アリウス派
テンプレート:告知 テンプレート:出典の明記 アリウス派(ありうすは、テンプレート:Lang-la-short、テンプレート:Lang-en-short)は、アレクサンドリアの司祭、アレイオス(アリウス 、250年頃 - 336年頃)の教説を信奉する古代キリスト教の一派である。父と子は異質であるとしたが(ヘテロ-ウシオス)、類似でも許容すると言う。イオタ会議。ヨハネ1:1。(ホモ-イ-ウシオス)唯一神教を主張したが、同質(ホモ-ウシオス)とする三位一体論(アタナシウス派)に敗北し異端とされた。
教説
ユダヤ教(ならびに後に誕生したイスラム教と)同様に厳格な唯一神教を奉じ、創造主なる神は唯一であって父のみであり(イザヤ書43章10節)、子なるキリストは父なる神の天地創造前には存在せず、神の被造物であって神の養子になったとする。父なる神と子なるイエス・キリスト、および聖霊は全く異なる(ヘテロウシオス)とし、アタナシウス派のように聖子は聖父から生まれて聖霊(聖神)と並んで神の位格の一つとする三位一体論をとらない。
現代の非主流派キリスト教であるユニテリアン、エホバの証人などはアリウス派と類似した教説を持つが、アリウス派教会との歴史的連続性は全く無い。
歴史
この説は一時、東方で支持者を獲得し、エウセビオスなど高名な聖職者にも支持者がいたようである。ゴート語訳聖書で有名な教父ウルフィラ(Ulfilas または Wulfila, 311-382年)もアリウス派であった。
初のキリスト教徒ローマ皇帝
ローマ帝国下では、最初にキリスト教徒になったローマ皇帝コンスタンティヌス1世はアリウス派の司教エウセビオスから337年に受洗したが、アリウス派を異端と決定した第1ニカイア公会議を開催したのはコンスタンティヌス1世である。アリウス派を異端とみている正教会(オーソドックス)は、アリウス派から受洗したコンスタンティヌス1世を「亜使徒聖大帝コンスタンティン」として今日でも崇敬している。
公会議での敗北
325年、第1ニカイア公会議で異端とされた。アリウスの死後、3派に分裂しつつも皇帝コンスタンティウス2世の支持を得るなど勢力を保ったが、451年、カルケドン公会議で再び異端と宣告された。これにより、ローマ帝国内では不利になったものの、ローマ帝国領土外のゲルマン人諸王国で教勢が盛んになった。 また、ローマ帝国領土内の中近東地域を中心に幅広く存在したアリウス派の信者たちは、この結果激しい迫害を受けることとなる。のちに中近東でイスラム教がすんなりと広まったのはこのことが背景にあり、同じ厳格な一神教で、信仰面でも多くの共通項を持っていたからとされる。
ゲルマン人への伝道
アリウス派はガリア地方のゲルマン人に早い時期に伝道したため、ゲルマン人のヴァンダル王国、東ゴート王国、西ゴート王国、ランゴバルド王国、クリミアゴート族等では強い勢力を持ち、これらの諸王国などでは上述の公会議で正統とされたアタナシウス派が一時迫害されるほどであった。アリウス派の一派は教父ウルフィラにより西ゴート人に伝道されている。
しかし東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世によって、6世紀初頭、ヴァンダル王国と東ゴート王国が滅ぼされ、496年フランク王国のクローヴィスがローマの多神教からアタナシウス派に改宗すると、政治的に退潮となり、アタナシウス派に押されて589年西ゴート王国国王レカルド1世のアタナシウス派改宗をきっかけに国教としての地盤を失い、次第に勢力としては消滅した。
世界遺産
アリウス派の宗教遺構としてラヴェンナのアリウス派洗礼堂およびサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂があり、世界遺産に登録されている。
その他
なお、17〜18世紀の科学者ニュートンはアリウス派の教義を支持していたユニテリアン主義者と伝えられる。
関連項目
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