演集- 、高野山真言宗総本山金剛峯寺開創法会事務局、平成24年刊。
- 中川善教 著 『中院流諸尊通用次第撮要』、親王院、昭和63年(1988年)刊。
- 稲谷祐宣 編著 『普通真言蔵』全2冊、浄厳 原著、東方出版社、1981年刊。
- 下泉全暁 『不動明王 智恵と力のすべて』2013年 春秋社 ISBN 978-4-393-11908-2
関連項目
外部リンク
引用エラー: 「※」という名前のグループの <ref>
タグがありますが、対応する <references group="※"/>
タグが見つからない、または閉じる </ref>
タグがありません