真珠湾攻撃

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 真珠湾攻撃
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炎上するアメリカ海軍戦艦アリゾナ
戦争大東亜戦争 / 太平洋戦争
年月日日本時間1941年12月8日未明, ハワイ時間12月7日
場所アメリカ合衆国ハワイ州(当時はアメリカ合衆国の準州)オアフ島真珠湾
結果:日本の圧勝と太平洋戦争勃発
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1889 テンプレート:USA1912
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:Flagicon2南雲忠一 テンプレート:Flagicon2ハズバンド・キンメルテンプレート:Flagicon2ウォルター・ショート
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 航空母艦6隻
戦艦2隻
重巡洋艦2隻
軽巡洋艦1隻
駆逐艦9隻
特殊潜航艇5隻
艦上航空機350機他
戦艦8隻
重巡2隻
軽巡6隻
駆逐艦30隻
その他48隻
カタリナ哨戒機14機
基地航空機399機
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 未帰還機29機
損傷74機
戦死55
特別攻撃隊:未帰還5隻
戦死9
捕虜1
戦艦5隻沈没
駆逐艦2隻沈没
標的艦1隻沈没
戦艦3中破
巡洋艦3中破
航空機188破壊
航空機155損傷
戦死2,345
民間人57

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ファイル:PearlHarborCarrierChart.jpg
大日本帝国海軍艦隊の航跡図
ファイル:Pearl Harbor bombings map.jpg
大日本帝国海軍攻撃隊の侵入経路図

真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、英語:Attack on Pearl Harbor、日本時間1941年12月8日未明、ハワイ時間12月7日)は、休日である日曜日を狙ってハワイオアフ島真珠湾[注釈 1]にあったアメリカ海軍太平洋艦隊基地に対して、日本海軍が行った航空機および潜航艇による攻撃である。

当時の日本側呼称はハワイ海戦(布哇海戦)。太平洋戦争大東亜戦争)緒戦の南方作戦の一環として計画された作戦であり、マレー作戦に次いで開始された作戦である。戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を喪失した。

背景

作戦構想

オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は1908年(明治41年)に設置され、以来日本海軍にとって脅威となっていた。真珠湾の海軍基地はオアフ島要塞と呼ばれた要塞群で守られており、中には戦艦と撃ち合える40cm砲も設置されていた。上陸可能な死角も存在しなかったため、艦砲射撃や上陸作戦には成功の見込みはなかった。日本軍は工事労働者に変装したスパイを多数送り込み、要塞の詳細を把握していたと言われるテンプレート:誰。また1910年(明治43年)11月、山本英輔海軍少佐が齋藤實海軍大臣に真珠湾の港湾部図面を提出している[1]

日本海軍は対米戦争の基本戦略として漸減邀撃作戦を有していた。これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦航空機を用いて漸減させ、日本近海において艦隊決戦を行うというものであった。だが1939年に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六海軍大将は異なる構想を持っていた。米国長期滞在経験を持ち、海軍軍政・航空畑を歩んできた山本は対米戦となった場合、開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべきと考えており、1928年(昭和3年)の時点でハワイ攻撃を提唱していた。

1941年1月14日頃、連合艦隊司令長官山本五十六大将から第十一航空艦隊参謀長の大西瀧治郎に手紙があり、1月26日、27日頃長門を訪ねた大西は山本からハワイ奇襲作戦の立案を依頼された[2]。手紙は「国際情勢の推移如何によっては、あるいは日米開戦の已むなきに至るかもしれない。日米が干戈をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。それには開戦劈頭、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す。目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいたい。」という要旨であった[3]

鹿屋司令部に戻った大西は、幕僚である前田孝成に詳細を伏せて真珠湾での雷撃攻撃について相談したが、真珠湾は浅いため技術的に不可能という回答だった。2月初旬、今度は第1航空戦隊参謀源田実を呼びつけ、中旬に訪れた源田に大西は同様の質問をした。源田からは、雷撃は専門ではないから分かりかねるが、研究があれば困難でも不可能ではないという回答があった。大西は源田に作戦計画案を早急に作るように依頼する。源田は2週間ほどで仕上げて提出、それに大西が手を加えて作案し、3月初旬頃、山本に提出した[4]

源田案は、出発基地を父島か厚岸として、空母を200海里まで近づけて往復攻撃を行う二案であった。一つ目は雷撃可能な時、艦攻は全力雷撃を行い、艦爆で共同攻撃する案、二つ目は雷撃不可能な時、艦攻を降ろして全て艦爆にする案である。戦闘機は制空と飛行機撃破に充当し、使用母艦は第一航空戦隊、第二航空戦隊の全力と第四航空戦隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を使う。航路は機密保持のために北方から進攻する。急降下爆撃で攻撃し、主目標を空母、副目標を戦艦とした。水平爆撃は当時命中率が悪く大量の艦攻が必要になるため計算に入れなかった[5]。これに対して大西は、戦艦には艦攻の水平爆撃を行うこと、出発を単冠湾として作案した[6]。9月頃、源田が大西から参考のために手渡されたものには、雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず、小爆弾を多数搭載して補助艦艇に攻撃を加え、戦艦に致命傷がなくても行動できなくすることになっていたという[7]

山本は真珠湾の水深の関係から雷撃ができなければ所期効果を期待しえないので空襲作戦は断念するつもりであった。しかし、不可能ではないと判断されたため、戦艦に対して水平爆撃と雷撃を併用する案になった[8]

計画

攻撃順序の主目的は戦艦・空母、副目的は航空基地・敵飛行機となった。その意図は、心理的効果と、敵艦隊が西太平洋を進攻する機動能力を奪うためには、戦力を二分して敵艦隊と工廠、油槽等施設を攻撃していずれも不徹底に終わるより水上艦艇に集中して確実徹底を期すべきと考えたためである。水上艦艇を徹底的に叩けば、大西洋艦隊を割いて太平洋艦隊を増強しても相当長期間その進攻能力を回復しえないと判断したため、工廠や油槽などの後方施設の戦略的価値の重要性は認めながらも、兵力の関係から見逃さざるを得なかった[9]。山本はハワイ空襲と関連し、ハワイには米海軍の半数が存在したため捕虜にすれば回復が困難と見てハワイ攻略も相談していた[10]

実施部隊に作戦が伝えられると、第一航空艦隊では、先任参謀大石保と航空参謀源田実にハワイ奇襲作戦実行計画の完成を命じた[11]。企図秘匿のために航海条件の悪い北方航路を選んだため、予定通り洋上燃料補給ができない場合を考慮して艦艇の航続力が問題となったが、燃料問題は一航艦長官南雲忠一の責任で軍務局の暗黙の了解を得て、燃料庫以外にもドラム缶で、法規上許されない各艦の強度が許すかぎりの燃料を搭載することで解決した[12]

使用航空母艦は当初第一、第二航空戦隊の四隻を胸算していたが、九月末「瑞鶴」の就役で第五航空戦隊は「翔鶴」、「瑞鶴」の新鋭大型空母二隻となり、連合艦隊ではハワイ空襲の成功を確実にすること、山本の抱く作戦思想に基づく作戦目的をより十分に達成することから、搭乗員や器材の準備が間に合うなら五航戦も使用したいと考えた。山本はかねがね日露戦争劈頭の旅順港外の敵艦隊の夜襲失敗の一因は兵力不足によると述懐していた。しかし、軍令部は四隻案で考えていた[13]。1941年10月9日-13日に連合艦隊司令部で研究会が行われる。軍令部航空部員三代辰吉はこの研究会出席のため出張してきたが、研究会に間に合わず終了後来艦し、六隻使用は到底望みがたい旨を伝えて東京に帰った[14]

軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに味方正規空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果に終わり、軍令部の危惧を裏付ける結果となった。

実施許可

第十一航空艦隊参謀長大西瀧治郎と第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介は、蘭印(オランダ領東インド)の石油資源獲得のためにフィリピン方面に集中するべきとしてハワイ奇襲作戦に反対したが、山本は両者に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話して説得した[15]

10月19日連合艦隊参謀黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長伊藤整一中将に言い、これに驚いた軍令部総長永野修身大将は作戦実施を認めた。

空襲の準備

真珠湾航空奇襲の訓練は鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に、鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、七尾島、志布志湾の各地で行われた。従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていたが、第一航空艦隊の航空訓練は機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた[16]。また、この作戦のため空中指揮官淵田美津雄と雷撃専門家村田重治が指名されて一航艦に異動した[17]。海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とするため、空母の集中配備が採用された。敵から発見された際、一挙に攻撃を受ける弱点があるが、集中配備で防空戦闘機を多く配備できる利点もあった[18]

当初、真珠湾の北200海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ300海里圏外に脱出する案だったが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田から反対があり、フォード北230海里で一次攻撃、南下して200海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された[19]

技術的な課題は、第1に水深12mという浅瀬でどうやって魚雷攻撃を行うか、第2に戦艦の装甲をどうやって貫通させるか、の2点であった。

第1の点に対しては、タラント空襲を参考に着水時の走行安定性を高めた愛甲魚雷を航空技術廠が改良し、ジャイロを用いて空中姿勢を安定させて沈度を抑えることに成功したことと、鴨池航空隊による超低空飛行訓練により、最低60mの水深が必要だったものを10m以下に引き下げることに成功、実際の攻撃では投下された魚雷40本のうち、射点沈下が認められたのは1本のみであった。第2の点に対しては、戦艦の装甲を貫徹するために水平爆撃で攻撃機の高度により運動量をまかなう実験が鹿屋、笠之原で実施され、模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール製、ドイツのクルップ製、日本の日立金属安来工場製の高張力鋼である安来鋼などの鋼板を用い、貫通するための運動量の計測などが行われた。

鹿児島県での訓練を終えた艦隊は大分県佐伯湾に集結し、最終演習の後、11月18日に択捉島の単冠湾へと向かった[20]

特殊潜航艇の準備

航空攻撃と併用して、5隻の特殊潜航艇甲標的)による魚雷攻撃も立案された。テンプレート:要出典範囲。甲標的は1940年9月に正式採用され34基の建造が命令された。1941年1月中旬から訓練が開始され、8月20日までに襲撃訓練が完了、搭乗員の技量も向上していった。訓練により戦力化に目処が立つとともに日米関係が悪化する状況に、搭乗員から開戦時に甲標的を使って港湾奇襲を行うべきであるとの意見が盛り上がり、先任搭乗員の岩佐直治中尉から甲標的母艦千代田艦長の原田覚大佐へ真珠湾奇襲が具申された。この時、たまたま訓練を視察していた軍令部の潜水艦主務部員有泉龍之介中佐もこの構想に共鳴して協力を約束した。9月初旬に原田艦長と岩佐中尉が連合艦隊司令部を訪問して真珠湾潜入攻撃計画を説明したが搭乗員の生還が難しいことから却下された。司令部を納得させるため、甲標的から電波を発信し潜水艦が方位を測定して水中信号で誘導を行う収容方法を考案し、再度司令部へ具申を行ったが、搭乗員の収容に確実性がないとの山本長官の判断で再度却下された。部隊では更に検討を行って甲標的の航続時間を延長する等の研究を行い、10月初旬に三度の具申を行った。この結果、更に収容法の研究を行うとの条件付きながら、ついに計画が採用された。10月11~13日に長門で行われた図上演習には甲標的を搭載した潜水艦5隻による特別攻撃隊が使用された。特別攻撃隊の甲標的5隻には岩佐大尉ら10名の搭乗員が選抜され、作戦に使う潜水艦として甲標的を後甲板に搭載可能な伊一六、伊一八、伊二〇、伊二二、伊二四が選ばれた。[21]

経過

ニイタカヤマノボレ

ファイル:Attack on Pearl Harbor Japanese planes view.jpg
魚雷攻撃を受けるアメリカ戦艦群、日本軍機から撮影
ファイル:Zero at Fort Kamehameha.jpg
撃墜された日本海軍の零式艦上戦闘機

1941年11月1日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降陸海軍は12月8日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対米英蘭戦争の準備を本格化した。南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は11月22日に択捉島単冠湾に集結[22]。出港直前、空母「赤城」に搭乗員達が集合し、南雲中将が米太平洋艦隊を攻撃することを告げた[23]。赤城艦長は山本長官の「諸子十年養うは、一日これ用いんが為なり」という訓示を代読している[23]。11月26日8時[24]、南雲機動部隊はハワイへ向けて単冠湾を出港した[25]

航路は奇襲成立のため隠密行動が必要であった。連合艦隊参謀の雀部利三郎が過去10年間に太平洋横断した船舶の航路と種類を調べ、その結果11月から12月にかけては北緯40度以北を航行した船舶が皆無である旨を発見し[26]、困難な北方航路が採用された[27]

12月1日、御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うべきことが決定された。

12月2日17時30分[24]、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」の暗号電文が発信された[28]。ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で当時の日本の最高峰、一二〇八とは12月8日のことで、「X(エックス)日を12月8日(日本時間)と定める」の意の符丁であった[注釈 2]。ちなみに、戦争回避で攻撃中止の場合の電文は「ツクバヤマハレ」であった。

12月7日、伊号潜水艦隊から特殊潜航艇が発進した。12月8日午前1時30分(日本時間)ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機が発進。午前2時45分、第二波空中攻撃隊として艦戦36機、艦爆81機、艦攻54機、計171機が発進した[29]

なおこの攻撃に先立ち、陸軍はイギリス領のマレー半島コタバルで奇襲上陸作戦を行っていた。真珠湾とマレーで一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。しかし源田の案により、暗闇での発艦を回避するため、攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかったため、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しないことにした。これにより、真珠湾攻撃はコタバルの2時間遅れとなった[30]

トラ・トラ・トラ

ハワイは現地時間12月7日日曜日の朝だった。7時10分(日本時間8日午前2時40分)に、アメリカ海軍の駆逐艦DD-139「ワード(ウォード)」がアメリカ領海内において国籍不明の潜水艦を発見し、砲撃によりこれを撃沈した(ワード号事件)。これは日本軍の特殊潜航艇であった。ワード号は直後に「未識別の潜水艦」を撃沈した旨を太平洋艦隊司令部へ打電したが、ハワイ周辺海域では漁船などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されず、アメリカ軍は奇襲を事前に察知する機会を逸した。

7時35分(同3時5分)に航空隊はオアフ島北端カフク岬を雲の切れ目に発見し7時40分(同3時10分)に「突撃準備隊形作れ」を意味する「トツレ」が発信され、信号弾が発射された。この際、奇襲の場合[注釈 3]には合図が信号弾1発で火災による煙に妨げられることない状況で対艦攻撃を実施させるべく艦攻による攻撃を先行させ、強襲の場合には合図が信号弾2発で艦爆による対空防御制圧が先行させる作戦計画になっていたが、信号弾1発で村田重治率いる雷撃隊が展開行動を起こさないのを見て淵田美津雄は合図を見逃したと誤解しもう1発信号弾を発射、艦爆隊指揮官である翔鶴飛行隊長高橋赫一海軍少佐はこれを合わせて信号弾2発と誤解し先行した[31]

