秩父夜祭

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秩父夜祭(ちちぶよまつり)は、12月1日から6日に開催される埼玉県秩父市秩父神社例祭。2日が宵宮、3日が大祭であり、提灯で飾り付けられた山車(笠鉾・屋台)の曳き回しや、冬の花火大会で知られる。

大祭の3日の午後6時半頃に、秩父神社から1kmほど離れた御旅所に向けて御神幸行列が出発し、6台の笠鉾・屋台がそれに続く。御旅所下の団子坂を笠鉾・屋台が曳き上げられる頃にクライマックスを迎える。

京都の祇園祭、飛騨の高山祭と並んで日本三大美祭及び日本三大曳山祭の一つに数えられる。

概要

笠鉾・屋台は、1962年(昭和37年)に重要有形民俗文化財に指定されている。また、例大祭の付け祭りに公開される笠鉾や屋台の曳行(えいこう)と、曳行のための秩父屋台囃子(ちちぶやたいばやし)、屋台上の秩父歌舞伎曳踊り等の一連の行事が、1979年(昭和54年)に「秩父祭の屋台行事と神楽」として重要無形民俗文化財に指定されている。同一の行事に関連して国の重要有形民俗文化財および重要無形民俗文化財の両方に指定されているものは日本で5例のみで、そのうちの一つである。

2日は宵宮(宵祭り・宵まち)で、御神馬奉納の儀、神楽奉奏、屋台曳き回しなどがある。この日は笠鉾・屋台のうち屋台4台が運行され、秩父神社への宮参りや、夜にかけて本町・中町・上町通りの曳き回しが行われる。また、夜には「番場町諏訪渡り」神事のほか、3日に比べると規模が小さいものの花火の打ち上げも行われる。

3日は大祭であり、日中に御神馬宮詣、神楽奉奏、例大祭祭典、笠鉾・屋台曳き回しなどがある。笠鉾・屋台は本町・中町・上町通りを曳き回される(夕方には一部の屋台が秩父駅前通りおよび秩父まつり会館前を経由して秩父神社に向かう)。また、笠鉾2台の秩父神社への宮参りも行われる。屋台4台のうち1台では「屋台芝居」が上演される。それぞれの屋台は、左右に張り出し舞台をつけられるように設計されており、年ごとの当番制で屋台芝居の舞台となる。

3日夜は神幸祭となり、午後6時半頃に御神幸行列が秩父神社を出発する。先頭は、先導大麻、大榊、猿田彦、日月万燈、楽人、錦旗、御手箱、太刀箱の列である。次に氏子町会の供物・高張提灯の長い列が続く。その後ろに、御神饌、大幣、そして御霊が遷された神輿、宮司、大総代、2頭の神馬が続く。笠鉾・屋台行列は御神幸行列の後であり、秩父神社を午後7時頃から順次出発する。

御旅所への到着は、御神幸行列が午後8時頃、笠鉾・屋台行列はその後、午後10時頃にかけてである。御旅所の手前に団子坂があり、笠鉾・屋台がそれぞれ一気に曳き上げられる。同時に、煙火町会による奉納花火や観光協会主催の花火の打ち上げも行われ、団子坂の曳き上げや御旅所に整列する頃が祭りの最高潮となる。

笠鉾・屋台の整列が終わると御旅所斎場祭が厳かに行われる。斎場祭終了後、4日午前0時頃から団子坂の曳き下ろしが行われ、笠鉾・屋台は収蔵庫へ向けて帰還する。また御神幸行列が御旅所を出発し、秩父神社に還幸する。

笠鉾・屋台の通過経路(神幸路)には、経路最大の見所である団子坂に通じている道路上に秩父鉄道秩父本線の踏切がある。これは、御花畑駅構内の三峰口方の踏切で、車窓から団子坂を臨むことができる。この踏切は、御神幸の神事を行うため笠鉾・屋台の通過の支障となる架線を一時的に取り外すことが可能な構造になっている。3日大祭の19時~22時前後にかけて同線の秩父影森間は運休[1]となる。 また、笠鉾・屋台が曳き回される道にある道路標識や信号機は、すべて折りたためる構造となっている。

