エーリヒ・ルーデンドルフ
テンプレート:Infobox 軍人 エーリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff, 1865年4月9日 - 1937年12月20日)は、ドイツの軍人、政治家である。
第一次世界大戦初期のタンネンベルクの戦いにおいて第8軍司令官パウル・フォン・ヒンデンブルクを補佐してドイツ軍を勝利に導いた。大戦中期から後期には参謀本部総長となったヒンデンブルクの下で参謀本部次長を務め、「ルーデンドルフ独裁」とも呼ばれる巨大な実権を握った。最終階級は歩兵大将。戦後はアドルフ・ヒトラーと結び、ミュンヘン一揆を起こした。
『総力戦』の著者としても知られる。
目次
生涯
生まれ
ルーデンドルフはプロイセン王国が1793年から1919年まで統治したポーゼン州のシュヴェルゼンツ近くのクレシェフニア村(Kruszewnia)に地主アウグスト・ヴィルヘルム・ルーデンドルフ(August Wilhelm Ludendorff)とその妻クラーラ(Klara)(旧姓フォン・テンペルホーフ(von Tempelhoff))夫妻の息子として生まれた。現在この地はポーランド領である。ルーデンドルフ家はポンメルンの商人の一族であり、ユンカーではなかったが、ブルジョワだった。母親のフォン・テンペルホーフ家は有名なユンカー一家の出身であった。母の家系はテンプル騎士団以来のプロイセン軍人家系である[1]。
一次大戦前の軍歴
1877年にプレーン(de)の士官学校(Kadettenkorps)に入学し、ついで1879年7月よりベルリン・グロース・リヒターフェルデ(de)のプロイセン高級士官学校(de) に入学した[2]。1882年まで在学した[3][4]。1882年4月よりヴェーゼル(de)の第57歩兵連隊の少尉に任官した[4]。1887年から1890年にかけてヴィルヘルムスハーフェンで海軍の陸上部隊と共に任務にあたっていた。1890年7月に中尉に昇進[2][5]。
1890年10月からプロイセン戦争大学(陸軍大学)(de)に入学した。卒業後の1893年6月からバーデン近衛擲弾兵連隊「フリードリヒ・ヴィルヘルム3世」に勤務した[2]。1894年4月に参謀本部に配属される[2]。1895年3月に大尉に昇進するとともマグデブルクの第4軍団に参謀として配属された[2]。1898年4月にトルンの第61(第8ポンメルン)歩兵連隊「フォン・デア・マールヴィッツ」の中隊長、1900年7月にはグローガウの第7歩兵連隊の参謀、1902年7月にポーゼンの第5軍団の参謀に転属する。1902年7月に少佐昇進。1904年4月にベルリンの参謀本部の第2部(戦時中に作戦部(Militärische Plannungsabteilung)となると定められていた部署)の部長に就任した。1906年10月には戦争大学で教鞭をとった[2]。
1908年4月に中佐に昇進するとともに参謀本部の第2部の部長に復帰した。同年、工場所有者の娘マルガレーテ・シュミット(Margarete Schmidt)と結婚した[3]。1911年に第1部部長が「軍人より外交官にふさわしい」と評されたゲオルク・フォン・ヴァルテンゼー中将になったのを機にルーデンドルフの影響力が拡大し始めた[6]。彼は一貫して「真の形態での戦争」を主張した。平和とは二つの戦争に挟まれた休戦期間に過ぎず、全ての手段は戦争指導に従属させるべしと主張していた。これは戦争は政治の手段としたカール・フォン・クラウゼヴィッツの考えに完全に反駁するものであった。ルーデンドルフによれば政治の方が戦争指導の手段であった[7]。そのためルーデンドルフは職業軍人でありながら「全ドイツ協会」という政治団体を使って積極的に政治の世界に参加した。帝国議会議員の取り込みを図り、巨額な軍拡を認めさせ、1912年には二個軍団の増設と野砲の増強、陸軍11万7000人の増員、航空機の拡張などを実現した[8]。しかし当時のドイツ帝国の財政は建艦競争や社会保障費のために極度に逼迫しており、また陸相ヨシアス・フォン・ヘーリンゲン(de)大将も急速な軍拡によって将校団の教育や構成に弊害が生じ、将校団が「民主化」する事を恐れていた。そのためやがてルーデンドルフの行動は「出過ぎ」と看做されるようになり、1913年1月にデュッセルドルフの第39ニーダーライン歩兵連隊の連隊長へ左遷された[2][9]。