間もなく重巡筑摩の偵察機から「在泊艦は戦艦一〇、甲巡一、乙巡一〇」との報告があり、それと前後してラハイナ泊地に向かった重巡利根の偵察機からは「敵艦隊はラハイナ泊地にはあらず」との報告が入った[31]

7時49分(同3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命した[24]

7時52分(同3時22分)、淵田は旗艦赤城に対してトラ連送「トラ・トラ・トラ」を打電した[24]。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する暗号略号である[31]。この電波は赤城で中継したが、中継を待つまでもなく広島湾にいた戦艦長門でも、東京の大本営でも指揮官機の電波を直接受信した[31]。7時53分(同3時23分)に赤城から「隊長、先の発信、赤城了解」と返信があった[31]

航空機による攻撃は8時00分(同3時30分)に雷撃により開始される予定だったが、これより5分早い7時55分(同3時25分)に急降下爆撃隊がフォード島ホイラー飛行場へ250kg爆弾による爆撃を開始し、これが初弾となった[24]。続いてヒッカム飛行場からも爆煙が上がった[31]。雷撃隊を率いていた村田重治は正しく奇襲と理解し予定通りヒッカム飛行場上空を通る雷撃コースに入ろうとしていたがヒッカム飛行場からの爆煙に驚き、目標が見えなくなっては一大事と近道を取り、7時57分(同3時27分)に雷撃を開始した[31]淵田美津雄は飛行場攻撃の爆煙があまり激しくならないうちに水平爆撃を開始する旨を決意し、水平爆撃隊に「突撃」(ツ・ツ・ツ・・・のツ連送)を下命した[31]

7時55分頃に戦艦「アリゾナ」で空襲警報が発令された。7時58分(同3時28分)、アメリカ海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と警報を発した。

8時00分(同3時30分)、戦闘機隊による地上銃撃が開始され、8時5分(同3時35分)、水平爆撃隊による戦艦爆撃が開始された[31]

8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800kg爆弾が四番砲塔側面に命中。次いで8時6分、一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中した。8時10分、アリゾナの前部火薬庫は大爆発を起こし、艦は1,177名の将兵とともに大破沈没した。戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中した。オクラホマは転覆沈没し将兵415名が死亡または行方不明となった。

宣戦布告

アメリカ東部時間午後2時20分(ハワイ時間午前8時50分)野村吉三郎駐アメリカ大使来栖三郎特命全権大使が、コーデル・ハル国務長官に日米交渉打ち切りの最後通牒である「対米覚書」を手交する。日本は「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」を発して、米国と英国に宣戦を布告した。この文書は、本来なら攻撃開始の30分前にアメリカ政府へ手交する予定であったのだが、駐ワシントンD.C.日本大使館井口貞夫元事官や奥村勝蔵一等書記官らが翻訳およびタイピングの準備に手間取り、結果的にアメリカ政府に手渡したのが攻撃開始の約1時間後となってしまった。そのため「真珠湾攻撃は日本軍の騙し打ちである」とのアメリカのプロパガンダに使われることとなった。

第二波攻撃

ハワイ時間午前8時54分(日本時間4時24分)、第二波空中攻撃隊が「全軍突撃」を下命した。奇襲から立ち直った米軍は各陣地から猛烈な対空射撃を行い、日本軍航空隊を阻止しようとした[32]。第二波攻撃隊は、米軍の防御砲火を突破する強襲を行い、小型艦艇や港湾設備、航空基地、既に座礁していた戦艦「ネバダ」への攻撃を行った。第二波攻撃隊の被害は第一波攻撃隊と比べて大きく、「加賀」攻撃隊(零戦9機、艦爆26機)だけでも零戦2機、艦爆6機を失い、19機が被弾した[33]。また「飛龍」所属の零戦(西開地重徳 一飛曹)は[34]ニイハウ島に不時着、12月13日のニイハウ島事件で死亡した。

特殊潜航艇による攻撃

機動部隊とは別に特殊潜航艇甲標的を搭載した伊号潜水艦5隻は下記の編成で11月18~19日にかけて呉沖倉橋島の亀ヶ首を出撃し、12月7日オアフ島沖5.3~12.6海里まで接近した。特殊潜航艇はハワイ時間午前0時42分(日本時間20時12分)から約30分間隔で順次真珠湾に向かって出撃した。

攻撃は5隻全艇が湾内に潜入することに成功し、3隻が魚雷攻撃を行った。しかし4隻が撃沈、1隻が座礁・拿捕され、帰還艇なしという結果に終わった[21]。その後、行方不明であった特殊潜航艇が発見され、魚雷は未発射であったことから魚雷攻撃を行ったのは2隻とされている[35]

近年までは、中村秀樹のように成果なしと評価するものがあったが[36]、特殊潜航艇によって戦艦ウェストバージニアと戦艦オクラホマへの雷撃が行われており、このうちオクラホマは特殊潜航艇による雷撃が転覆をもたらしたとするアメリカ側からの評価がなされている[37]

日本では、撃沈された4隻(雷撃に成功した1隻は自沈[37])の乗組員8名と、座礁した艇から脱出して水死した1名を加えた9名が二階級特進し、「九軍神」として顕彰された[38]。座礁した艇から艇長の酒巻和男海軍少尉が脱出して漂流中に捕虜となったが公表されなかった。また、九軍神とされた将兵を顕彰する配慮から、撃沈ではなく自沈であり、空中攻撃隊の800kg爆弾で撃沈された戦艦アリゾナは特殊潜航艇による撃沈という発表が大本営から行われた[39][40]

帰投

攻撃後は次席指揮官の第三戦隊司令官三川軍一から再攻撃の意見具申があった[41]が、一航艦長官南雲忠一は参謀長草鹿龍之介の進言もあり、予定通り離脱した[42]山口多聞は「第二撃準備完了」とそれとなく催促はしたが、搭乗員や参謀からの再攻撃を意見具申する要望に「南雲さんはやらないよ」と意見具申まではしなかった[43]。連合艦隊司令部では連合艦隊長官山本五十六に参謀の数名が「再度の攻撃を第一航空艦隊司令部に催促するべし」と進言したが、山本は「南雲はやらんだろう」「機動部隊指揮官(南雲)に任せよう」と答え、再度の攻撃命令は発しなかった[44]

日本時間午前8時30分頃、空中攻撃隊は順次母艦へ帰投した。午前9時頃、日本海軍空母機動部隊は北北西に変針し日本への帰路についた。

軍令部は、南方資源要域攻略作戦を終えて迎撃作戦の準備が整うまで米艦隊主力を抑え、かつ敵減殺を本作戦の主目的としていたため、一撃のみで損害を避けた見事な作戦指導と評価した[45]。一方、連合艦隊長官山本五十六は空母の喪失を引き換えにしても戦争を終わらせるダメージを与えたいという考えだったが、草鹿によれば南雲にはその真意が知らされていなかったという[46]。また、アメリカ側ではヘンリー・スティムソン陸軍長官が真珠湾攻撃について次のように評している。「日本が戦略的にはばかげた行為であったが戦術的には大成功をおさめたことを私が知ったのは、その日の夕方になってからであった。(当初、スティムソンはハワイの部隊が反撃して、日本の攻撃部隊に大損害を与え得るだろうと考えていた)」「日本軍部は唯一の終局の結果しかない戦争をはじめたのであるが、日本のすべり出しは明らかにすばらしいりっぱなものであった。」[47]

12月16日、第二航空戦隊司令山口多聞少将の指揮下、「飛龍」「蒼龍」と護衛の「利根」「筑摩」及び駆逐艦「谷風」「浦風」がウェーク島攻略支援に向かった(ウェーク島の戦い)。12月23日、機動部隊は瀬戸内海に位置する柱島泊地に帰還し、作戦は終了した。

