ニザームルムルク
ニザームルムルクまたはニザーム・アル・ムルク(نظام الملك، ابو علي الحسن الطوسي, Nizam al-Mulk Abu Ali al-Hasan at-Tusi、1017年 - 1092年)は、セルジューク朝の政治家、学者。君主マリク・シャーを支えてセルジューク朝全盛期を現出したイラン人宰相である。
生涯
ホラーサーン地方の都市トゥース近くの町で、地主の息子として生まれた(生年には1018年説もある)。本名は、ハサン・ブン・アリー・アル・トゥースィー[1]。ニザーム・アル・ムルクとは「王国の秩序」の意味で、君主よりあたえられた称号であった。はじめはガズナ朝に仕えたが、1040年にテンプレート:仮リンクでセルジューク朝に敗れ、ガズナ朝はセルジューク朝に臣従していた。
セルジューク朝第2代スルタンのアルプ・アルスラーンや第3代スルタンのマリク・シャー1世に傅役(アタベク)[2]として、また宰相として仕え、彼らをよく補佐した。ニザームは政治手腕に優れ、行政組織や軍隊、イクター制の整備をおこない、宗教政策や教育政策に尽力した。特に1067年には彼の名にちなんで、バグダードにニザーミーヤ学院を設立した[3]。また、宰相とはいえ、実際に軍を率いて遠征に参加することもあった。イラン南部やアルメニアにも遠征しており、1071年の東ローマ帝国とのマラズギルトの戦い(マンツィケルトの戦い)にもアルプ・アルスラーンの軍に参加している。
1072年に即位したマリク・シャー1世は、1074年、王都(ダール・アル・ムルク)をエスファハーンに定め、同年天文台を建設し、さらにウマル・ハイヤームに命じてジャラーリー暦という新暦(太陽暦)をつくらせた。1086年から1087年にかけてはマリク・シャーとニザームによって金曜モスクの南ドームが建てられた。これは、高さ20メートル、直径10メートルで、当時のイスラーム世界最大規模のドームであった。
こうしてセルジューク朝はマリクとニザームの両人体制がうまく機能したこともあって、遊牧国家の面影をのこす国から整備された帝国となり、2人が相次いで死去する1092年ころには最大版図を実現した。
ニザームは、政治家としてだけではなく、文化人としても一級であり、『政治の書』(スィヤーサト・ナーメ)[4]を記している。
しかし1092年、マリクの妃テンプレート:仮リンクに些細なことから恨みを買って暗殺されてしまった。マリク・シャーの後継者として、ニザームはマリク・シャーの長男バルキヤールクを推したが、妃は自分の実子であるマフムードを推した(バルキヤールクとマフムードは異母兄弟)。この問題では、ニザームを敵対視していた大臣タージ・ウル・ムルクが妃側につくなど、宮廷内に対立を引き起こした。一説によればこれはシーア派過激派のニザール派(暗殺教団)によるもので、彼がスンナ派の権威回復に努めシーア派を弾圧したことへの報復ともいわれるテンプレート:要出典。