わかば (護衛艦)
わかば(ローマ字:JS Wakaba, DE-261)とは、1956年から1971年に就役していた海上自衛隊の護衛艦である。その前身は日本海軍の橘型(改丁型)駆逐艦「梨(なし)」であり、数奇な艦歴で知られる。
同型艦はなく、ネームシップの“わかば”のみである。
- 本項目では日本海軍駆逐艦「梨」と併せて記述する。
目次
駆逐艦 梨
艦歴
駆逐艦「梨」は橘型の10番艦(仮称4810号艦)として、川崎重工業神戸艦船工場で1944年9月1日に起工、1945年1月17日進水、同年3月15日に竣工した。艦長は2月20日から艤装員長に就任していた高田敏夫少佐である。
1945年3月15日をもって第十一水雷戦隊に配属され、山口県柳井市東方及び南方の瀬戸内海において訓練に従事した。燃料事情が悪化しているため、訓練航海は月に数回しか行われず、それも殆どは呉より日帰りの短期のものであった[1]。同年3月に発動された天一号作戦への参加が予定されていたものの中止され、同年4月初頭には柳井市南方の八島(やしま)泊地に移動し、主に停泊訓練を行った。同年5月21日には駆逐艦「萩」と共に第31戦隊第52駆逐隊に編入され、同日に発足した「海上挺進部隊」の所属艦となる。
1945年7月初頭には呉にて改装工事を受け、「回天」の搭載・運用能力が追加されている[1]。以後「回天」基地の所在する山口県平生(ひらお)に移動し、同年7月中は周防灘での回天の各種訓練に従事した。折からの燃料不足により第52駆逐隊には充分な燃料の割り当てがなく、「梨」と「萩」以外の艦は海岸近くに偽装した上で係留されていた[1]。同年7月26日には瀬戸内海西部の山口県平郡島(へいぐん-とう)沖に移動、第52駆逐隊の他の駆逐艦と合流し、4隻合同訓練を行った。
7月28日、平郡島北岸沖において停泊中、アメリカ空母機動部隊艦載機の空襲を受ける。早朝から午後にかけてグラマンF6F戦闘機による複数回の攻撃を受け、艦の各所にロケット弾を被弾[2]、このうち午後の艦後部弾薬庫へ命中した1発により大きな損傷を受け、浸水により傾斜が増大、総員退艦が発令された後、午後2時に転覆沈没した[1]。確認された戦死者は38名[1]、行方不明者を含む犠牲者は60名以上であった。生存者155名は僚艦「萩」と地元漁民に救助され、「萩」にて翌日に呉に帰還した。
1945年9月15日除籍。
尚、平郡島では毎年7月に慰霊祭が行われている。1987年(昭和62年)10月25日には「梨」の沈没地点を望む海岸に慰霊碑が建立され、除幕式が行われた[1]。
歴代艦長
- 艤装員長
- 高田敏夫 少佐:1945年2月20日 -
- 艦長
- 高田敏夫 少佐:1945年3月15日 -
諸元
- 基準排水量 1,350t
- 武装
- 単装40口径12.7cm高角砲×1(前部)、連装40口径12.7cm高角砲×1(後部)
- 3連装25mm機銃×4、単装25mm機銃×12
- 61cm4連装九二式魚雷発射管(予備魚雷なし)×1、
- 九四式爆雷投射機×2、爆雷投下軌条×2
- 二式爆雷×36
年表
護衛艦 DE-261 わかば
「梨」は沈没後放置されていたが、1954年9月21日に廃鉄鋼材(スクラップ)としての利用を目的に浮揚された。10年近く海中にあったものの、調査の結果状態は良好であったため、防衛庁(当時)では引き揚げた業者より購入して再就役させる計画を立て、修理改装の後、1956年5月31日、警備艦「わかば」として海上自衛隊に編入、1958年には改めて兵装を装備した上で乙型警備艦「DE-261 わかば」として再就役した。
このため、「梨」(「わかば」)は海上自衛隊に在籍した唯一の日本海軍の戦闘艦艇である[3]。なお、艦名が変更されたのは、梨(なし)をひらがなで表記した際の誤解[4]を避けるものとされている。
「わかば」の名を受け継いだ日本の艦艇としては、神風型駆逐艦 (初代)「若葉」、初春型駆逐艦「若葉」に次いで3代目となる。
艦歴
「わかば」は浮揚した「梨」の船体の損傷部を修理し、艦橋をあけぼの(初代)型に準じたものとして新造している。尚、「梨」時代の兵装は全て撤去された。