12月26日、異例ながら佐官級による昭和天皇への真珠湾攻撃の軍状奏上が行われ、第一波空中攻撃隊隊長の淵田美津雄中佐は艦船攻撃について、第二波空中攻撃隊隊長の嶋崎重和少佐は航空基地攻撃について奏上した。続く海軍大臣官邸での祝賀会では海軍軍事参議官が参集したり、翌27日に霞ヶ関離宮で成人皇族達と面会するなど真珠湾攻撃の影響の大きさがうかがえる。

影響

第二次世界大戦の拡大

日本軍の奇襲作戦は成功し、アメリカ軍の戦艦8隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果をあげた。アメリカ太平洋艦隊の戦力低下により、日本軍は西太平洋海域の制海権を確保し、これにより南方作戦を成功裏に終えた。真珠湾攻撃の前にマレー半島での上陸作戦(マレー作戦)が開始されているが、真珠湾攻撃によって日本とアメリカとの戦争は始まったと言って良い。真珠湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領の要請により、アメリカ合衆国議会はアメリカと日本は開戦したと宣言した。

12月10日、アドルフ・ヒトラーは軍部の反対を押し切ってアメリカへ宣戦布告し、第二次世界大戦ヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。当時モンロー主義を色濃く残していたアメリカは、ヨーロッパでの戦争にも日中戦争にも介入には消極的であり、連合国に対する支援はレンドリース法による武器援助に止まっていたが、真珠湾攻撃を受けてアメリカの世論は一気に参戦へと傾いた。

さらに、日米交渉打ち切りの文書を渡す前に攻撃を始めたこと、その文書は交渉打ち切りの文書であって開戦や武力行使を示唆する言葉が無かったこと、日本が数日から数週間以上前より戦争準備を進めていたことが明らかなことから、真珠湾攻撃が「卑劣な騙し討ち」として宣伝されることとなったことも世論に影響した。イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、真珠湾攻撃のニュースを聞いて戦争の勝利を確信したと回想している。

航空主兵への転換

当時、航空機による戦艦など主力艦の撃沈は不可能であるという考えが主流であったが、真珠湾攻撃以前の段階で航空機の脅威は無視できないものになっていた。例えば1940年(昭和15年)11月のタラント空襲でイギリス軍空母「イラストリアス」搭載のソードフィッシュ雷撃機21機がイタリア軍戦艦1隻を撃沈・2隻を大破させる大戦果をあげ、1941年(昭和16年)5月にはドイツ戦艦「ビスマルク」がイギリス軍雷撃機により舵を破壊され、間接的に撃沈されている。真珠湾攻撃から2日後、12月10日のマレー沖海戦では、航行中のイギリス戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」が航空攻撃のみで撃沈された。これらの海戦結果により、それまで海戦において補助的な位置付けにあった航空機が主役として注目されると同時に、いかなる艦船でも航空機によって撃沈されうることが浮き彫りとなった。こうして大艦巨砲主義時代は終焉を迎え、時代は航空主兵時代へと移るのである。それでも戦艦の建造は少数ながら続けられ、日本海軍が大和型戦艦3番艦を空母「信濃」に改造したのに対し、アメリカ海軍がアイオワ級戦艦イリノイ」「ケンタッキー」の建造を中止したのは1945年8月と1950年1月、イギリス海軍は1946年8月に戦艦「ヴァンガード」を、フランス海軍は1949年に戦艦ジャン・バール」を完成させた。

アメリカ本土攻撃の恐怖

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乾ドックに停泊中に攻撃を受けた戦艦ペンシルベニア。手前は駆逐艦ダウンズとカッシン

真珠湾攻撃以降の日本海軍による開戦当初の進撃と、連合軍の度重なる敗退を受けて、日本軍によるアメリカ本土空襲およびアメリカ本土への上陸計画の可能性が高いと考えられるようになった。ルーズベルト大統領は日本軍の上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討した。

実際に1942年に入り、日本海軍の潜水艦によるカリフォルニア州カナダバンクーバー島などへの砲撃が複数回にわたり行われたうえ、西海岸沿岸において通商破壊戦が繰り広げられたほか、潜水艦の搭載機によるアメリカ本土空襲が二度に渡り行われた。また戦争開始後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局にたびたび報告され、「ロサンゼルスの戦い」のような事件も起きた他、防空壕の整備や沿岸地区への陸軍部隊の配置が進んだ。

アメリカ軍の再建

アメリカ軍の受けた被害は戦艦などの艦船と飛行場などに集中し、その被害の大きさに比べて、艦船乗組員の多くは上陸していたため人的被害は大きくなかった。乗艦を失った乗組員の多くは、新たに建造された空母へと配置転換された。追加的な攻撃もなされなかったため、乾ドックなど港湾施設の損害も少なかった。これは沈んだ戦艦の再生など被害からの復旧の助けとなった。

大本営海軍報道部は、米戦艦5隻撃沈・3隻大破修理不能と大本営発表を行った[48]。だが沈んだ戦艦8隻のうち6隻は後に引き揚げられ復帰しており、最終的にアメリカ軍が失った戦艦は2隻であった[注釈 4]。太平洋戦争中この時以外でアメリカ戦艦の喪失はない。空母「エンタープライズ」「レキシントン」は真珠湾外で航空機輸送任務に従事していたため無傷であり、残る空母「サラトガ」「ホーネット」「ヨークタウン」「ワスプ」「レンジャー」は西海岸または大西洋配置で日本軍が撃沈できる可能性は皆無であり、これらの空母はその後の作戦において大きな力を発揮した。また、日本軍の入手した島の地図が古かったことからテンプレート:要出典、合計450万バレル相当の重油を貯蓄していた石油タンクを爆撃せず、海軍幹部の娯楽施設を爆撃してしまったテンプレート:要出典という逸話もある。ただし「450万バレル(トン数になおすと60万t)」という貯蓄量は、1930年代の時点で米海軍省がおこなった総石油消費量試算で、「太平洋艦隊は戦闘時で1カ月あたり50万トンの燃料を消費する」という結果が出ているのと、その後米海軍は対日本戦を意識して強化され保有艦数も増えていること、さらに米国の豊富な石油資源(1940年の米国の石油保有数は19,500億kl[49])と米軍の輸送能力を考慮に入れればそれほど大きな量ではない上に、そもそも非常に燃え辛い性質である重油がタンクに貯蔵された状態で多少の爆撃を受けた程度で爆発炎上するとは考えにくく、少数精鋭の航空機をすべて艦隊攻撃に回す他ない奇襲計画自体の余裕のなさを考え合わせれば、タンクを攻撃してもしなくても同じような状況だったと言える[50]。また、日本海軍でも空襲に備え燃料は地下に貯蓄されていたため、「地表のタンクは囮である」と攻撃隊が判断し、あくまで主目標である艦隊への攻撃に集中するという判断に至ったとしても批判の対象とするには厳し過ぎる[51]。当初からアメリカの国力差から、日本軍は短期決戦を想定していたが、攻撃目標に含まれていた主力空母2隻を撃沈できなかったことは緒戦でアメリカ軍が持ちこたえる原動力となり、日本軍の短期決戦戦略が頓挫する一因となった。もっとも大本営海軍報道部は日本軍潜水艦が「エンタープライズ」を不確実ながら沈めたと発表した[52]。翌年3月7日のニューギニア沖海戦でも、日本軍は空母「レキシントン」を攻撃して大損害を与えたものの、エンタープライズ型空母1隻撃沈を発表している[53]マーシャル・ギルバート諸島機動空襲ドーリットル空襲など一撃離脱を行う米海軍機動部隊は日本軍にとって悩ましい存在であり、これを一挙に撃滅すべく山本長官と連合艦隊司令部はミッドウェー作戦を発動することになった。

