バチカン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴァチカン市国から転送)
移動先: 案内検索

テンプレート:Redirect

バチカン市国
Status Civitatis Vaticanæテンプレート:Smaller
Stato della Città del Vaticanoテンプレート:Smaller
バチカンの国旗 バチカンの国章
国旗国章
</dd>

国の標語:なし
国歌賛歌と教皇の行進曲
バチカンの位置

公用語 ラテン語[1]
首都 都市国家
最大の都市 都市国家
政府

教皇 フランシスコ
国務長官 テンプレート:仮リンク

面積

総計 0.44km2195位
水面積率 極僅か

人口

総計(2014年 819人(195位
人口密度 1865人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(xxxx年xxx,xxxユーロ (€)
</dd>
GDP(MER

合計(xxxx年xxx,xxxドル(???位
</dd>
GDP(PPP

合計(xxxx年xxx,xxxドル(???位
1人あたり xxxドル
</dd>
独立

ラテラノ条約締結1929年2月11日
ラテラノ条約批准1929年6月7日

</dl>

通貨 ユーロ (€)(EUR[2][3]
時間帯 UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1 VA / VAT
ccTLD .va
国際電話番号 379

</dd>

  1. イタリア語が常用される。
  2. 1999年以前の通貨はイタリア・リラバチカン・リラ
  3. バチカンのユーロ硬貨も参照。

</dl> バチカン市国(バチカンしこく、テンプレート:Lang-laテンプレート:Lang-it)、通称バチカンは、ヨーロッパにある国家で、国土面積は世界最小である。ヴァチカンバティカンヴァティカンとも表記される。

概要

バチカンはローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会東方典礼カトリック教会の中心地、いわば「総本山」である。バチカンの統治者ローマ教皇である。ローマ教皇庁の責任者は国務長官(Cardinal Secretary of State, 通常は枢機卿)、実際の統治はバチカン市国行政庁長官兼バチカン市国委員会委員長(Governor of Vatican City and President of the Pontifical Commission for Vatican City State 通常は枢機卿)が務めている。教皇は2013年3月13日に選出されたアルゼンチン出身のフランシスコが務めている。国務長官はイタリア人のテンプレート:仮リンク枢機卿、行政庁長官兼市国委員長はイタリア出身のテンプレート:仮リンク枢機卿が務めている。

バチカンという名称は、この地の元々の名前であった「ウァティカヌスの丘」 (Mons Vaticanus) からとられている。ここに教会が建てられ、やがてカトリック教会の中心地となった元々の理由は、この場所で聖ペトロが殉教したという伝承があったためである。

公用語ラテン語であり公式文書に用いられる。ただし、通常の業務においてはイタリア語が話されている。また、外交用語としてフランス語が用いられている。また、警護に当たるスイス人衛兵達の共通語はドイツ語である。この他、日常業務ではスペイン語ポルトガル語英語も常用されている。

歴史

バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって人の住む地域ではなかったが、キリスト教以前から一種の聖なる地だったと考えられている。326年コンスタンティヌス1世によって使徒ペトロの墓所とされたこの地に最初の教会堂が建てられた。やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として全カトリック教会に対して強い影響力をおよぼすようになると、バチカンはカトリック教会の本拠地として発展し、755年から19世紀まで存在した教皇領の拡大にともなって栄えるようになった。教皇は当初はバチカンではなく、ローマ市内にあるラテラノ宮殿に4世紀から1000年にわたって居住していたものの、1309年から1377年アヴィニョン捕囚時代にラテラノ宮殿が2度の火災によって荒廃したため、ローマに帰還した教皇はサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に一時居住した後、現在のバチカン内に教皇宮殿を建設しここに移り、以後バチカンが教皇の座所となった。1506年には2代目である現サン・ピエトロ大聖堂が着工し、1626年に竣工した。教皇は19世紀中盤までイタリア半島中部に広大な教皇領を保持していたものの、イタリア統一運動の活発化に伴い1860年イタリア王国が成立すると教皇領北部は接収されたため、ローマ教皇庁とイタリア王国政府が関係を断絶した。この時点では教皇領南部のローマ市およびラティウム地方は教皇の手に残っていたものの、1870年普仏戦争の勃発によって教皇領の守備に当たっていたフランス軍が撤退すると、イタリア軍が残存教皇領もすべて接収し、バチカンはイタリア領となった。翌1871年にはイタリア政府は教皇にバチカンおよびラテラノ宮殿の領有を認めたものの、ローマ教皇ピウス9世はこれを拒否し、「バチカンの囚人」と称してバチカンに引きこもった。この教皇庁とイタリア政府の対立はローマ問題と呼ばれ、以後50年以上にわたって両者間の断絶を引き起こした。