1914年4月に少将に昇進するとともに5月からシュトラスブルクの第85歩兵旅団の旅団長に就任した[2]。
第一次世界大戦
リェージュ要塞攻略
第一次世界大戦が開戦した直後の1914年8月2日に西部戦線のドイツ第2軍で司令官カール・フォン・ビューロウ上級大将の下で第二補給部長となった。第14歩兵師団に連絡将校として同行していた時に同師団の師団長が戦死したのを受けて代わって師団の指揮を執り、難攻不落と言われたリェージュ要塞(fr)を攻略した。ルーデンドルフは参謀本部第2部長時代からこの要塞をめぐって激しい争いになる事を予測してその奇襲を研究していたのだった[2][10]。リェージュ要塞の陥落によってドイツ軍はベルギー国内に続々となだれ込むことが可能となった[10]。
ルーデンドルフは、カイザー・ヴィルヘルム2世や参謀総長の「小モルトケ」ことヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケから高く評価された。
タンネンベルクの戦い
東部戦線でマクシミリアン・フォン・プリトヴィッツ・ウント・ガフロン上級大将(de)率いるドイツ第8軍が敗れたのを機にプリトヴィッツは更迭され、東部戦線はルーデンドルフ少将に任せることが決定した。しかしルーデンドルフは勤続年数から軍司令官就任資格がなく、参謀長にしか任命できなかった。そのため第8軍司令官には退役していたパウル・フォン・ヒンデンブルク大将が就任した。ルーデンドルフはその補佐役の参謀長に就任した[11][12]。この二人は第一次世界大戦を通じてコンビを組み続けることになるが、二人の関係では常にルーデンドルフが頭脳であり、ヒンデンブルクはお飾りの存在であった[13]。
ヒンデンブルクとともに8月23日夜にマリエンブルクの第8軍司令部に着任した。先任の第8軍作戦参謀マックス・ホフマン中佐とともにドイツ第8軍の反撃作戦を指揮した。損害や補給不足の影響でロシア第1軍がしばらく動かない事を電信の傍受で掴んでいたドイツ第8軍は、大部隊と見せかけた第1騎兵師団だけをロシア第1軍の正面に残し、またタンネンベルク付近で第20軍団をロシア第2軍に当たらせている間に他の各軍団・師団をロシア第2軍の左翼と右翼に移動させた。
8月26日からこれらの軍団や師団がロシア第2軍に攻撃を開始した。ヘルマン・フォン・フランソワ大将(de)率いる第1軍団は左翼から、アウグスト・フォン・マッケンゼン大将率いる第17軍団は右翼からロシア第2軍の背後に回り込み、8月29日早朝には同軍を包囲する事に成功した。ロシア第2軍20万人のうちロシアへ帰国する事が出来たのはわずか1万7000人だった[14]。
西部戦線から引き抜かれた2個軍団が新たに第8軍に加えられ、9月5日からロシア第1軍への攻撃を開始した。4個軍団でロシア第1軍に正面から攻撃をかけるとともに第1軍団と第17軍団にロシア第1軍左翼に当たる湖沼地帯を突破させ、その背後に回り込ませようとした。ロシア第1軍司令官パーヴェル・レンネンカンプは第2軍の二の舞になる事を恐れて2個師団を後衛として擁護させながら、東プロイセンから撤退した。ロシア軍の退却は9月10日から14日に及んだが、その間にもドイツ軍は砲撃を加え、ロシア第1軍は死傷者と捕虜で14万5000人の兵を失った[15][14]。こうして東プロイセンを巡ってドイツ帝国とロシア帝国で争われた「タンネンベルクの戦い」はドイツ軍の大勝利に終わった。
