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'''カンテミール家'''(Cantemireşti)は、[[モルダヴィア]]出身の[[ボヤーレ|大貴族]]の家系。元来は[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の血を引くとも言われる[[タタール]]貴族で、[[16世紀]]頃[[クリミア・ハン国]]からモルダヴィア公国に移住し、[[イスラム教]]から[[キリスト教]]に改宗した。 == 輩出した人物 == *'''[[コンスタンティン・カンテミール]]'''(Constantin Cantemir,[[1693年]]没)…1685年から1693年までモルダヴィア公を務め、宗主国[[オスマン帝国]]が[[オーストリア]]・[[ロシア]]など周辺列強と戦争状態にある困難な時代に、モルダヴィアを平穏に保つよう務めた優れた統治者であった。 *'''[[アンティオフ・カンテミール]]'''(Antioh Cantemir,[[1726年]]没)…コンスタンティンの子で、父を継いでモルダヴィア公を二度務めた([[1695年]] - [[1700年]]、[[1705年]] - [[1707年]])。 *'''[[ディミトリエ・カンテミール]]'''(Dimitrie Cantemir,[[1673年]] - [[1723年]])…アンティオフの弟で、ラテン語で最初の本格的なオスマン帝国の歴史書を著すなど多くの著作を残した文人として知られる。彼は[[1710年]]からモルダヴィア公を務めたが、翌[[1711年]]にモルダヴィアに侵攻したロシアの[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]に降伏したため、戦後ロシアに亡命し、ロシア帝国で[[公爵]]([[クニャージ]])の[[爵位]]を与えられた。 *'''[[アンティオフ・ドミトリエヴィチ・カンテミール]]'''([[ロシア語]]表記:Антиох Дмитриевич Кантемир / Antiokh Dmitrievich Kantemir,[[1708年]] - [[1744年]])…ディミトリエの子。[[ロシア語]]で詩作した[[詩人]]で、民衆の言葉を使い叙情的な詩を作ったので、近代[[ロシア文学]]の黎明期を代表する作家のひとりとして知られる。[[1731年]]にロシアの駐[[イギリス]]大使、註[[フランス]]大使を歴任している間に父の著作『オスマン帝国の勃興と衰退』の英訳・仏訳を出版し、これを西欧に広く紹介した。カンテミール公爵家は[[19世紀]]に後継者が絶え、断絶した。 {{DEFAULTSORT:かんてみる}} [[Category:ルーマニアの歴史]] [[Category:カンテミール家]] [[Category:オスマン帝国]]
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