参加兵力

日本海軍

アメリカ海軍

損害

日本海軍

  • 空襲部隊:未帰還機29機、損傷74機、戦死55
  • 特別攻撃隊:甲標的 未帰還5隻、戦死9(岩佐直治大尉[注釈 5]など)、捕虜1(酒巻和男少尉)

アメリカ海軍

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海底から引き上げられる戦艦オクラホマ
  • 戦艦
    • ネバダ:被雷1、被弾5、至近弾2。擱座。1942年4月22日サルベージ作業終了。1942年12月修理改造終了。
    • オクラホマ:被雷5。転覆、沈没。1943年浮揚、1944年、修理を断念し除籍。1947年サンフランシスコへ移送中沈没。
    • ペンシルベニア:ドック内で被弾1。修理の際にオクラホマとアリゾナから取り外した主砲を搭載し、1942年3月艦隊に復帰。
    • アリゾナ:被雷1、被弾8。800kg爆弾の命中による弾薬庫(火薬庫)の爆発で艦体切断・沈没。サルベージ中止。引き揚げ可能な装備を引き揚げの後、除籍。その後1962年以来記念艦として在籍し現在に至る。
    • テネシー:被弾2(不発弾1)。損害は軽微だったが、修理と同時に大改装を施して艦隊復帰。
    • カリフォルニア:被雷2、被弾1、至近弾1。着底。1942年3月浮揚、1944年5月修理・大改装終了。
    • メリーランド:被弾2。1941年12月21日、応急修理終了。本格修理の後1942年2月艦隊に復帰。
    • ウエストバージニア:被雷7、被弾2(不発弾)。着底。1942年5月サルベージ作業終了。修理・大改装を実施し1944年7月に艦隊復帰。
  • 駆逐艦
    • カッシン
    • ダウンズ
  • 標的艦

「宣戦布告」遅延問題

東郷茂徳外務大臣は宣戦布告をしなくてもよいと考えていた上に、開戦とほぼ同時にこのような大規模攻撃をかけるとは知らず、また11月30日開戦と思い込んでいて時間的にも余裕がないと考えていた。国際法上自衛戦争であるならば宣戦布告は不要でもあった[26]。しかし、途中で話がおかしいと気づいて開戦通告する方向に傾いた[26]。12月1日の御前会議で正式に対米戦争開戦が決まった際、昭和天皇は東条英機を呼んで「間違いなく開戦通告をおこなうように」と告げ、これを受けて東条英機は東郷茂徳に開戦通告をすべく指示し、外務省は開戦通告の準備に入った。

東郷茂徳外務大臣から駐米大使野村吉三郎宛、パープル暗号により暗号化された電報「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇一号」は、現地時間12月6日午前中に大使館に届けられた。この中では、対米覚書が決定されたことと、機密扱いの注意、手交できるよう用意しておくことが書かれていた。

「昭和16年12月7日東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇二号」は「帝国政府ノ対米通牒覚書」本文で、14部に分割されていた。これは現地時間12月6日正午頃から引き続き到着し、電信課員によって午後11時頃まで13分割目までの解読が終了していた。14分割目は午前3時の時点で到着しておらず電信課員は上司の指示で帰宅した。14分割目は7日7時までに到着したと見られる。九〇四号は覚書の作成にタイピストを利用しないようにとの注意、九〇七号では覚書手交を「貴地時間七日午后一時」とするようにとの指示が書かれていた。

朝に大使館に出勤した電信課員は午前10時頃に解読作業を開始し、昼の12時30分頃に全文書の解読を終了した。解読が終わったものから順に一等書記官奥村勝蔵により修正・清書された。

覚書は現地時間午後2時20分に来栖三郎特命全権大使野村吉三郎大使より、国務省においてコーデル・ハル国務長官に手交された。これは指定時間から1時間20分遅れで、マレー半島コタバル上陸の2時間50分後、真珠湾攻撃の1時間後だった。

「米国及び英国に対する宣戦布告の詔書」は日本時間11時45分に渙発された。

この問題について外務省は調査委員会を設立し調査を行ったが、調査結果は公表されなかった。1994年11月20日に外務省は当時の調査委員会による調査記録「昭和16年12月7日対米覚書伝達遅延事情に関する記録」を公開した。現在この資料は外交史料館報第8号で閲覧可能である。この調査などに基づく通説では、6日夜に大使館員が南アメリカへ転勤する寺崎英成の送別会をメイフラワー・ホテルの中国料理店で行っていたこと、奥村が送別会後も大使館に戻って浄書を行わず知人の家にトランプをしに行っていたこと、奥村の英訳親書の浄書・タイプが遅れたこと、14分割目に「大至急」の指示が付されておらず覚書本文の続きであることがわからなかったことなどが原因であるとされている。

このような大使館のミスによる失態であるとの通説に対して、奥村とともに責任を問われることがある館務総括参事官の井口貞夫は生前に「自分の管掌事務ではなく承知していなかった」と主張していた。またその息子である井口武夫ニュージーランド大使も、外務省本省が負うべき落度を現地大使館に責任転嫁しているとして、奥村書記官を含めて大使館側に失態はなかったと主張している。

問題の覚書が宣戦布告とみなせるのかどうかについて議論の余地が存在する。覚書本文の最終部分(第7項3)は次のようになっている。

仍テ帝国政府ハ、茲ニ合衆国政府ノ態度ニ鑑ミ、今後交渉ヲ継続スルモ妥結ニスルヲ得ズト認ムル外ナキ旨ヲ、合衆国政府ニ通告スルヲ遺憾トスルモノナリ。

これは極めて強い調子の交渉打ち切り宣告であるが、正式な宣戦布告は「宣戦布告の詔書」において行われている。

コタバル上陸により始まったマレー作戦は本来の手交時間よりも先に無通告で開始されているが、イギリスはウィンストン・チャーチルが皮肉を言った程度で抗議すらしていない[26]

アメリカは当時すでにパープル暗号の解読に成功しており文書が手交される前に内容を知悉していた。ルーズベルトは12月6日の午後9時半過ぎに十三部を読み、「これは戦争ということだね(This means war.)」とつぶやいたという[54]。ハルの回想によると12月7日の午前中に全十四部の傍受電報を受け取ったとあり、「日本の回答は無礼きわまるものであった」「この通告は宣戦の布告はしていなかった。また外交関係を断絶するともいっていなかった。日本はこのような予備行為なしに攻撃してきたのである」とある[55]。また通告が遅れたことについては「日本政府が午後一時に私に合うように訓令したのは、真珠湾攻撃の数分前に通告を私に手渡すつもりであったのだ。(中略)野村は、この指定時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しかでき上がっていないにしても、あとはできしだい持ってくるように大使館員にまかせて、正一時に会いに来るべきであった」としている[56]

なお、「宣戦布告遅延」問題と「敵対行為の開始に関するハーグ第三条約」との関連について、極東軍事裁判における本判決は次のように述べている。 「この条約は、敵対行為を開始する前に、明確な事前の通告を与える義務を追わせていることは疑いもないが、この通告を与えてから敵対行為を開始する間に、どれだけの時間の余裕を置かなければならないかを明確にしていない」「一切の事が順調にいったならば、真珠湾の軍隊に警告するために、ワシントンに二十分の余裕を与えただろう。しかし、攻撃が奇襲になることを確実にしたいと切望する余り、彼等は思いがけない事故に備えて余裕を置くということを全然しなかった」とした上で、日本大使館の不手際による遅延を認定し、「奇襲という目的のために、時間の余裕をこのように少なくすれば、通告の伝達を遅らせる間違いや手違いや怠慢に対して余裕をおいて置くことができなくなる。そうして、この条約の義務的であるとしている事前の通告は、実際には与えられない事になるという可能性が大きい」と条約の構造上の欠陥を注意喚起している[57]