東部方面軍参謀長
オーストリア軍支援のガリチア方面出兵のためにドイツ第8軍は急遽第9軍を編成し、東部戦線のドイツ軍は第8軍と第9軍の2軍となり、その両軍の上に東部方面軍が置かれ、ヒンデンブルクが東部方面軍司令官、ルーデンドルフが東部方面軍参謀長にそれぞれ就任した。実権は引き続きルーデンドルフが握った。
1914年9月28日に第9軍と第8軍の一部はオーストリア軍支援のためにポーランド南部で攻勢に出て、ワルシャワ占領を目指し、10月6日にはヴァイクセル川に到着した。しかしヴァイクセル川の戦い(de)でロシア軍の頑強な抵抗にあい、突破できなかった。ドイツ軍は10月17日に退却し、オーストリア軍もカルパティア山脈まで押し戻された。ロシア軍はシュレージエンやハンガリーをうかがうまでに勢力を回復した[16][17]。
11月3日の作戦会議で東部方面軍は作戦を立て直した。ロシア軍に気づかれぬように鉄道で第9軍をすばやく移動させ、11月11日にロッヅを強襲したのであった。ロッヅの戦い(de)の末に12月6日にドイツ第9軍がロッヅを占領した。これによりロシア軍のシュレージエン侵入の野望は潰えた[16][18]。
1915年1月にヴィルヘルム2世の決裁で新たに4個軍団を得た東部方面軍は第10軍を創設した。オーストリア軍からの要請を受け、東プロイセンとカルパティアからロシア軍の突出部を攻撃する計画が実行された。東プロイセン・マズリア湖の戦い(de)でロシア軍に勝利をおさめたが、ロシア軍は新手の第12軍を投入し、またカルパティアの戦い(de)のオーストリア軍の敗北でドイツの情勢はむしろ悪化した[19]。
東部方面軍に業を煮やしたエーリッヒ・フォン・ファルケンハイン参謀総長は新設の第11軍とともに東部戦線を訪れ、直接指揮を執った。第11軍の司令官にはアウグスト・フォン・マッケンゼンが任じられ、5月2日に第11軍はゴルリッツの戦い(de)で攻撃を仕掛け、勝利を収めた。これを機にロシア軍は押し込められた。8月にはワルシャワが陥落。ロシア軍は大退却(ru)を行い、1915年秋には東部戦線はひとまず安定した[20]。
ファルケンハインはこの成功を盾に東部方面軍に対して態度を強め、東部方面軍の師団を別の戦線へ移動させるようになった。これに対してヒンデンブルクは1915年10月6日に「夏の作戦だけではロシア軍の攻撃力は完全に破られてはいない」としてこれ以上東部方面軍から師団を送ることを拒絶した。しかしヴィルヘルム2世の決裁でファルケンハインの命令通り、師団を送るよう命じられた[21]。ファルケンハインは1915年夏の勝利でロシアは当分立ち直れないと踏んでいたが、その見通しは甘かった。ロシア軍は迅速に再編成を済ませ、フランス軍の要請を受けて1916年3月19日にナーロチ湖の戦い(de)で攻勢に出た。東部方面軍は何とかこれを撃退したが、6月4日にはロシア軍はオーストリア軍に対してブルシーロフ攻勢をかけて勝利を収めた。ロシア軍は7月にドイツ東部方面軍に対する攻勢にでたが、ドイツ東部方面軍はこれを食い止め、戦線を保った。ロシア軍は10月まで攻勢を続けたが、すでに不意打ちの効果は失われていた。ロシア軍はこの一連の攻勢で100万の兵を失った[22]。ロシアで厭戦気分が高まり、1917年2月にはロシア革命が発生し、ロシア帝政が崩壊した。
参謀本部次長
ファルケンハインが発動した西部戦線のヴェルダンの戦いは思わしくなく、また彼が東部から兵力を引き抜いた後に東部戦線でロシア軍の攻勢があったことで彼の面目は潰れた。1916年8月にファルケンハインは更迭されることとなった。ヒンデンブルクが後任の参謀総長(Chef des Generalstaffs des Feldheeres)に任じられた。ルーデンドルフは参謀次長に任じられたが、この際に彼はこの役職の名称を「第一兵站総監」(Erster Oberquartiermeister)に改めたいと願い出て許可された[23]。この人事はモルトケの推挙によるものだったという[24]。これまで同様にヒンデンブルクはお飾りでルーデンドルフが実質的に役割を果たした。
