ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ

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ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティGiovanni Battista Sidotti寛文8年(1668年) - 正徳4年10月21日1714年11月27日))は、イタリア人のカトリック司祭江戸時代中期の日本へ潜入して捕らえられ、その死まで江戸で幽閉された。時の幕政の実力者、新井白石はシドッティとの対話をもとに『西洋紀聞』などを著した。

生涯

イタリア、シチリアの出身。司祭として活動していたが、ヨーロッパへも殉教物語など宣教師の報告が伝わっていた日本への渡航を決意。教皇クレメンス11世に願い、日本潜入を目指した。マニラまでたどりつき、そこで4年間働く。マニラでの功績を認められ、日本行きを反対されたもののシドッティの決意は変わらなかった。そこで鎖国下の日本へ出発するため、シドッティのためだけに建造された船に乗って1708年宝永5年)8月日本に向け出発した。10月、髪を月代に剃り、和服に大小二本差しという侍の姿に変装して屋久島に上陸した。島の百姓に見つかり、言葉が通じないことで怪しまれ、ほどなく役人に捕らえられて長崎へと送られた[1]

翌年、1709年(宝永6年)江戸に護送され、時の幕政の実力者で儒学者であった新井白石から直接、尋問を受けた。白石はシドッティの人格と学識に感銘を受け、敬意を持って接した。シドッティも白石の学識を理解して信頼し、二人は多くの学問的対話を行った。特にシドッティは白石に対し、従来の日本人が持っていた「宣教師が西洋諸国の日本侵略の尖兵である」という認識が誤りであるということを説明し、白石もそれを理解した。

切支丹、特に伴天連(宣教師)は見つけ次第拷問、転ばせる(キリスト教信仰を捨てさせる)ことが最良という従来の規定を破り、新井白石は以下のような意味の意見上申を行った。

  1. 上策 本国送還 これは難しく見えるが、一番易しい。
  2. 中策 囚人として幽閉 これは簡単なようで実は難しい。
  3. 下策 処刑 これは簡単なようで実際、簡単。

白石が幕府に本国送還を上策として具申したのは異例のことであった。結局、用心した幕府は中策を採用し、シドッティを茗荷谷(現:文京区小日向)にあった切支丹屋敷へ幽閉することに決定した。(切支丹屋敷は1646年に捕らえた切支丹を収容するために作られたものであったが、シドッティが収容されるまで、鎖国と禁教政策によって長きにわたって誰も収容者がいなかった。)

茗荷谷の切支丹屋敷では宣教をしてはならないという条件で、拷問を受けないことはもちろん、囚人的な扱いを受けることもなく、二十両五人扶持という破格の待遇で軟禁されていた。屋敷でシドッティの監視役で世話係であったのは長助・はるという老夫婦であった。彼らは切支丹の親を持ち、親が処刑されたため、子供のころから切支丹屋敷で生涯をすごしていた。ある日、木の十字架をつけていることを発見され、二人はシドッティに感化され、シドッティより洗礼を受けたと告白した。そのためシドッティと共に、屋敷内の地下牢に移される。シドッティは、10ヶ月後の1714年正徳4年)10月21日に衰弱死した。46歳であった。

新井白石はシドッティとの対話から得た知識をまとめ、『西洋紀聞』と『采覧異言』を著した。また、シドッティの所持品であったカルロ・ドルチ作の聖母の画像(通称「親指のマリア」)は東京国立博物館の所蔵で、重要文化財に指定されている(重要文化財「長崎奉行所キリシタン関係資料」のうち)。

脚注

  1. 児玉幸多監修 『日本史人物事典』 講談社講談社+α文庫〉、ISBN 4-06-256120-4

小説

関連項目

外部リンク