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一関藩
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'''一関藩'''(いちのせきはん)は、[[江戸時代]]の[[藩]]の一つ。[[陸奥国|陸奥]][[磐井郡]]一関(現在の[[岩手県]][[一関市]])に藩主居館を置いた。この地に[[陣屋]]を置いた[[大名]]家は、いずれも[[仙台藩]]・[[伊達氏]]の[[内分分知]]の分家に当たる一関伊達家と[[田村氏|田村家]]の2家である。前者は11年で[[改易]]・廃藩となったが、後者は180年余り続いて[[明治維新]]を迎えた。以下、後者の田村家一関藩を主として記述する。 == 藩史 == === 前史:伊達政宗の時代 === [[江戸幕府]]が開幕されて[[伊達政宗]]が初代仙台藩主になると、一関は仙台藩領となり、[[慶長]]9年([[1604年]])から政宗の叔父である[[留守政景]]、政景が慶長12年([[1607年]])に死去した後は息子の[[留守宗利]]によって統治された<ref name="一関藩10">大島『シリーズ藩物語 一関藩』、P10</ref>。[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])からは仙台藩蔵入地となる<ref name="一関藩10"/>。 === 伊達宗勝の時代 === [[寛永]]18年([[1641年]])からは政宗の十男で仙台藩第2代藩主[[伊達忠宗|忠宗]]の異母弟の[[伊達宗勝|宗勝]]の領地となる<ref name="一関藩10"/>。[[万治]]3年([[1660年]])に、宗勝は3万[[石 (単位)|石]]の分知を受けてこの地に陣屋を置き、仙台藩の[[内分分知]]大名としての一関藩が正式に立藩した<ref name="一関藩10"/>。ただし、宗勝の所領は後代の田村家と同じ3万石だが、領域は多少異なっていた<ref name="一関藩10"/>。 この年は、仙台藩で事件が起こった年であった。 この2年前に忠宗は死去し、嫡男の[[伊達綱宗|綱宗]]が跡を継いで第3代藩主となるも、綱宗は不行跡を理由に、一関藩が成立した年に逼塞を命じられていた<ref name="一関藩18">大島『シリーズ藩物語 一関藩』、P18</ref>。このため、綱宗の隠居により2歳で藩主となった[[伊達綱村|綱村]]の後見役として、大叔父の宗勝、叔父の[[田村宗良]](忠宗の三男)が選ばれて後見政治が行なわれた<ref name="一関藩18"/>。ところが、幼君の下で藩内で政権をめぐる家老([[奥山常辰]]と[[茂庭定元]])の抗争が起こり、さらに後見である宗勝と宗良の間にも確執が起こるなど、[[伊達騒動]](寛文事件)の下地となる対立が出来上がっていく<ref name="一関藩19">大島『シリーズ藩物語 一関藩』、P19</ref>。 仙台藩の主導権は宗勝の下にあり、宗勝は自らの専断に反対する派閥を徹底して弾圧した<ref name="一関藩19"/>。このため、[[寛文]]11年([[1671年]])に伊達一門の[[伊達宗重]]が<ref name="一関藩19"/>、所領境界問題の裁定を不満として宗勝の専断や不正を幕府に訴えて受理されたことにより、[[伊達騒動]]が発生する<ref name="一関藩20">大島『シリーズ藩物語 一関藩』、P20</ref>。この騒動は、家老の[[原田宗輔]]が宗重に斬りかかって斬殺したことから宗勝一派が逆臣として一掃、失脚した<ref name="一関藩20"/>。宗勝は罪人として[[土佐藩]]にお預けとなり、[[延宝]]7年([[1679年]])に死去した<ref name="一関藩20"/>。息子の[[伊達正興|正興]]や孫の千之助もお預けとなり、後に死亡したことにより宗勝家は断絶した<ref name="一関藩20"/>。