陰謀論

テンプレート:Main 須藤真志によると真珠湾攻撃及び日米開戦にまつわる陰謀論について、整理すれば次の3つのバージョンとなるという[58]

  1. ルーズベルト政権が日本の真珠湾攻撃を予測していながら、それをハワイの司令官たちに伝えなかった
  2. ルーズベルトが個人的に日本の真珠湾攻撃を事前に知っており、太平洋艦隊を囮にした
  3. ルーズベルトが日本からの開戦を仕向けるために挑発を行った

こうした陰謀論が起こる背景として、秦郁彦はアメリカ側の真珠湾攻撃への屈辱、長期にわたったルーズベルト民主党政権に対する共和党系の反感、現地司令官の名誉回復を願う動きを挙げ、日本側では太平洋戦争について日本だけが悪者とされていることに不満を持つ人々が日本側記録との対照やアメリカ側の背景分析もせず、聞こえの良い陰謀論を鵜呑みにする傾向があったと述べている[59]

「アメリカは事前に察知していた」との主張

「アメリカは真珠湾攻撃を事前に察知していた」という噂は既に戦時中からあった。主張によれば、アメリカ合衆国政府ないしはルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に察知したのだが、暗号を解読している事実を日本に知らせないためには、事前に真珠湾に警戒態勢をとらせることはできなかったのだという。

さらには、そのまま攻撃させたほうが政治的に有利であるため、あえて見過ごしたのだとする主張もある。こうした陰謀論でよく語られる「根拠」として、当時日本の外交暗号はほぼ解読されていたこと、民主党のルーズベルトが対独開戦を指向していたにもかかわらず共和党を中心とした反戦世論により妨げられていたが、真珠湾攻撃を受けたことにより実現したことなどがある。

否定説
現時点で傍受を証明する資料は存在しない。当時の軍事的常識からすれば、日本の戦争目的は石油・ゴムなどの南方資源を確保することであり、アメリカの対日戦争計画も日本軍がフィリピンに攻め寄せると考えており、ハワイが攻撃対象となるとは想定していなかった(オレンジ計画)。日本海軍は囮の艦船を派遣して偽装通信を頻繁に行い、艦隊が南方に向かっているように装っていた。また、艦隊決戦が主流であった時代であって、航空機による海戦はあまり考慮されていなかった。真珠湾内での魚雷攻撃は、浅瀬のため技術上きわめて困難であるとも考えられていた。また日本の用いていた暗号のうち海軍暗号は1941年12月の段階では解読されていなかった。
また、真珠湾攻撃は海軍により徹底的に秘匿が図られ、日本の外務省すら内容を知らされておらず、解読済みの外務省暗号では開戦日時や攻撃場所はそれを察知できなかった。しかも真珠湾攻撃に向かう艦船はすべて無電封止(無線通信の禁止)を行っており[24]、モールス打鍵器にロックが掛けられていたとの証言もある。更に呉・柱島泊地からは機動艦隊発に見せかけた偽のモールス信号が大量に発信されていたため[注釈 6]、11月25日時点でアメリカ海軍情報部は、艦隊は呉~鹿児島南部のあたりにいると予想していた[60]
さらに、仮に無線を傍受していたとしても、作戦概要は本土から空母「赤城」の金庫に保管されており、出撃命令も1941年11月20日に軍令部第一部長、福留繁少将から手交によって行われているので[61]、無線の内容で攻撃目標が真珠湾であることや、作戦概要を知ることは不可能であった。
肯定説
  • 当時のアメリカ国務長官ハルの回顧には、1941年1月27日に東京のグルー大使から、「日本の軍部は日米間に事が起こった場合には真珠湾を奇襲する準備をしている」という情報を受けたため、陸、海両省に報告したという記述がある[62]今野勉の『真珠湾奇襲・ルーズベルトは知っていたか』には、グルーが国務省に送った電文が以下のように紹介されている[63]

テンプレート:Cquote

この内容を国務省から知らされたハロルド・スターク海軍作戦部長は、2月1日にキンメル太平洋艦隊司令長官に宛てた電報で「海軍情報部としては、この流言は信じられないものと考える。さらに、日本陸海軍の現在の配備と行動について知りえたデータによれば、真珠湾に対する行動が迫っているとか、予測できる将来において、こうした行動が計画されているとは考えられない」という情報部の見解をつけてこの内容を伝えている[64]。とはいえ、米政府が事前に真珠湾攻撃の可能性ありという報告を駐日大使から受けていたのは事実である[注釈 7]。グルー自身は、1941年1月27日の日記において「対米開戦時には、日本は真珠湾に集中的に奇襲攻撃をかけるという計画が進行中であると噂になっていたので、政府に報告した」[65]と記述している。
  • 情報の自由法により公開された米軍機密資料および公文書館資料を活用して詳細な調査を行ったロバート・スティネットは次のような主張をしている[66]
    • FBIの記録によると、「五数字暗号」とアメリカ側で呼ばれていた日本海軍暗号について、1940年10月には解読に成功していた。これは暗号解読方法説明資料「RIP73」、「RIP80」としてまとめられた(但し、添付資料の傍受日付は1941年11月18日だが、解読日付は戦後の1946年4月26日であることが左近允尚敏により指摘されており[67]、解読が成功したかについては疑問がある)。
    • 「RIP73」、「RIP80」は、アメリカ軍の諜報無線局であるハワイのHYPO、フィリピンのCASTおよびイギリスに提供され、日本海軍無線の暗号解読が可能な状態であった(上記の理由により、1941年10月時点での海軍暗号解読には疑問がある)。
    • 国防総省は上記暗号解読方法説明資料の配達記録の開示を拒んでいるが、配達の事実を公文書から確認できた[68]
    • シアトルの諜報無線局SAILが東京-ワシントン間の無線通信を集中的に傍受したところ、ほとんどがパープル暗号を用いたものであり、ワシントンの陸海軍暗号解読班により、数時間で解読翻訳されていた(解読させることには意図が働く場合がある)。
    • フィリピンのCASTの暗号分析班は、1941年11月30日に日本軍が実施した呼出符号変更を解析して、ハワイに向かう日本機動部隊のほとんどの艦船を特定していた(ハワイに向う指令は、無線では行われておらず、呼出符号変更の解析でハワイに向かう日本機動部隊の艦船の特定は不可能であることが、秦郁彦らに指摘されている[67])。
    • 無線方位測定機による日本機動部隊に関する位置情報は、すべて大統領にも提供されていた[68](軍令部が船橋送信所から発信した「A情報」を、機動部隊発信の無線と誤認した可能性を、今野勉により指摘されている[67])。
    • サンフランシスコ第12海軍区は1941年11月30日から12月3日の間、日本の艦隊がハワイ北方海域を北緯43度から38度まで航行するのを捕捉していた(コールサインから、商船「竜田丸」の交信を誤認した可能性を今野勉により指摘されている[67])。
    • 真珠湾攻撃前に日本機動部隊は無線封鎖を実施したとアメリカ側日本側ともに主張するが、アメリカ軍の傍受記録からは、日本機動部隊が無線封鎖を無視して頻繁に通信していたことを立証できる(その時期、日本海軍は大規模な偽電工作を行っており、それに引っ掛かった可能性を、秦郁彦らに指摘されている[67])。
    • (マッカラム覚書の)アーサー・マッカラム少佐は、「ハワイで傍受された報告は断片的であった」と主張しているが、ハワイの無線通信解析主任は、当時「毎日1000通以上の日本海軍無線を傍受しており、我々の報告は断片的ではなかった」と反論している(上記同様に、偽電工作による偽電文を傍受した可能性が高い[67])。
    • 海軍作戦部次長ロイヤル・インガソル少将の決定により、ハワイのキンメル提督は、解読電報の報告先から除外されていた。
    • 1979年のカーター政権下で公開された傍受電報に関する文章は全体のごく一部に過ぎず、国家安全保障局により、出所がすべて伏せられている。
    • 国家安全保障局が情報開示を拒んできたことについて、その職員は「それは公共の利益のためである。この問題は公に討論すべきことではない。政府の立場を弁明すること自体が、政府が守らねばならない秘密の一部となっている場合、政府の立場を明らかにすることはできない」と語った。
    • 日本無線傍受電報の原本記録はすべて機密暗号グループに分類され、現在でもほとんど公開されていない。