ルーデンドルフはただちに各軍集団、軍、師団の司令部において司令官よりもベルリン参謀本部の指揮下にある野戦参謀本部が指揮をとるように改め、自分の指揮権限を拡大した[25]。これ以降のドイツの戦争は実質的にルーデンドルフによって指導されるようになった。またヴィルヘルム2世と宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークがそろって国家指導の才能に乏しく、国の政治指導部が「真空状態」になっていたこともあり、彼は政治にも干渉して「ルーデンドルフ独裁」と呼ばれる時代を築くこととなった[26][27]。
情報部を独立部署として発足させ、また外務省の参謀本部の出先機関を外務部とし、同部の下に宣伝を目的とする写真・映像課を設置させた。この課の下に映画会社ウーファが設立された[1]。また鉄道部のヴィルヘルム・グレーナーに軍需生産の中枢として「戦争局」を設置させた[28]。ますます重要な存在と化し始めていた航空隊を陸海軍に次ぐ「第三の軍」と認め、これを参謀本部の直接指揮下に置いた[28]。
参謀本部は軍事はもちろん、新聞や映画や絵画などの統制、宣伝、外交政策、軍需生産などあらゆる分野に手を伸ばすようになった[29]。ドイツが戦争に勝つためには国内のあらゆる分野を全て統制下において、その戦争潜在能力を最大限に引き出して活用する総力戦しか道はなかった。ヒンデンブルクとルーデンドルフの承認によってグレーナーが総力戦体制を「ヒンデンブルク綱領」としてまとめた。あらゆる消費財と食料の徹底的統制を命じ、また最後まで残されていた予備労働力である女性の動員を命じた。しかし総力戦体制は急速に社会の均一化をもたらし、「戦時社会主義」ともいうべき社会状況を発生させた。前線でも数百万人の動員、塹壕戦といった特殊な環境の中で兵士と将校の平等化が起こっていた。後の「ドイツ革命」への下地は着実に築かれていった[30]。
宰相ホルヴェークは無制限潜水艦作戦に反対し、ルーデンドルフと対立を深めた。ルーデンドルフは1917年7月に彼を失脚させた。後任に元宰相ベルンハルト・フォン・ビューロー侯爵か元海軍大臣アルフレート・フォン・ティルピッツ提督を考えたが、この二人はかつてヴィルヘルム2世が解任した人物であったからヴィルヘルム2世から反対があり、結局先日陸軍最高司令部に来てルーデンドルフらの覚えが良かった戦時食糧管理庁次官ゲオルク・ミヒャエリスが就任することとなった[31][32]。ミヒャエリスはルーデンドルフの忠実な代弁者として行動したが、1917年夏の最初の水兵の反乱、軍需工場のストライキなどにうまく対応できずに早々に辞職し、結局ゲオルク・フォン・ヘルトリング伯爵が宰相となった[33][34]。
一方戦争指導ではこれまでの東部戦線大攻勢論を撤回して西部戦線の立て直しに力を入れた。連合軍の攻勢に先んじて戦線を後退させ、強固な塹壕陣地帯「ジークフリート線(de:Siegfriedstellung)」(連合国は「ヒンデンブルク線」と呼んだ)を構築して防御を固めた。
1917年4月にイギリス軍はアラス会戦(de)で攻勢を強め、5月から6月のメッシーネの戦い(de)でドイツ軍の突出部を攻略。さらに7月末から11月にかけてパッシェンデールの戦い、11月から12月にかけて戦車軍団を動員したカンブレーの戦い(de)で攻勢をかけたが、ドイツ軍は頑強に抵抗してイギリス軍の侵攻を防いだ。
一方フランス軍は1917年4月にエーヌ会戦(de)で攻勢をかけたが、ドイツ軍が勝利した。フランスで厭戦気分が高まり、4月29日に68個師団で反乱が勃発した。首相ジョルジュ・クレマンソーが何とか抑え込み、ドイツとの戦争を継続した[35]。