このような不健全な関係を修復すべくイタリア政府とバチカンの間で折衝が続けられたが、1929年2月11日になってようやく教皇ピウス11世の全権代理ガスパッリ枢機卿とベニート・ムッソリーニ首相との間で合意が成立し、3つのラテラノ条約が締結された。

条約は教皇庁が教皇領の権利を放棄するかわりに、バチカンを独立国家とし、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位を保証するものであった。この措置はイタリア国民にも広く支持され、「教皇との和解」を実現したムッソリーニの独裁体制はより強固なものとなった。1984年になると再び政教条約が締結され、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位などのいくつかの点が信教の自由を考慮して修正された。

政治

法的にはバチカンの政体は非世襲の首長公選制であるとみなされる。首長である教皇の権威はバチカン市国のみならず聖座全体におよぶものである。教皇は80歳以下の枢機卿たちの選挙コンクラーヴェ)によって選ばれる。教会法において教皇に必要な資格は男性のカトリック信徒であるということだけであるが、実質上は枢機卿たちの互選になっている。

「バチカン市国」と「ローマ教皇庁」は同義のようだが微妙に同義でない。例えばバチカン市国の最高責任者として行政庁長官 (Governatorato dello Stato della Città del Vaticano) が存在するが、ローマ教皇庁の実質的な責任者は国務長官がつとめている。国務長官 (Cardinal Secretary of State) はバチカン市国の外交部門の最高責任者でもある。立法権は教皇の任命によるバチカン市国委員会 (Pontifical Commission for Vatican City State) が持っている。委員会のメンバーの任期は5年となっている。しかし使徒座空位が発生するとカメルレンゴと首席枢機卿以外の省庁の長官は自動的に解職される。新しい教皇がコンクラーヴェで選ばれるまでの間はカメルレンゴを長とした枢機卿団がバチカンを管理する。

軍事・警察

バチカン市国は一切の軍事力は保持していない。警察力スイスからの傭兵である「市国警備員(スイス人衛兵)」が担当している。

なお、イタリアからの入国、イタリアへの出国は原則的に自由。国境線もガードレール風の柵があるだけで検問所の類いは一切(よって出入国管理体制も)ない。

国内は公開の区域に限り入場は自由で、イメージとしては街中にある教会堂とその敷地に近い。そのため、各国から首脳貴賓が参列した2005年の教皇ヨハネ・パウロ2世の葬儀では外側を取り囲むイタリア側が警備を行ったことで、事実上国内警備につながった。

教皇の衛兵としてスイス人衛兵が常駐している(2007年現在110人)。1505年1月22日に教皇ユリウス2世により創設され、1527年、ローマがカール5世神聖ローマ皇帝軍に侵攻された際(ローマ略奪)、身を犠牲にしてクレメンス7世の避難を助けた。現在はスイス国内でカトリック教会からの推薦を受けたカトリック信徒の男性が選ばれている。

その制服は一説にはミケランジェロのデザインとも言われるが、1914年に制定されたものである。その派手なデザインは、伝統的なスイス傭兵というよりも、むしろランツクネヒトを彷彿とさせる。スイス人衛兵たちは一応武器の携行はしているものの、本質的に儀仗兵である。1981年ヨハネ・パウロ2世が襲撃された事件以来、教皇が公の場に出て行く時、スイス人衛兵たちは催涙スプレーを常時携行するようになったという。

かつてはスイス人衛兵だけでなく、教皇騎馬衛兵宮殿衛兵といわれる衛兵隊が存在していたが、形式的なものになっていたためパウロ6世によって1970年に廃止された。

テンプレート:Wide image

日本語での名称について

日本の外務省は、ローマ教皇及びローマ教皇庁を総称した概念を法王聖座、ローマ教皇を国家元首とする独立国家をバチカン市国と呼び、その聖俗両面の総称をバチカンとしている[1]