誘い出したとの主張

アメリカ合衆国政府ないしはルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を事前に察知していたと論ずる者の中には、さらに一歩論を進めて、アメリカが、わざと日本の攻撃を誘い出したという説を唱える論者もいる。また軍事的政治的な理由として、日本が先制攻撃を行う以外に、アメリカが対日戦争を引き起こす手立てがない。

否定説
アメリカが日本を誘い出したという説を唱える者の中には、時代遅れになった戦艦を生け贄としてあえて真珠湾に停泊させ、空母を出港させて温存したのがその証拠だと主張するものもあり、実際にミッドウェー海戦において、"温存した"空母の活躍によって、劣勢のアメリカが日本に対して逆転する端緒となったが、しかしそもそも戦艦が時代遅れになり空母が主役になったと認知されるようになったのはこの真珠湾攻撃がきっかけであり、原因と結果を取り違えた主張であると言わざるを得ない。真珠湾奇襲は大艦巨砲主義時代を終焉させ、航空主兵時代へ移行するという、軍事の一大転換をもたらしたと言えるが、仮に陰謀論が正しかったとすれば、アメリカはこの軍事的な一大転換すら事前察知していたことになる。また、出港した空母が南雲機動艦隊と遭遇しなかったことは偶然の産物であり、遭遇した場合は少数で圧倒的多数の日本艦隊と対峙することとなり、湾内に停泊した艦よりも状態としてはむしろ危険だったはずである。出港した空母が本来の生贄であり、その思惑が外れて空母が助かり、温存するはずの戦艦が被害を受けたという論も成り立つが、そうなると真珠湾攻撃は「陰謀の結果」ではなく「陰謀が失敗した結果」ということになる。なお、これはロバート・スティネットの主張したマッカラム覚書の内容(主力艦隊の維持)とは矛盾する(後述「マッカラム覚書」F)。
ロバート・スティネットの著書『真珠湾の真実』で参照される資料数は膨大で全容は掴みづらく、秦郁彦ら歴史研究者が日本側の資料と照合した結果では、事実関係の誤りや日付の誤認、牽強付会の解釈が多数あると指摘されている[67]
肯定説
軍事的政治的な理由として、日本が先制攻撃を行う以外に、アメリカが対日戦争を引き起こす手立てがない。当初、本営の対米作戦にはマレー沖で米艦隊を迎え撃つ作戦が用意されていたが、国内である海軍将官により熱烈な真珠湾攻撃への押しが数年続き、アメリカに絶対に勝てないという意図の下、戦火が開かれた。また日本は、対アメリカへの国力差を当然常識的に認識しており戦争反対論と対話外交が主流派だった。
誘い出したという説の根拠として、チャールズ・ビアードらは陸軍長官スティムソンの日記を挙げている。日記では11月25日のホワイトハウスでのルーズベルトの発言として、「攻撃を受けるかもしれない」、「いかにして彼らに最初の一発を撃たせるかが問題なのである。これはむずかしい話だ。」とある。『大日本帝国の興亡』の著者ジョン・トーランドはこれに対して、日記やスティムソンの後の発言からはこの説が正しいように見える。しかし、11月下旬に行われた大統領と顧問による討議録から、攻撃の可能性を信じていたのはアメリカ領以外のシンガポール・タイ・他の東南アジア地域であることがわかるとしている。また、ルーズベルトが「むずかしい話」と言ったのは、アメリカ以外への攻撃をアメリカへの攻撃だと強弁するのがむずかしいからであるとしている。日本に警告を送るなどの方法で、これが可能になることをトーランドは指摘している。後に、トーランドは新事実を基にして事前察知説に転向し、『真珠湾攻撃』(文藝春秋刊)を著している。主張の一つとして、南雲艦隊の無線封止は真珠湾攻撃を英雄視する日本人による美化であるというものがある[69]
ロバート・スティネットの著書は『真珠湾の真実』として日本語訳が出版されている。『真珠湾の真実』で語られたマッカラム覚書(英語)を参照されたい。マッカラム覚書は日本帝国の強みと弱み、アメリカ合衆国の第二次世界大戦における立場[注釈 8]と今後の展望を述べたもので、最後にA-H項からなる日本を追いつめるであろう項目が進言されている[注釈 9]。同書論調の最たる根拠としてはこれが真珠湾攻撃以前に用意された文書であること、この書簡が大統領側近に回されたこと、公開された資料からは大統領自身の指紋を著者が確認したことなど。またその項目は後に実行された現実の合衆国政策と符合ないし類似したことなど。また、同項はABCD包囲網とほぼ同義である。
マッカラム覚書F項は、当時、米艦隊の主力兵力は本土に配備されていたことを見ると、ハワイを増強して日本を挑発しようとする意図によるものであり、1940年の年次演習により米艦隊の主力兵力がはじめてハワイに集結したが、当初、演習終了後、艦隊主力をアメリカ西海岸に帰投させる計画であったものをサムナー・ウェルズ国務長官が計画修正して駐留させるよう圧力をかけたとロバート・スティネットは言う。

マッカラム覚書(Page4抜粋:一部邦訳)

9. It is not believed that in the present state of political opinion the United States government is capable of declaring war against Japan without more ado; and it is barely possible that vigorous action on our part might lead the Japanese to modify their attitude. Therefore, the following course of action is suggested:

  • A. Make an arrangement with Britain for the use of British bases in the Pacific, particularly Singapore.
A. 英領シンガポール太平洋基地の間借りのための英国政府への手配。
  • B. Make an arrangement with Holland for the use of base facilities and acquisition of supplies in the Dutch East Indies.
B. 蘭領東インド諸島基地の間借りのためのオランダ政府への手配。
  • C. Give all possible aid to the Chinese government of Chiang-Kai-Shek.
C. 中国政府蒋介石への援助(日中戦争の真っただ中である)
  • D. Send a division of long range heavy cruisers to the Orient, Philippines, or Singapore.
D. 極東フィリピン・シンガポールへ、重巡洋艦で編成される分艦隊の長期的な派遣。
  • E. Send two divisions of submarines to the Orient.
E. 極東への潜水艦で編成される二つの分艦隊の派遣。
  • F. Keep the main strength of the U.S. fleet now in the Pacific in the vicinity of the Hawaiian Islands.
F. ハワイ諸島周辺の太平洋における合衆国主力艦隊の維持。
  • G. Insist that the Dutch refuse to grant Japanese demands for undue economic concessions, particularly oil.
G. 日本が不当に要求する、経済的な権利・採掘権(特に原油)などの拒絶をオランダへ要請。
  • H. Completely embargo all U.S. trade with Japan, in collaboration with a similar embargo imposed by the British Empire.
H. 日米間全ての通商における徹底した船舶抑留と、同様の船舶抑留を共同でイギリス帝国に要請する。

10. If by these means Japan could be led to commit an overt act of war, so much the better. At all events we must be fully prepared to accept the threat of war.