一関藩は[[改易]]となり、その領地は仙台藩に収公されて家臣も仙台藩に帰属した<ref name="一関藩21">大島『シリーズ藩物語 一関藩』、P21</ref>。 === 田村家の時代 === [[延宝]]9年([[1681年]])3月に[[岩沼藩|陸奥岩沼]]より[[田村建顕]](宗永)が移封され<ref name="一関藩21"/>、5月2日(5月3日とも)に入封したことにより<ref name="一関藩22">大島『シリーズ藩物語 一関藩』、P22</ref>、再び一関藩が立藩した。 そもそも[[田村氏|田村家]]は三春(現在の福島県田村郡)に根を張る[[戦国大名]]であったが、[[田村清顕]]の時に娘[[愛姫]](陽徳院)を伊達政宗の正室に配することで[[蘆名氏|蘆名家]]や[[相馬氏|相馬家]]と対抗した<ref name="一関藩12">大島『シリーズ藩物語 一関藩』、P12</ref>。しかし清顕が死去すると、田村家は伊達派と相馬派に分裂して抗争し、やがて伊達家に属した<ref name="一関藩12"/>。[[天正]]18年([[1590年]])の[[豊臣秀吉]]による[[奥羽仕置]]において、政宗は惣無事令違反の咎で蘆名領などを没収されたが、田村郡のみは舅の清顕の所領であったことを理由に秀吉に請うて認められ、伊達領として編入した<ref name="一関藩12"/>。このため田村家は改易となり、清顕の甥[[田村宗顕|宗顕]]は旧領復帰のために政宗と対立して[[蒲生氏郷]]を頼り、さらに秀吉に訴えようとしたがその中途で病死し<ref name="一関藩12"/>、田村家は断絶した<ref name="一関藩13">大島『シリーズ藩物語 一関藩』、P13</ref>。 愛姫は実家が断絶したことを嘆き、政宗やその間に生まれた息子の忠宗にたびたび田村家の再興を懇請した<ref name="一関藩14">大島『シリーズ藩物語 一関藩』、P14</ref>。愛姫は忠宗の三男で自らの孫である[[田村宗良|宗良]]を田村家の後継に望んだ<ref name="一関藩14"/>。愛姫は[[承応]]2年([[1653年]])に86歳で没したが、忠宗は同年にその遺言を容れて、宗良に田村家を継承させた<ref name="一関藩15">大島『シリーズ藩物語 一関藩』、P15</ref>。宗良は名取郡で岩沼藩3万石を立藩し<ref name="一関藩19"/>、伊達宗勝と共に伊達綱村の後見役となっていたが、宗勝との叔父・甥の関係から確執、宗良の温厚な性格と病弱、宗勝の才気煥発と強引な性格により、[[伊達騒動]]では主導権を宗勝に握られていた<ref name="一関藩19"/>。 建顕は宗良の子であり、[[外様大名]]ながら奥詰として将軍[[徳川綱吉]]の側近として仕えた。 [[明治]]元年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]では、一関藩は仙台藩に従い[[奥羽列藩同盟]]に参加、後に仙台藩とともに明治政府へ降伏した。戊辰戦争後の明治2年([[1869年]])、3千石の削減の上で藩主の実弟[[田村崇顕]]に家督相続を許されたが、同年4月に[[版籍奉還]]した。崇顕は一関[[藩知事]]に任じられたものの、明治4年(1871年)の[[廃藩置県]]によって一関藩は廃された。 一関藩は、[[松の廊下]]で刃傷事件を起こした[[赤穂藩]]主[[浅野長矩]]を預かり、[[江戸藩邸|江戸上屋敷(藩邸)]]内で切腹させたことでも知られる(詳しくは[[元禄赤穂事件]])。藩邸跡の[[日比谷通り]]の新橋四丁目交差点脇の歩道に、切腹した場所を示す「浅野内匠頭終焉之地」の石碑がある。田村家菩提寺である[[祥雲寺 (一関市)|祥雲寺]]には浅野長矩の供養塔がある。 == 特徴 == 田村氏一関藩は、仙台藩から3万石を幕府の命令によって分知されて成立した藩である。そのため将軍の直臣として扱われ、幕府から直接の指示を受けた。