日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は、1981年ヨハネ・パウロ2世の来日時に、それまで混用されてきた「教皇」と「法王」の呼称を統一するため、世俗の君主のイメージの強い「王」という字を含む「法王」でなく「教皇」への統一を定めた。以降、日本のカトリック教会の公式な表記では「法王」でなく「教皇」が用いられている。このとき、東京にある「ローマ法王庁大使館」においてもこれにあわせて「法王庁」から「教皇庁」への名称変更を行おうとしたが、日本政府から「日本における各国公館の名称変更はクーデターなどによる国名変更時など、特別な場合以外は認められない」として認められず、「ローマ法王庁大使館」の名称のまま現在へ至っている。(官報や外務省の文書でも「ローマ法王」の語が用いられているため、これが日本政府の用いる公式名称であるとみなされる。)このような経緯もあって、現在においてもマスメディアでは依然として「教皇」と「法王」の呼称が混用されている。

国際関係

ファイル:Vatican relations.svg
バチカン市国と外交関係を有する国

バチカン市国が成立した1929年以降、国際法上の主権国家となったことにあわせてバチカンの外交使節が各国に派遣され、同時に各国の外交使節を受け入れるようになった。2011年現在、バチカンは174カ国と国際連合およびマルタ騎士団特命全権大使を受け入れており、179の国と地域に大使あるいは外交使節を派遣している[1]

日本がバチカンと正式な外交関係を樹立したのは1942年で、このとき相互に公使館を設置したが、戦後一旦引き上げて1952年に再設置した。日本は1958年にバチカン市国日本公使館を大使館に格上げし(バチカンが東京のローマ法王庁公使館を大使館に格上げしたのは1966年[2]現在に至っている。日本国大使館(正式名称:在バチカン日本国大使館)は狭いバチカン市国内では土地が取れないため、隣国イタリア・ローマにおかれている(バチカンと外交関係を有する国のうち約100カ国は兼轄であり、「常駐」大使を派遣しているのは日本を含めて80カ国弱である)。なお、東京にあるバチカン大使館の正式名称は「ローマ法王庁大使館(イタリア語名:Nunzio apostolico in Giappone)」である。

2011年現在、バチカンと外交関係が樹立されていない国は16カ国である。主な国としては中華人民共和国(中国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ベトナムミャンマーラオスと、イスラームサウジアラビアオマーンアフガニスタンソマリアモーリタニアブルネイなどがある。

共産主義国として宗教の存在を否定する中華人民共和国[3]とは、宗教活動の自由がなく[4]、教会を政府の管理下に置き続ける上に[5]キリスト教関係者を逮捕、追放するなど弾圧を続けていること[6]を理由に、同国の建国以来国交を持っていない[7]。バチカンは元々北京に大使館を置いていたが、1951年にこれを撤退させざるを得なくなり、台北に移して台湾(中華民国)との外交関係を維持している。(中華民国とバチカンの外交関係の歴史は古く、中華民国が中国を支配していた第二次世界大戦中の1942年に確立されている。)バチカンは決して中国政府を軽視しているわけではない。「司教の任命権」の問題など多くの困難な問題を抱えながらも、中国政府とバチカン双方は外交関係の再設定を目指して水面下での協議を続けてきた。たとえば1979年には、台北派遣の外交官レベルを臨時代理大使に格下げし、北京との関係改善への意欲を見せている。

イスラームを国教とする中東の絶対王制諸国も、アッラーフ以外は神と認めない(神は形がないとする教えの為にその代理物を作って礼拝する、所謂偶像崇拝も許さない)ためにバチカンとの国交はない。

ロシアとは、ロシア革命以降外交関係を持っていなかったが、ソビエト社会主義共和国連邦崩壊後、外交関係再設定への動きが進み、2009年12月3日に大統領ドミートリー・メドヴェージェフがバチカン市国を訪問して教皇ベネディクト16世と会談して外交関係が樹立した。翌年の2010年には正式に大使が交換されている。ウラジーミル・プーチンは大統領・首相として通算4度バチカンを訪れ時の教皇と会談している。

バチカン(すなわちローマ教皇庁)が「かつて満州国を承認し、国交を保ち続けていた」という記述が時折見られるが誤りである。ある時期、バチカンからの「教皇使節」(Apostolic delegate)が満州国に派遣されていたのは事実だが(このとき、日本のマスコミが「バチカンが満州国を承認」と喧伝した[8])、「教皇使節」は現地のカトリック信徒のために派遣されるもので、外交的な意味を持たない。その証拠に教皇使節の派遣を管轄するのはバチカンにおいて宗教業務を担当する福音宣教省であって、外交を司る総理省ではない。現代でもミャンマー、ベトナムなどのように、バチカンと外交関係を樹立していないにもかかわらず教皇使節が派遣されている国々がある[9]

