ブランデンブルク辺境伯

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1320年のアスカーニエン家断絶までのブランデンブルク辺境伯領

テンプレート:ブランデンブルクとプロイセンの歴史 ブランデンブルク辺境伯(ブランデンブルクへんきょうはく)は、神聖ローマ帝国の貴族で、選帝侯のひとり。ドイツの北東部を領地とした。その領地は現在のブランデンブルク州の大部分とベルリン、およびポーランドの一部に相当する。

ブランデンブルク辺境伯の所領はブランデンブルク辺境伯領Mark Brandenburg)とよばれる。辺境において勢力を徐々に拡大し、神聖ローマ帝国崩壊後のドイツ統一の主役となった。

歴史

ブランデンブルク辺境伯領は、アルブレヒト1世を初代ブランデンブルク辺境伯として1157年に設置された。アルブレヒト1世の死後は息子オットー1世がブランデンブルク辺境伯となり、ポーランドへと領地を延ばした。13世紀半ばの重要な発展としては、ベルリン1242年)、フランクフルト・アン・デア・オーダー1253年)の開基と、シュテッティンおよびウッカーマルクの獲得(1250年)が挙げられる。

アスカーニエン家1320年に断絶した後、ヴィッテルスバッハ家ルートヴィヒ4世がブランデンブルク辺境伯領を獲得、以降ヴィッテルスバッハ家の世襲となるも、1373年ルクセンブルク家カール4世オットー5世(ルートヴィヒ4世の6男)から辺境伯領を取得し、長男のヴェンツェルに与えた。

1415年ホーエンツォレルン家ニュルンベルク城伯フリードリヒ6世(ブランデンブルク辺境伯としてはフリードリヒ1世)が神聖ローマ皇帝ジギスムント(カール4世の次男、ヴェンツェルの異母弟)からブランデンブルク選帝侯位を獲得し、ベルリンを居城とした。1539年にはヨアヒム2世ルター派に改宗した。ホーエンツォレルン家は17世紀前半の三十年戦争の頃から台頭し始め、主に結婚によって領土や権威を獲得した。

1618年には神聖ローマ帝国の領外であったプロシア公領との婚姻関係から同君連合ブランデンブルク=プロイセンとなった。また、1648年には後ポンメルン (de:Hinterpommern) (現在のポーランド領西ポモージェ県)を獲得した。ホーエンツォレルン家は政治的影響力を拡大しようと努め、さらにフリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)によって、デンマークスウェーデンポーランド王国に対する優位を主張しつつ、西部ではフランスと対立することになる。北方戦争時にはプロシア公領をポーランドの支配下から完全に独立させた。

フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯が没するとフリードリヒ3世があとを継いだ。彼はスペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側に付き、その見返りに1701年ハプスブルク家から本来ローマ帝国領外であったプロシア公領の王プロイセン王)としての称号を得て、プロイセン王国が成立した。この結果ブランデンブルク選帝侯の地位はプロイセン王と兼任されることになり、ブランデンブルク辺境伯領はプロイセン王国の一部のように扱われるようになる。ブランデンブルク選帝侯領はプロイセン王国の成立後も神聖ローマ帝国の領邦として留まったが、神聖ローマ帝国が正式に解体された1806年に正式にプロイセン王国領テンプレート:仮リンクとなった。

その後ブランデンブルク州は一貫してドイツの中核的な州であったが、第二次世界大戦後、1945年オーデル・ナイセ線により、東のポーランド領と西のドイツ領に分割された。 1949年に成立したドイツ民主共和国は、1952年に州制度を廃止して旧ブランデンブルク州でドイツ側に残っていた部分を、コトブス県フランクフルト県ポツダム県に3分割した。

1990年ドイツ再統一の結果、ブランデンブルク州(ブンデスラント、Bundesland Brandenburg)が復活した。

関連項目


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現在のブランデンブルク州旗

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