海戦ではイギリスに対する海上封鎖を徹底化するために1917年2月に無制限潜水艦作戦を決定した。これは1917年4月のアメリカ合衆国の参戦を招いた。しかし当時のアメリカには本格的な陸軍はなく、軍の組織から開始する状況だったのでアメリカの実際的な参戦は1年先だった[36]。
一方、ロシア革命により帝政が崩壊したロシアに対しては和平交渉を行った。ロシア臨時政府首相アレクサンドル・ケレンスキーは連合国の求めに応じてドイツとの戦争を続行したが、ケレンスキー政府は1917年10月のボルシェヴィキによるロシア革命により崩壊した。ウラジーミル・レーニンのボルシェヴィキ政府が立ち上げられた。ドイツはレーニン政府にウクライナやバルト三国の分離独立を求めた。レーニンは初め拒絶したが、ロシアの軍事力は革命の混乱で崩壊状態であり、1918年2月にドイツ軍がロシア軍へ攻撃を開始したことで要求を飲むしかなくなった。1918年3月3日にブレスト・リトフスク条約が締結され、ドイツはロシアを下した。3月5日にはロシアの後援を失ったルーマニアも降伏。東部戦線は終結した[36]。
ロシア脱落を受けてドイツ軍はアメリカが本格参戦してくる前に西部戦線に最後の攻勢をかけることにした。ドイツ軍は1918年3月から7月にかけて東部の兵力をすべて西側に回して最後の大攻勢「カイザーシュラハト(皇帝の戦い)」(de)作戦を行った。しかしドイツ軍の奮闘もむなしく、戦局を好転させることはできなかった[37]。さらに1918年8月8日にアミアンの戦い(de)でドイツ陸軍が決定的な敗北を喫した。ルーデンドルフはこの日を「ドイツ陸軍暗黒の日」と称した[38][39]。
大戦末期
戦況を絶望視したルーデンドルフは、ヒンデンブルクとともに1918年9月28日に政府に対して一刻も早くウッドロウ・ウィルソン米大統領の提唱する「十四か条の平和原則」を受け入れて休戦協定を結ばなければならない、そのためにも政府を改革して議会主義に基づく政府を作らねばならないとする通牒を送った[40][41][42]。ルーデンドルフは公然たる敗戦を回避するとともに敗戦責任を文官政府に押し付けたがっていた[43]。
議会主義に反対していた宰相ゲオルク・フォン・ヘルトリングを辞職させ、代わりの宰相に自由主義者と言われていたバーデン大公マクシミリアンを任じ、彼にアメリカとの交渉を行わせた。この時ルーデンドルフは一時的に休戦してライン川まで撤退した後、東ヨーロッパから搾取を行って再度戦争を再開し、1919年春にはもっと有利な条件で改めて休戦を結ぶという根拠の乏しい青写真を描いていた[43]。
10月8日から27日にかけてマクシミリアンはウィルソンと休戦交渉に向けた電報のやり取りをしていたが、アメリカの要求は次第に厳しくなっていった[44]。10月24日のウィルソン大統領の第3回返信はドイツ軍の完全撤兵と交戦能力の徹底的剥奪を求めており、休戦後に戦争再開というルーデンドルフの妄想を打ち砕くものだった[44][45]。これを受けてルーデンドルフは徹底抗戦を主張して休戦反対派に転じた[44][45]。
宰相マクシミリアンは辞職をちらつかせながら皇帝ヴィルヘルム2世にルーデンドルフ解任を求め、10月26日ついにルーデンドルフは参謀本部次長を辞することとなった[46][47]。なおヒンデンブルクは留任した。ルーデンドルフはこれに不満があったらしく、ヒンデンブルクと別れる時に「貴方も辞職されるべきだった」と述べた[48]。
翌10月27日、ルーデンドルフはスウェーデンに亡命した[49]。スウェーデンで『戦争回顧録』(Kriegserinnerungen)を著した。
カップ一揆