国際連合には、長らく「恒久的オブザーバー」という形式で代表を派遣していたが、2004年7月に投票以外のすべての権利を持った代表となった。投票権を行使しないのは政治的に中立であるためであり、当時の国連バチカン代表であったテンプレート:仮リンク大司教も「投票権をもたないことは私たち自身の選択です」と語っている。

地理

ファイル:Vatican Map.svg
バチカンの領域
ファイル:Vatican City map EN.png
バチカンの詳細地図

テンプレート:Main

国土

バチカン市国はローマの北西部に位置するバチカンの丘の上、テベレ川の右岸にある。その国境はすべてイタリアと接しており、かつて教皇を外部の攻撃から守るために築かれたバチカンの城壁に沿ってしかれている。面積は約0.44km²と、国際的な承認を受ける独立国としては世界最小で、東京ディズニーランド (約0.52km²) よりも小さく、中国北京の天安門広場と同じくらいである。その狭い領土の中にサン・ピエトロ大聖堂バチカン宮殿バチカン美術館サン・ピエトロ広場などが肩を並べている。面積は皇居のおよそ四分の一。

またラテラノ条約の取り決めに従って、国外のいくつかの区域(イタリア・ローマ南東約20kmにあるカステル・ガンドルフォの教皇別荘であるガンドルフォ城サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂などの大バジリカ、教皇庁事務所など)でもバチカンの主権が認められている[10](バチカンの行政区画も参照)。

これらの中にはバチカン放送の建物も含まれているが、短波ラジオ送信所は国外のイタリア・ローマ郊外にあり、その敷地内にはバチカンの治外法権が認められている。

外国人観光客が入れる場所は、サン・ピエトロ広場、サン・ピエトロ大聖堂、バチカン博物館周辺のみで、その他の場所は外国一般人立入禁止区域となっている。

テンプレート:Panorama

気候

バチカン市国の気候はローマの気候と同じで、地中海性気候の区域に属している。5月から9月は乾季にあたって少雨高温であり、10月から5月は雨季で冬は冷え込む。以下、ローマの気候図を示す。 テンプレート:Infobox Weather

経済

国家予算

バチカンの「国家予算」は2003年のデータで歳入が約277億円で歳出290億円となっている。主な産業として出版業、モザイク製作などがある。バチカンは国家というにはあまりに特殊な存在であり、(下記にある「宗教活動協会」の投資運用は除き)利益追求の産業活動は行っていないため、歳入は「聖ペトロの献金」(Peter's Pence)として知られる世界中のカトリック信徒からの募金切手の販売、バチカン美術館の入場料収入、出版物の販売などによるものである。

宗教活動協会

第二次世界大戦中の1942年に、ピオ12世によってそれまでの「宗務委員会」から改組され設立された、バチカンの国家財政管理を行う組織である「宗教事業協会」(Instituto per le Opere di Religioni/ IOR、「バチカン銀行」とも呼ばれる)が、各国の民間の投資銀行を通じて投資運用し資金調達を行っている。上記の「国家予算」には、「宗教事業協会」の投資運用による利益は入っていない。

1980年代前半までは、宗教事業協会の投資運用と資金調達を行う主力行としての業務はイタリア国立労働銀行の子会社のアンブロシアーノ銀行が行っていたが、1982年に、同協会のポール・マルチンクス大司教と、「教皇の銀行家」と呼ばれていたアンブロシアーノ銀行のロベルト・カルヴィ頭取のもとで起こった、マフィアや極右秘密結社であるロッジP2がからんだ多額の使途不明金とマネーロンダリングにかかわったスキャンダルの影響を受け同行が破綻し、カルヴィ頭取などの複数の関係者が暗殺されて以降は、ロスチャイルド銀行とハンブローズ銀行などが行っている。また、この事件は、映画「ゴッドファーザーPARTIII」でも取り扱われている。

不正行為の疑い

宗教事業協会は度々マネーロンダリングなどの違法な取引にかかわったと指摘されており、近年も2009年11月と2010年9月の2度に渡り、宗教事業協会とエットーレ・ゴティテデスキ総裁がマネーロンダリングに関係したとの報告を受けたイタリアの司法当局が捜査を行い、捜査の過程で2300万ユーロの資産が押収されている[11]

2013年5月22日、独立機関の聖座財務情報監視局は、2012年の金融取引において6件のマネーロンダリングの疑いがあると発表した[12]。2013年6月28日には、現金4千万ユーロ(約52億円)を無申告でスイスからイタリアに運ぼうとしたとして、スカラーノ司祭がイタリア警察に逮捕された。2013年7月1日には、幹部2人が辞任に追い込まれた[13]