由来

祭りの起源

秩父地方は、令制国が整備される前の時代、知知夫国(知々夫国・秩父国)が置かれた地域である。崇神天皇の時代に、知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が初代知知夫国造に任じられている。秩父神社は、知知夫彦命が祖神である八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)を祀ったことに始まるとされている。また、知知夫彦命は養蚕と機織りを教示したと伝えられる[2]。令制国として武蔵国が成立した後も、708年(和銅元年)に武蔵国秩父郡から和銅が献上されたことを記念して「和銅」改元や「和同開珎」の鋳造が行われるなど、古くから朝廷と結びつきがあり、交易が行われていた地域である。

秩父神社は中世になると、秩父氏坂東八平氏の一つ)の祖先である平良文により妙見菩薩が合祀され、妙見宮秩父神社となったと伝えられる。江戸時代には秩父大宮妙見宮として、日本百観音秩父三十四箇所(秩父札所観音霊場)とともに栄えた。現在でも神幸祭(御神幸行列や御旅所斎場祭ほか)の祭礼の中などに、古くからの秩父神社例大祭の形態が残っているとされる。例大祭の「付け祭り」として笠鉾・屋台が曳かれ始めるようになったのは、約300年前の寛文年間の頃と伝えられている。

かつて秩父夜祭は「霜月大祭」との呼び名があった。これは霜月である旧暦11月3日に行われていたことによる。明治初期の太陽暦採用により新暦の12月3日に移行した。また「お蚕祭り」とも呼ばれた。秩父地方は、の生育に適した土地であったため、田畑の他に現金収入となる養蚕・絹織が盛んであった。江戸時代にはの生産量が増大し、「秩父絹」として江戸をはじめ広く知られるようになった。各地に取引のための絹市が開かれ、大宮郷(現在の秩父市中心部)では1・6の市日の六斎市が行われている。特に秩父神社の「霜月大祭」では「絹大市」も行われた。その市に遠方から来る人々を楽しませるためにはじめられたものが、笠鉾・屋台などの「付け祭り」だとされる。

秩父神社の例祭に関する言い伝え

秩父神社の例祭は、知知夫国に知知夫彦が大神を祭ったとされる時代か、それ以前から神奈備山である武甲山への信仰として行われてきたものが起源ではないかと言われる。真夜中に神社と武甲山の間にある御旅所で神事を執り行うというのが最大の特徴である(斎場祭が行われるのは夜の10時以降であり、神幸行列が神社にもどると朝の4時をすぎる)。

秩父神社は地理的に見ても神奈備山である武甲山からみて北面に位置し、秩父神社の本殿は再建前も現在も真北を向いているとされ北辰信仰の影響があるのは明白である。北辰信仰がいつごろから行われてきたのかは定かではないが、妙見菩薩習合以前からの信仰と指摘する人もいる。

秩父夜祭は、御田植祭で秩父市中町の秩父今宮神社の境内にある武甲山から湧き出た水(水幣)を、その年の収穫を祝うと同時に武甲山に還す祭とも伝えられている。

また、最も知れ渡っている有名な伝説は武甲山の男神(蛇神・蔵王権現)と秩父神社の女神(妙見菩薩)が年に一度の逢瀬を楽しむというものである。男神には正妻がいて、神幸路の途中にある番場町諏訪神社八坂刀売命であるとされる。2日に行われる「番場町諏訪渡り」は、年に1度の逢瀬を楽しむ許可を求める祭礼だといわれている。また、御神幸祭のときには諏訪神社の前を通過する際、各町会の山車は正妻の女神を怒らせないように例外的に屋台囃子の演奏を止め数メートルすすむ。この風習も諏訪渡りと呼ばれている。

御神幸祭では御田植祭で使用した縄の蛇に大榊を立てたものを供物として運ぶ。御旅所では亀石(亀は妙見菩薩の乗り物)に神社の幣束を立て神事を行う。

山車一覧

秩父地方の山車は大きく笠鉾(かさぼこ[3])・屋台(やたい)という2つの形式に分類される。

笠鉾は祇園祭の山鉾のような鉾(標木)に榊や天道・石台・万灯・多層(1~3層)の花笠をつけているのがほかの地方の山車との大きな違いである。中近・下郷とも屋台笠鉾という形式で屋台同様の屋形の上に笠鉾を取り付けているが、曳行する際の電線の都合で現在では屋形のみで引かれている。