1919年2月にドイツ・バイエルン州のミュンヘンへ帰国し、帰国後は専ら反ヴァイマル共和政の政治活動に専念するようになり、右翼・保守の人望を得た。1920年早々に義勇軍に担がれてベルリンへ移り、1920年3月のカップ一揆に参加した[50][51]。一揆勢のエアハルト海兵旅団はドイツ社会民主党(SPD)政権を追ってベルリンを占拠する事に成功した。ルーデンドルフが首相になるところ、彼は逡巡したため、結局ヴォルフガング・カップが首相に就任した[52]。
しかし結局ドイツ社民党の指導するゼネストによってカップ一揆は失敗に終わる[53]。一方バイエルン・ミュンヘンではカップ一揆に触発されたグスタフ・フォン・カールがハインリヒ・ホフマン社民党政権を打倒し、右翼政権を樹立することに成功していた。そのためルーデンドルフやエアハルト海兵旅団の隊員の多くは一揆失敗後にミュンヘンに逃げ込んだ[54]。以降彼らはミュンヘンの右翼政党国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)と急速に接近する。
ミュンヘン一揆
1923年9月2日にナチ党党首アドルフ・ヒトラーは突撃隊やオーバーラント団(Freikorps Oberland)などを結集させて右翼軍事組織連合「ドイツ闘争連盟(Kampfbund)」を結成させた。実質的な指揮権はヒトラーが掌握したが、ルーデンドルフが同団体の名誉総裁に就任している[55][56]。
1923年11月、ヒトラーは闘争連盟を指揮してバイエルン州総督グスタフ・フォン・カール、バイエルン駐在の第7師団司令官オットー・フォン・ロッソウ少将、州警察長官のハンス・フォン・ザイサー(Hans von Seißer)大佐の三名に「ベルリン進軍」を迫るため、ミュンヘン一揆を起こす事を企図した。
一揆当日の1923年11月8日、ヒトラーがカールが演説中の「ビュルガーブロイケラー」を占拠したと聞いたルーデンドルフはここに駆け付けた。ヒトラーの一揆協力要請にカール、ロッソウ、ザイサーらは渋っていたが、ルーデンドルフの説得を受けるとまず軍人のロッソウ少将が協力を申し出た。ついで警察のザイサー大佐もこれに従った。文官のカールだけはその後もしばらく渋っていたが、結局最後はカールも協力することを表明した[57]。しかしヒトラーが後をルーデンドルフに任せてビュルガーブロイケラーを一時離れた際、ルーデンドルフは、ロッソウ少将の言葉を信じて彼に外へ出る許可を与えた。ついでカール総督とザイサー大佐にも外へ出る許可を与えた。ヒトラーが戻るとカールやロッソウたちがいないのにヒトラーはびっくりして解放したルーデンドルフを非難したが、ルーデンドルフは元伍長を冷ややかな目で見ると「ドイツ軍将校は誓いを破らない」と言い返したという。しかしこの後、ロッソウ少将は一揆の鎮圧命令を発している[58]。これを聞いたルーデンドルフは「私はドイツ軍将校の誓いを二度と信用できない」と述べて意気消沈してしまったという[59]。
11月9日朝、ルーデンドルフはヒトラーとともにナチ党員を率いてミュンヘン市中心部へ向けて行進を開始した。ヒトラーを中心にして左にルーデンドルフ、右にマックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターが先頭に並び、三人は腕を組んだ。ヒトラーもルーデンドルフ自身も一次大戦の英雄であるルーデンドルフに発砲はしまいという過信があった。しかしバイエルン警官隊は彼らに向けて発砲した。ナチ党員たちの一団は総崩れになり、撤退した。ルーデンドルフは逃げることなく、警官たちの方へ歩み、そのまま逮捕されている[60][61]。
1924年2月26日、逃亡先で逮捕されたヒトラーとともに裁判にかけられた。裁判中、その雄弁で法廷を圧倒したヒトラーに比べ、ルーデンドルフは脇役になってしまった。ヒトラーが一揆の責任を一身に引き受けたのに対して、ルーデンドルフはひたすら責任を回避する弁に終始したためだった。しかしルーデンドルフの尊大な態度と威厳は凄まじく、しばしば判事や検事を怒鳴りつけ、裁判長はこれにぶるぶると震えていた[62]。