その他

バチカン職員の給与水準はイタリア・ローマの平均給与よりもやや良いといわれている。独自通貨をつくらないため、以前はリラが用いられていたが、イタリアがユーロに通貨を変更した2002年1月1日以降、バチカンでもユーロが流通するようになった。なお、バチカン発行のユーロ通貨はユーロ圏ならどこでも使用することが可能であるが、切手は国内専用で、国内で他国の切手は使えない。

交通・通信手段

ファイル:St peters vat distance.jpg
イタリア・ローマ市の「和解の道」からバチカン中心部を望む。

テンプレート:See also かつてはバチカンを取り囲むように古い住宅がごみごみと立ち並んでいたが、1920年代にイタリアの実権を握ったベニート・ムッソリーニラテラノ条約によるカトリック教会との和解を世界にアピールしようと、サン・ピエトロ大聖堂正面の家屋を大胆に撤去し、広い街路を敷いた。これが「和解の道 (Via della Conciliazione)」といわれるバチカン市国前のメイン・ストリートである。

空港はないが、中型ヘリコプターが発着可能なヘリポートが一つある。鉄道は、イタリアのサンピエトロ駅から分岐してバチカン駅へ向かう863メートル(うち国内は227メートル)の鉄道路線がある。現在は定期旅客列車は走っておらず、たまに貨物列車が入線するのみで、旅客輸送は行っていない。この鉄道路線はイタリア国内分も含めてバチカン国有のものであるが、列車の運行はイタリア国鉄が代行している[14]

郵便局電話局が一つある。イタリア・ローマ市民たちは国際郵便を出す場合、地元ポストからイタリア郵便を通すより、少し歩いてでも越境してバチカン市国のポストに投函するほうが格段に早くつくということを経験的に知っている[15][16]。この場合当然に、イタリアの切手は通用せずバチカン市国発行の切手を貼付する必要がある。

ローマ教皇庁が所有する自動車は「SCV」というナンバーがつく。この3文字の意味は「Stato della Città del Vaticano(バチカン市国)」の略である。

国民と国籍

バチカンの人口は832人(2011年7月推定値)[17]であり、彼らはバチカンの城壁内で生活している。バチカン市民のほとんどはカトリックの修道者であり、枢機卿司祭などの聖職者と、叙階されていない修道士・修道女がいる。教皇庁で働く、修道者以外の一般職員は3000人にものぼるが、彼らのほとんどは市国外(すなわちイタリア)に居住し、そこから通勤している。またスイス人衛兵もバチカン市民である。衛兵の宿舎は市国内にあるが、市国外(すなわちイタリア)に住居を持って通勤している衛兵もいる。

外交関係は聖座教皇庁)との間で結ばれているため、バチカン市国独自のパスポートは存在しない。聖座の外交官や各省庁の官職にある者は、教皇庁の公用の必要がある場合に教皇庁のパスポートを取得することができる。いわゆる外交旅券に相当するものは、青色の表紙をしている。なお、一般のバチカン市民には市国パスポートは発給されない。イタリアとの間の移動、イタリアなどシェンゲン協定国間の移動にはパスポートは不要であるため、概ね西ヨーロッパ大陸部は自由に移動できる。

2003年末の時点でバチカンの「居住権」(いわゆる「市民権」あるいは「国籍」)を保持するものは552名に及ぶ。そのうち61人が枢機卿、346名が司教司祭などの聖職者である。101名がスイス人衛兵、44人が一般の職員である。全ての者がバチカンの居住権とあわせて従来の国籍も保持している(二重国籍)。

バチカン居住権は聖職者も含め、基本的にバチカンで職務についている期間に限って与えられる。教皇庁の職員の多数を占めるイタリア人職員たちには外交業務などにおいて特に必要がないかぎり、居住権は与えられない。また、バチカンの市民権は上記のように職務に対応する特殊な地位であるため、たとえバチカン市国内で出生しても出生地主義による国籍の取得はできない。

バチカン市庁における女性職員は600人程度で、信徒であることが必須であるが初の女性職員は1934年に採用されたドイツ・フランクフルト出身の異教徒ヘルミーネ・シュパイアー(ユダヤ教徒)であった。

文化

バチカン市国は国自体が文化遺産の宝庫である。サン・ピエトロ大聖堂システィーナ礼拝堂など、ボッティチェッリベルニーニミケランジェロといった美術史上の巨匠たちが存分に腕をふるった作品で満ち溢れている。またバチカン美術館とバチカン文書資料館には歴史上の貴重なコレクションが大量に納められている。バチカンは1984年に世界遺産に登録された(バチカン市国 (世界遺産)を参照のこと)。