屋台は、古くから屋形をもち張り出し舞台を取り付けられ屋台歌舞伎を上演する目的のものと、笠鉾が近代に電線などの都合上で屋台に改造されたものに分類される。秩父夜祭での屋台はすべて屋台歌舞伎(古くは屋台狂言および屋台歌舞伎)を上演する目的で水引幕・後幕を持ち、張り出し舞台を取り付けることが出来る。

以下の一覧は神幸祭の順である。

中近笠鉾(なかちかかさぼこ)

中村町・近戸町の2町会が管理する笠鉾。御神幸祭の際に最初に曳行する(そのため、山車を引く際の運行組織は一番組の名称がつけられている)。秩父夜祭の中では一番古い歴史をもつ山車で、初代は屋台・2代目は笠鉾であった。現在の屋台笠鉾形式ものは3代目である。

下郷笠鉾(したごうかさぼこ)

下郷地区(金室町、永田町、柳田町、阿保町、大畑町、滝の上町)の6町会が所有する山車。以前は桜木町も含み下郷七村といわれた。鉾をつけると高さ約16メートルになり関東地区では最大の山車である。 現在のものは電線の高架によって屋形をつけたもので3代目の笠鉾である。屋形をつける際に笠鉾の部品も散逸してしまい笠鉾の部分も含めほぼ新造建築に近い。白木作りの屋形が特徴であるが、本来は朱塗りの屋形になるはずであった。天道・波形石台・万灯に3層の花笠をもち総重量は20トンともいわれている、他の山車とくらべて漆塗りや彩色をしていないが、二段屋根等で組木が多い。

宮地屋台(みやじやたい)

宮地地区(上宮地・中宮地・下宮地)の屋台。この地域は秩父神社に習合される前の妙見宮があったところとされ(現在は妙見塚)でそのために宮地(みやじ)と呼ばれる。秩父夜祭の屋台の中では最古の歴史をもち、かつ登り高欄がないなど最も古い原型をしている。御神幸祭の際には3番目に曳行される山車でそのため他町会の屋台と違い曳踊りでは必ず三番叟が上演される。妙見七ツ井戸[4]の伝説に従い、屋台倉から3日の神社への宮入までに七回曳踊りを行う風習があるなど妙見菩薩に最も縁が深い山車である。

上町屋台(かみまちやたい)

4台の屋台の中で、一番大きな屋根を持つ。 後ろ幕は、鯉の滝登り。運行組織は「い組」と呼ばれ屋台町会の中での屋台のすれ違いは見ものである。

中町屋台(なかまちやたい)

4台の屋台の中で最も大きな屋台。屋根の鬼板(彫り物)は大きく美しい。 下方(運行組織)は中町屋台保存会青年部が運行している。 6町会の中で唯一、恵比寿の幕、鯛の幕の2枚の後幕を持ち、12月2日、3日と違う後幕を見ることができるのもこの町会の特徴である。

本町屋台(もとまちやたい)

本町地区の所有する屋台。後幕が子供の玩具でその中にあるだるまが特徴的であり 運行組織は達磨会と呼ばれる。明治・大正時代までは二重勾欄をもつ屋台であったが転倒事故後今の勾欄になる。

秩父夜祭花火大会

日本では数少ない冬の花火大会として全国的に知られている。艶やかな山車と上空で炸裂する花火との取り合わせは、ひときわ華やいだものとなる。 煙火町会による奉納花火と、観光協会主催の花火が打ち上げられる。

その他

1947年12月3日、祭の終了後に見物に来ていた群衆が御花畑駅方面に殺到、6人が圧死する惨事となった。

武蔵国では、大國魂神社(東京都府中市)に国内の著名な六社の神が勧請され(秩父神社は四之宮)、武蔵総社六所宮と呼ばれた。この大國魂神社の例大祭「くらやみ祭」は、秩父夜祭と同様、夜間に御旅所に渡御する形態をとっている(なお、一之宮から六之宮の神輿を含む8基の神輿が渡御しており、秩父神社の神も四之宮の神輿で御旅所へ向かっている)。

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 例大祭当日は秩父鉄道秩父本線ならびに西武鉄道池袋線西武秩父線では、ダイヤが大幅に変更され、列車も増発される。また、名前の通り祭りのクライマックスが深夜になるため、最終電車も大幅に繰り下げられる。
  2. 埼玉県の養蚕・絹文化の継承について(埼玉県農林部生産振興課)
  3. 「かさほこ」と読まれることもある
  4. 妙見七ツ井戸の伝説