真珠湾攻撃を題材とした作品

注釈

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脚注

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参考文献

テンプレート:参照方法

  • アジア歴史資料センター(公式)
    • Ref.A03025267000 『国際○米洲方面 グルーハ三十四日前ニ真珠湾ヲ警告シテイタ』
    • Ref.A06031043300 『週報271号』「海戦劈頭における海軍戦果」
    • Ref.A06031043400 『週報272号』「ハワイ海戦の戦果」
    • Ref.A06031079500 『写真週報200号』
    • Ref.A06031079600 『写真週報201号』
    • Ref.A06031079700 『写真週報202号』「壮絶!ハワイ真珠湾殲滅戦」
    • Ref.A06031080000 『写真週報205号』「ハワイ海戦詳報第2報」
    • Ref.A06031080700 『写真週報212号』「純忠比なき九軍神」
    • Ref.B02032436200 『14.日本の真珠湾攻撃に関するパーンズ前ハワイ州知事の証言』
    • Ref.テンプレート:Cite book「真珠軍港設計略図及説明書(海軍少佐山本英輔提)」
    • Ref.テンプレート:Cite book
  • 戦史叢書 10 ハワイ作戦』, 防衛研修所戦史室, 朝雲新聞社, 1967年
  • 斎藤充功 『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか 』新潮新書 新潮社 ISBN 4106100762
  • ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』1巻 暁のZ作戦、毎日新聞社訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1984年(原著1970年)。ISBN 4150501017。
  • ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』2巻 昇る太陽、毎日新聞社訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1984年(原著1970年)。ISBN 4150501025。
  • ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』5巻 平和への道、毎日新聞社訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1984年(原著1970年)。ISBN 415050105X。
  • 山川新作『空母艦爆隊 テンプレート:Small』(今日の話題社、1985年) ISBN 4-87565-118-x
     著者は空母「加賀」九九艦爆操縦者。第二次攻撃隊に参加。
  • 『歴史街道』2001年9月特別増刊号『真珠湾攻撃』PHP研究所
  • 半藤一利江坂彰『撤退戦の研究』光文社 ISBN4-334-00680-9

関連項目

外部リンク

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  1. #山本調査報告pp.2-3
  2. 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫101–102頁
  3. 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫11-13頁
  4. 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫101–103頁
  5. 戦史叢書10ハワイ作戦91-92頁、源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年19-22頁
  6. 戦史叢書10ハワイ作戦91-92頁
  7. 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年19-22頁
  8. 戦史叢書10ハワイ作戦91-92頁
  9. 戦史叢書10 ハワイ作戦 180頁
  10. 戦史叢書10 ハワイ作戦 93頁
  11. 戦史叢書10 ハワイ作戦 110頁
  12. 戦史叢書10 ハワイ作戦 176頁
  13. 戦史叢書10 ハワイ作戦 111頁
  14. 戦史叢書10ハワイ作戦112頁
  15. 戦史叢書10ハワイ作戦110頁
  16. 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年172-178頁
  17. 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年181-184頁
  18. 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年57-60頁
  19. 戦史叢書10 ハワイ作戦 181頁
  20. 真珠湾攻撃 - 西日本新聞
  21. 21.0 21.1 佐藤和正『太平洋海戦 1 進攻篇』講談社、1988年
  22. 山川『空母艦爆隊』単行本50頁
  23. 23.0 23.1 山川『空母艦爆隊』単行本51-52頁
  24. 24.0 24.1 24.2 24.3 24.4 24.5 『歴史街道』2001年9月特別増刊号『真珠湾攻撃』pp.65-80「ニイタカヤマノボレ一二〇八」。
  25. 山川『空母艦爆隊』単行本53頁
  26. 26.0 26.1 26.2 26.3 『撤退戦の研究』pp.57-94「精神主義の呪縛-なぜ情報が軽視されるのか」。
  27. 源田実『風鳴り止まず』サンケイ出版66-67頁
  28. 山川『空母艦爆隊』単行本54頁
  29. 山川『空母艦爆隊』単行本61-62頁
  30. ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』 2巻 「一部 開戦の聖断は下る 5 敵艦真珠湾ニ在リ」 p.67
  31. 31.0 31.1 31.2 31.3 31.4 31.5 31.6 31.7 31.8 『歴史街道』2001年9月特別増刊号『真珠湾攻撃』p.24-27「トラ、トラ、トラ発信の瞬間」。
  32. 山川『空母艦爆隊』単行本64頁
  33. 山川『空母艦爆隊』単行本61頁
  34. #飛龍飛行機隊調書(1)p.4
  35. 『本当の特殊潜航艇の戦い』pp.98-99(光人社NF文庫、2007年 ISBN 978-4-7698-2533-3)『』
  36. 『本当の特殊潜航艇の戦い』pp.112-113
  37. 37.0 37.1 特殊潜航艇の真珠湾雷撃成功か 米専門家が分析 共同通信 2009/12/08
  38. 「写真週報212号」p.2
  39. 「写真週報212号」pp.3-4
  40. 淵田美津雄『真珠湾攻撃総隊長回想 淵田美津雄自叙伝』講談社、2007年
  41. 戦史叢書10 ハワイ作戦344頁
  42. 戦史叢書10 ハワイ作戦345頁
  43. 戦史叢書10 ハワイ作戦 343-344頁
  44. 戦史叢書80 大本営海軍部・聯合艦隊(2)昭和十七年六月まで 78頁
  45. 戦史叢書43 ミッドウェー海戦 21頁
  46. 戦史叢書43ミッドウェー海戦21-22頁
  47. 毎日新聞社訳編 『太平洋戦争秘史 -米戦時指導者の回想』 毎日新聞社、1965年、134頁
  48. 「週報272号」pp.12-13
  49. 「虚構戦記研究読本」北村賢志 著p402
  50. 「虚構戦記研究読本」北村賢志 著p45-46
  51. 「虚構戦記研究読本」北村賢志 著p46
  52. 「週報271号」p.14
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  54. 大杉一雄 『日米開戦への道(下)』 講談社、2008年、292頁
  55. 『太平洋戦争秘史 -米戦時指導者の回想』 130頁
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  57. 冨士信夫 『私の見た東京裁判』 講談社、1988年、423-426頁
  58. テンプレート:Cite book
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  60. 佐藤大輔 『真珠湾の暁』、徳間書店、徳間文庫、2002年11月15日、ISBN 4-19-891792-2 --参考文献。
  61. 『戦史叢書 10 ハワイ作戦』--参考文献
  62. コーデル・ハル 『ハル回顧録』、中央公論新社、2001年10月15日、ISBN 4-12-203920-7 --参考文献
  63. 今野勉『真珠湾奇襲・ルーズベルトは知っていたか』PHP文庫、2001年。ISBN 4-569-57573-0。P277 --参考文献
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  66. テンプレート:Cite book原著Day of Decent,Robert B. Stinnett,Chandler Crawford Agency Inc.(2000)
  67. 67.0 67.1 67.2 67.3 67.4 67.5 67.6 秦郁彦 『検証・真珠湾の謎と真実』、PHP研究所、2001年8月1日、ISBN 4-569-61586-4 --参考文献。
  68. 68.0 68.1 国立第二公文書館資料
  69. ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』
    スティムソンの日記は 1巻 「五部 運命のハルノート 3 アメリカの暫定協定」 275頁
    ビアードらの仮説、トーランドの仮説(ビアードらへの反論)は 1巻 現注5部の5 350頁 トーランドはこの反論が証拠のない仮説であると認めつつも、ルーズベルトが誤ったとするよりは論理的・公平であると判断している
    トーランドによる事前察知説は 5巻 徳岡孝夫による「解説」 349頁