初代藩主[[田村建顕|建顕]]の代に外様の小藩でありながら奥詰・[[奏者番]]という要職に就いたのは、幕府から直接指示を受ける[[外様大名|外様]]の小藩という立場が、5代将軍[[徳川綱吉]]の権力集中のため[[譜代大名|譜代]]を抑圧して小藩を取り立てるという政策に合致したためである。建顕以後は幕府中枢に関わる役目に就くことはなかったが、勅使等御馳走役を始めとする譜代衆同様の役目に就いた。 == 仙台藩との関係 == 上述のように譜代並の役目を務めた一関藩であるが、それゆえに仙台藩から独立への牽制を常に受けていた。一関藩は、将軍家から直接領地[[朱印状]]や領地判物を交付されておらず、幕府から仙台藩への領地判物に[[内分分知|内分]]するものとして記載されているに過ぎなかった。 仙台藩の干渉の始まりは、大名取立から間もない寛文2年([[1662年]]10月)にあり、「領内仕置六ヶ条」により、領内での仙台藩以外の[[高札|制札]]が禁止された。これにより、自主的な法令を公布することが不可能になり、仙台藩の基本方針を踏襲することを強制される。また、一関所替後の所領は[[北上川]]に二分されていたが、二分された一関藩領の間には仙台藩領の村落が10余村あり、一関藩は政治と経済ともに仙台藩の影響下に置かれた。藩職に仙台[[留守居]]役が設置され、須原屋[[武鑑]]でも仙台藩の支藩扱いであった。 以上のように仙台藩との従属的関係があった一方、大名級の知行地を持つ仙台藩内の一門衆や新田分知と異なり、独自の家臣団と徴税機構を有し、年貢米などの直接徴収が可能だったという点では比較的自立していた。 == 財政 == 父・[[田村宗良]]の跡を継いだ[[田村建顕|建顕]]が岩沼から一関に所替した時点で、すでに24万5千両の借財があった。原因は、岩沼地方時代に[[阿武隈川]]の連年にわたる洪水([[参勤交代]]もままならなくなったため、一関への所替の理由となった)による減収と、宗良が病身を理由に江戸へ常駐したための経費増にあった。一関に移ってからも財政は好転せず、幕府勤務と参勤交代を果たすために毎回2千両から3千両の援助が必要だった。 === 財政再建の障害 === まず一般的に考えられる農民への増税は、一関藩の場合は不可能だった。前述のとおり、一関藩は仙台藩の基本方針に従わねばならず、増税もまた一存では行われなかった。特に[[寛政]]9年([[1797年]])には仙台藩において大規模[[一揆]]が発生し、一揆の再発を防ぐために仙台藩の締め付けはますます厳しいものとなった。残された収入増の方法として、裕福な百姓と町人からの寄付、御用金と、仙台藩からの財政援助がたびたびあったが、根本的な財政難の解消には至らなかった。 === 諸経費の節減 === 収入増を望めない一関藩が主に取り組んだ財政再建策は、諸経費節減であった。一関藩は俸禄制をとり、四ツ物成(四公六民)で年貢米その他の諸税を徴収した現米を、藩から家臣団に支給した。一関藩は宝永7年([[1710年]])から減俸を34回実施し、削減額も財政難を反映して、1年限りながら3分の2減が5回、半減が12回に上った。特に[[天保の大飢饉]]における財政難は深刻を極め、俸禄制すら維持できず、禄の高下を無視して成人1人あたり1日4合と限った米を人数分だけ支給する面扶持制を、天保3年から5年、天保7年から10年にかけて実施した。当然ながら、面扶持制においては家格の高い家臣ほど減給率が高くなるため不満が高まり、藩政批判を仙台藩や幕府に訴えた20名もの家臣が処罰された。 == 文化 == 一関藩は[[蘭学]]において優れた人材を数多く輩出した。2代目[[建部清庵]]と始めとして、3代目建部清庵、[[大槻玄沢]]、[[佐々木中沢]]らがおり、東北で初めての人体解剖は一関藩医・菊池崇徳らによって行われた。また、藩政後期においては[[関孝和|関流]][[和算]]が浸透し、読み書き算盤の武士だけではなく、むしろ農民中心に発達した。