4月1日に判決が下った。ヒトラーは5年の禁固刑、ルーデンドルフは無罪であった[63][64]。
政治活動
この後、ルーデンドルフ将軍は北部ドイツのプロテスタント右翼政党ドイツ民族自由党に賓客として招かれ、その旗印に担がれた。ドイツ民族自由党とナチ党残党勢力が合同して「国家社会主義自由運動」が創設されるとその最高機関である全国執行部の三名の構成員の一人となった。他の二人はドイツ民族自由党党首アルブレヒト・フォン・グラーフェとグレゴール・シュトラッサーである[65][66]。シュトラッサーはヒトラーの代理として入っていた。ヒトラーが代理に指名していたアルフレート・ローゼンベルクがルーデンドルフに嫌われていたのでシュトラッサーになったという経緯があった[66]。
またエルンスト・レームは突撃隊の偽装組織「フロントバン」を創設したが、この組織はルーデンドルフ、ヒトラー、グラーフェの三人に忠誠を誓っている。
国家社会主義自由運動は1924年5月の国会選挙で32議席を獲得し、ルーデンドルフ将軍は国会議員となった[67]。
1924年12月20日にヒトラーがランツベルク刑務所から出獄した。ヒトラーはナチ党禁止命令を解除してもらう必要からカトリックのハインリヒ・ヘルトバイエルン州首相の機嫌を損ねまいと反カトリック的なルーデンドルフ将軍とドイツ民族自由党との連立を解消した。ルーデンドルフとドイツ民族自由党は1925年2月12日に国家社会主義自由運動から離脱した[68]。
以降はドイツ民族自由党の指導に当たるとともに「フロントバン」の中のルーデンドルフ派を「タンネンベルク団」(de:Tannenbergbund)として組織し、その指導に当たった[69]。この「タンネンベルク団」でルーデンドルフは彼の二番目の妻である女医マチルデ・フォン・ケムニッツ博士の影響を受けて、ユダヤ人とカトリックとフリーメーソンの三重の「世界支配の陰謀」を批判する陰謀論的な言論活動を行うようになった[70]。
1925年ドイツ大統領選挙の第一次選挙で大統領候補として出馬したが惨敗した。この惨敗でルーデンドルフは事実上政治生命を断たれた[69]。ドイツ民族自由党やタンネンベルク団のメンバーもほとんどがルーデンドルフを見限ってナチ党へ移ってしまった[71]。
ヒトラーとルーデンドルフの関係は悪化の一図をたどり、ヒトラーは1927年にレーゲンスブルクの集会で「ルーデンドルフこそがフリーメーソンである」と言明した[72]。
晩年
1935年には「総力戦」を著した。この著作でルーデンドルフは戦争と政治の関係が変化した結果として政治そのものが変化したとして、総力政治の概念を導入して総力戦の必然性を論じた。この著作の刊行後にその理念の一部は第二次エチオピア戦争やスペイン内戦で現実のものとなったが、ヒトラーは第二次世界大戦の開戦においてこの理論を排除している。つまり軍人が国家を指導するのではなく、政治家ヒトラーによって軍人を統制することが徹底されていた。日本では永田鉄山や石原莞爾がルーデンドルフを深く研究するなど、ドイツに留学・駐在を経験した武官を中心に、昭和期の日本陸軍の思考に大きな影響を与えた。
ヒンデンブルクがヒトラーを首相に任命した時には「あなたは偉大な祖国を最悪な扇動者に渡してしまった。この男は我がドイツに不幸な災いをもたらすだろう」と激しく糾弾する手紙を送っている。また陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュに対しては「ヒトラーには誠意というものが全くない。いまに奴は君のことも裏切るだろう。」と述べたことがあった[73]。ヒンデンブルクの死後にはブロンベルク、フリッチュ、ベックら軍部がしきりにルーデンドルフを担ごうとしていたが、この頃ルーデンドルフはドイツにキリスト教に代わる新しい敬神思想を作りだすことに熱中しており、ほとんど取り合わなかった[74]。1935年に軍部からの求めに応じたヒトラーがルーデンドルフに対して70歳記念に元帥に列すると申し出たが、ルーデンドルフは「一兵卒の男に元帥に任命される謂われはない」と激怒して拒絶している[75]。
