はいぱぁナイト

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はいぱぁナイトは、1989年1996年KBS京都で放送された、若者向け深夜ラジオ番組である。

1989年4月3日に『ミュージックステーション』の後番組として開始。毎週月 - 金(1995年春改編から月 - 木)の22:00-24:00に放送。

ただし、ナイター中継が伸びた場合は放送時間が短縮された(1990年度までは試合終了まで放送の為、『はいぱぁナイト』の放送自体が無くなる場合もあった。1991年以降は最大22:30までとなり、最低1時間の枠は確保されるようになった)。1996年3月に終了。後番組は『ハイヤングKYOTO (第二期)』。

誕生までの経緯

それまでの全曜日京都本社からの生放送を改め、平日枠を東京原宿スタジオ(放送中にパーソナリティーから「マンションの一室がスタジオ」という発言があった)からの生放送とする形で始まったのが当番組である。

これにより、パーソナリティの人材に選択肢が広がり、更には東京近郊在住のゲストが呼び易くなる等の利点があった。

東京発の放送にあたっては、実際の放送エリアである関西圏のリスナーとの距離感があるというデメリットに対して、リスナー側の不信感を払拭すべく、リスナー参加型のコーナーに力を入れたり(生電話利用のコーナーが多かった)、頻繁に地元・京都などでイベントやバスツアー等を行うなどして、極力距離感を埋める努力を行った。

人気大爆発へ

しかし開始当初は冨永みーなが担当する月曜以外は軒並み聴取率が低迷し、局側はその打破の為に開始半年にして早くも火・木・金の担当を交代させる決断を下す。

これが金曜担当となった日高のり子の意図せぬ形での大ブレイクを始めとして、他の曜日もこれに触発される形で各自の個性を多くのリスナーにアピールする事に成功するなど、一気に番組全体の人気が大爆発し(休刊直前だった『ラジオパラダイス』誌の人気投票でも各曜日が急激に順位を上げた)、各曜日のパーソナリティー同士の交流も盛んになった。

番組の終了

しかし、KBS京都がイトマン事件に端を発する経営危機に直面し、1994年9月に会社更生法の適用を申請、翌年4月に適用が決まった。

バブル経済最盛期に始まった『はいぱぁ』は、東京からの放送でスタジオ使用料や中継回線等のコストがかかるとして翌年春の改編でまず金曜枠が打ち切られ(『青春ベジタブル』も終了し、それと共に日曜の深夜生番組枠は消滅)、更に1996年春改編をもって『ハイヤングKYOTO (第二期)』に取って代わられた。但し日高と杉原・近藤はそのまま続投となった。

担当パーソナリティ

月曜日

※日高はハイヤングKYOTO (第二期)月曜へ引き続き移行。

火曜日

※アシスタント:梶野秀樹(?)、野咲たみこ(?〜1994.6?)、彩裕季(1994.6?〜1994.9)、近藤ナツコ(1994.10〜1996.3・26)
※杉原と近藤はハイヤングKYOTO (第二期)水曜へ引き続き移行。

水曜日

※アシスタント:城山美佳子(当時・パンプキン)(〜1991.3)、相馬裕子(1991.4〜1994.9)
やまだひさしがコンビ時代に担当。

木曜日

※家庭の事情を理由に一旦降板するが、坪倉のスケジュールの都合による急遽降板により、復帰。
第一期では、岡崎倫典TARAKOなどが週替わりでアシスタントパーソナリティを務めていた。
※アシスタント:新島弥生(1992.4?〜1996.3)、浅野宮子(1995.4〜1996.3)

金曜日

1995年3月一杯で金曜枠は廃止。その後、日高は月曜へ異動。

備考

KBS京都が会社更生法申請に至ったのとほぼ同時期の1994年10月改編から、番組内でニッポン放送よりネットの「独占!!Jリーグエキスプレス」が放送開始された。また、それと同じくして当時火曜担当の杉原と近藤および金曜担当の日高によるダイヤルQ2サービスが開始された(内容は曜日別で、更に各曜日ごとに二つのチャンネルが提供されていた。これは「はいぱぁ」終了から程なくして終了となる)。

関連項目

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