これは和算をわかりやすく解説した『算法新書』([[1830年]])の編者、和算家[[千葉胤秀]]が一関の中農出身であり、算術師範となって農民に和算を普及させたためである。 財政難の中で文化が発達した理由として、初代から学を好む藩主が続いたことと、小藩であるがゆえに学者、医者の影響力がより大きかったことが挙げられる。しかし、幕末になるにつれ保守反動の傾向が強まり、蘭学者は十分な活動をすることが許されず、和算も[[明治維新]]後の新しい経済体制においては主導権を握れないまま、やがて洋算にとって代わられることになった。 == 歴代藩主 == === 一関伊達家 === #[[伊達宗勝]](むねかつ)〔従五位下、兵部少輔〕 === 田村家 === #[[田村建顕|建顕]](たけあき)〔従五位下、右京大夫〕 #[[田村誠顕|誠顕]](のぶあき)〔従五位下、下総守〕 #[[田村村顕|村顕]](むらあき)〔従五位下、隠岐守〕 #[[田村村隆|村隆]](むらたか)〔従五位下、下総守〕 #[[田村村資|村資]](むらすけ)〔従五位下、左京大夫〕 #[[田村宗顕 (一関藩主)|宗顕]](むねあき)〔従五位下、右京大夫〕 #[[田村邦顕|邦顕]](くにあき)〔従五位下、左京大夫〕 #[[田村邦行|邦行]](くにゆき)〔従五位下、右京大夫〕 #[[田村通顕|通顕]](ゆきあき)〔[[字]]:磐二郎〕 #[[田村邦栄|邦栄]](くによし)〔従五位下、右京大夫〕 #[[田村崇顕|崇顕]](たかあき)〔従五位下、右京大夫〕 == 藩領 == *磐井郡西岩井(11ヶ村):一関村、二関村、三関村、牧沢村、鬼死骸村、滝沢村、弧禅寺村、達古袋村、市野々村、上黒沢村、下黒沢村 *磐井郡流(13ヶ村):金沢村、清水村、金森村、中村、上油田村、下油田村、蝦島村、涌津村、男沢村、峠村、日形村、富沢村、楊生村 *磐井郡東山(11ヶ村):徳田村、南小梨村、北小梨村、清水馬場村、金田村、熊田倉村、上奥玉村、中奥玉村、下奥玉村、寺沢村、摺沢村 *栗原郡(2ヶ村):有壁村、片馬合村 === 幕末の領地 === * [[陸奥国]]([[陸中国]]) ** [[磐井郡]]のうち - 11村 [[明治維新]]後に磐井郡19村(旧[[仙台藩]]領、[[沼田藩]]取締地)、[[胆振国]][[白老郡]]が加わった。 == 現存建物 == 平泉町の毛越寺表門として門が移築現存している。 == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈"/> === 引用元 === <references/> == 参考文献 == *『三百藩藩主人名辞典1』([[新人物往来社]] 1986年)ISBN 978-4404013675 * [[藤野保]]・[[木村礎]]・[[村上直]]『藩史大事典 第1巻 北海道・東北編』([[雄山閣]] 1988年) ISBN 4-639-10033-7 * [[大島晃一]] 『シリーズ藩物語 一関藩』([[現代書館]] [[2006年]][[10月]]) ISBN 4-7684-7106-4 {{s-start}} {{s-bef|before=([[陸奥国]])|表記=前}} {{s-ttl|title=行政区の変遷 |years=[[1682年]] - [[1871年]]<br>|years2=一関藩→一関県}} {{s-aft|after=[[磐井県]]|表記=次}} {{end}} {{奥羽越列藩同盟}} {{江戸時代の藩}} {{デフォルトソート:いちのせきはん}} [[Category:藩|いちのせき]] [[Category:仙台藩の支藩|いちのせき]] [[Category:伊達氏|藩いちのせき]] [[Category:一関田村氏|藩いちのせき]] [[Category:陸中国]] [[Category:岩手県の歴史]] [[Category:一関市の歴史]]
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