しかし1937年12月20日にルーデンドルフがトゥッツィング(Tutzing)で没した際には、ナチ党政権は彼を「偉大な愛国者」として国葬に付した[72]。国葬にはヒトラーも出席している[73]。また古代スカンジナビア半島の異教の神々を信仰の対象としてルーデンドルフが創設した宗教「ドイツ信徒の家」(Deutsche Gotteserkenntnis)はナチ党政権によって公認されている[76]。
キャリア[2]
軍階級
- 1882年4月15日、少尉(Leutnant)
- 1890年7月1日、中尉(Oberleutnant)
- 1895年3月、大尉(Hauptmann)
- 1902年7月1日、少佐(Major)
- 1908年4月1日、中佐(Oberstleutnant)
- 1913年、大佐(Oberst)
- 1914年4月22日、少将(Generalmajor)
- 1914年11月27日、中将(Generalleutnant)
- 1916年8月29日、歩兵大将(General der Infanterie)
受章
- プール・ル・メリット勲章(1914年8月8日)
- 大鉄十字章(1918年3月24日)
研究書
- ジョン・ウィーラー・ベネット著、木原健男訳『ヒンデンブルクからヒトラーへ』東邦出版社、1971年
- ルーデンドルフの第一次世界大戦における活動について詳説している。
- E・M・アール編著、山田積昭訳『新戦略の創始者(下)』原書房、1979年
- 第13章では総力戦理論の提唱者としてルーデンドルフを取り上げている。
- 前原透監修、片岡徹也編集『戦略思想家事典』芙蓉書房出版、2003年
- ルーデンドルフの項目ではその経歴と著作の中で展開されている総力戦の理論について概観している。
- 清水多吉・石津朋之編『クラウゼヴィッツと「戦争論」』彩流社、2008年。
- ルーデンドルフの戦略論についての言及を含む最新研究。軍事史研究家の小堤盾がゼークト、ルーデンドルフ、ベックの軍事戦略思想について詳しく言及している。
参考文献
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出典
関連事項
- 国家総力戦
- ルーデンドルフ橋(レマーゲン鉄橋)
- 国家社会主義ドイツ労働者党
- ミュンヘン一揆
外部リンク
- エーリヒ・ルーデンドルフ Firstworldwar.com Who's Who
- Ludendorff by H. L. Mencken published in the June 1917 edition of the Atlantic Monthly
- エーリヒ・ルーデンドルフ伝記 Spartacus Educational
- ↑ 1.0 1.1 ゲルリッツ(1998)、p.284
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 2.9 The Prussian Machine - Generals
- ↑ 3.0 3.1 LeMO
- ↑ 4.0 4.1 Die Schlacht bei Tannenberg 1914
- ↑ Bund für Gotterkenntnis (Ludendorff) e.V.
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- ↑ ゲルリッツ(1998)、p.433-434
- ↑ ヴィストリヒ(2002)、p.309