バチカンに定住している人々は、カトリック教会の聖職者国家という性格上男性がほとんどである。わずかな女性たちが職員として教皇庁で働くために二つの女子修道会が支部を置いている。バチカンで働く聖職者たちは枢機卿などの高位聖職者を除けばほとんどが修道会員である。

バチカンは聖地であるため、服装規定がある。特に女性は、観光客であっても、聖堂内に入るときなどに服装に気をつかうこと(ノースリーブの服なら上からなにかを羽織る、半ズボン禁止など)が求められる。

バチカンは巡礼者のみならず全世界から訪れる観光客でいつもにぎわっている。教皇は世界から訪れる信徒のために毎週日曜日には彼らの前でミサを執り行い、平日にも信徒と共に行う信心業や謁見(通常は毎週水曜)を行っている。復活祭などの特別な祝日にはサン・ピエトロ広場に姿を見せて世界に挨拶を送るのがならわしとなっている。

祝祭日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日(神の母聖マリアの祭日)
1月6日 主の公現
2月11日 ラテラノ条約締結記念日
3月19日 聖ヨセフの祝日
3月-4月 復活祭 移動祝日
5月1日 労働者聖ヨセフの祝日
5月 主の昇天 移動祝日
6月 聖体の祝日 移動祝日
6月29日 ペトロ・聖パウロの祝日
8月15日 聖母の被昇天
11月1日 諸聖人の日
12月8日 無原罪の聖母の祝日
12月24日 - 12月25日 クリスマス
12月31日 大晦日

メディア

新聞として「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」紙がある。これは教皇庁の公式紙であり、イタリア語版が日刊で、英語版、スペイン語版、フランス語版、ドイツ語版、ポルトガル語版が週刊で、ポーランド語版が月刊で発行されている。さらに公式ウェブサイト、ラジオ局、衛星テレビ局がある。

ツイッター

バチカンのニュースサービス等がそれぞれ専用アカウントを保持している。

2012年12月4日、ベネディクト16世が自身のアカウント「@Pontifex」を開設したが、2013年2月28日の教皇の退位と同時に閉鎖されることになった。しかし実態としてはツイート全削除(別途アーカイブは残される)の上でユーザー情報の書き換えが行われたのみでアカウント自体は存置され、使徒座空位を表わす傘と天国の鍵の紋章とSede Vacanteと表示のある状態となり、3月13日にコンクラーヴェでフランシスコが新教皇に就任すると、「三重冠と天国の鍵の紋章」に戻り「我らフランキクトゥス(フランチェスコ)を得たり」とのラテン語のツイートがなされ、その後フランシスコが使用することとしたためリニューアルされた。すなわち、「@Pontifex」のアカウントは「教皇専用」であるのみで、代が変わっても同一アカウントをそのまま用い続けることとなることが鮮明に示されたのである。「@Pontifex」を使うかどうかは時の教皇の意向次第となるという。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

  • 上野景文、『バチカンの聖と俗 日本大使の1400日』、かまくら春秋社、2011年

関連項目

外部リンク

テンプレート:Commons&cat

公式
日本政府
その他

テンプレート:Navbox テンプレート:Coord

nap:Cità d''o Vaticano

scn:Cità dû Vaticanu
  1. 1.0 1.1 バチカン 基礎データ 外務省
  2. NUNTIATURA APOSTOLICA IN IAPONIA ERIGITUR
  3. テンプレート:Cite news
  4. テンプレート:Cite news
  5. テンプレート:Cite news
  6. Restriction and Suppression of Religious Freedom in China ボイス・オブ・アメリカ2006年5月17日
  7. テンプレート:Cite news
  8. 時事新報1934年4月22日付など
  9. 上野景文『バチカンの聖と俗』、かまくら春秋社、2011、pp91-92
  10. 「ビジュアルシリーズ 世界再発見1 フランス・南ヨーロッパ」p114 ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編 同朋舎出版 1992年5月20日第1版第1刷
  11. テンプレート:Cite news
  12. テンプレート:Cite news
  13. テンプレート:Cite news
  14. [1]
  15. All About 天使が配達?!絵葉書送るならバチカン郵便局 バチカンの郵便ポストに手紙を投函するときは、うっかりイタリアの切手を貼らないように注意しましょう。
  16. テンプレート:Cite web
  17. CIA - The World Factbook -- Holy See (Vatican City)