主に横須賀に配備され、当初は無兵装で練習艦任務に就いたが、その後、他の海上自衛隊警備艦と同様のアメリカ式武装と電子兵装を搭載する再改装が施されて乙型警備艦(DE)として再就役した。後には実験艦としての役割が与えられ、海自艦艇で唯一SPS-8B高角測定レーダーを装備するなど、いわゆるレーダーピケット艦的な内容の艦となった。同型艦がないため、運用には苦労したという。
1962年の三宅島噴火の際には避難民の輸送に活躍した。1968年、実用実験隊に編入され、ソナーや魚雷など新兵器の試験艦任務に充てられた。1970年には浦賀水道で訓練中に小型タンカーと接触する事故を起こしている。
1971年3月31日に除籍、江田島の古沢鋼材に払い下げられ、その後解体処分された。
諸元
- 基準排水量 1,250t
- 武装 68式 76mm連装速射砲、連装魚雷発射管、ヘッジホッグ・爆雷投射器・爆雷投下軌条など
- 試験艦として改装が多岐にわたるため、武装は一定しない
エピソード
本艦の復旧にあたっては、民間企業である北星船舶工業に一度払い下げられていたものを、再度国が高値で買い戻すという経緯が国会の議場でも批判された。また、状態は良好とされたものの、長期間海中に浸かっていた機関部は念入りにレストアされたにもかかわらず就役後もすさまじい雑音を発したと伝えられる。このため、本艦は実用性よりも海自が自認する旧海軍後継組織としての“血統書”の意味合いがあったのではとする意見が、当時から現在に至るまで根強く残っている。
高森直史著『海軍食グルメ物語』によると、わかばの補給長は「梨」の主計兵であったという。「梨」の旧乗組員は優先的にわかばに配置されたようであるが、同じ艦なので主機等の習熟訓練他を考えると合理的でもある。 また、わかばでは何度か幽霊騒ぎがあったと言う。
尚、「梨」より修理改装の際に外された前部高角砲と魚雷発射管は、江田島の海上自衛隊第一術科学校にて展示保存されており、現存している。
年表
- 1954年9月21日 - 北西船舶工業により旧帝国海軍駆逐艦「梨」を沈没地点より浮揚
- 1955年5月12日 - 防衛庁(当時)により購入され海上自衛隊に編入
- 1956年5月31日 - 修復工事完了 海上警備艦として就役、横須賀地方隊第11護衛隊に編入
- 1957年9月1日 - 乙型警備艦として「DE-261」の艦番号が付与される
- 1958年3月28日 - 第2次改装を完了し再就役
- 1959年9月1日 - 第2護衛隊群に編入
- 1960年1月16日 - 第1護衛隊群第6護衛隊に編入
- 1961年4月1日 - 横須賀地方隊に編入
- 1962年2月2日-7月30日 - 浦賀船渠にて第4次改装が行われる
- 1963年2月13日-3月27日 - 浦賀船渠にて第5次改装が行われる
- 1967年 - 浦賀船渠にて高角測定レーダーの撤去が行なわれる
脚注
参考文献・資料
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0461-X
- 高橋治夫 「護衛艦に生まれ変わった“わかば”」 p196~p197
- 石橋孝夫『海上自衛隊全艦船 1952-2002』(並木書房、2002年)
- 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ43 松型駆逐艦 簡易設計ながら生存性に秀でた戦時急造艦の奮戦』(学習研究社、2003年) ISBN 4-05-603251-3
- 岡田幸和「改丁型駆逐艦「梨」、護衛艦「わかば」に変身」 p138~p146
- COLOR PHOTO「改丁型「梨」搭載の単装高角砲と発射管」 p111~p118
- 『世界の艦船 増刊第66集 海上自衛隊全艦艇史』(海人社、2004年)
- フォト・ドキュメント「「梨」から「わかば」へ 改丁型駆逐艦の再生」
- 海人社『世界の艦船』2007年4月号 No.672 p45~p49
- なにわ会HP>戦記>駆逐艦・梨の戦闘:駆逐艦「梨」の航海長を務めた左近允尚敏(日本帝國海軍大尉、のち海上自衛隊海将)による
関連項目
- おじか型巡視船 (初代) - 海上保安庁が運用していた巡視船。大戦を生き延びた海防艦を改装したものである。