松宮一彦

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テンプレート:複数の問題 テンプレート:基礎情報 アナウンサー 松宮 一彦(まつみや かずひこ、1953年12月11日 - 1999年9月27日)はフリーアナウンサーである。早口のトークが特徴。

来歴・人物

東京都杉並区出身。父親は大学教授で身内に日本大学スキー部の功労者がいた。子供の頃にディスクジョッキーコンテストで4位に入る。

獨協高等学校卒業後、日本大学芸術学部放送学科を経て、1976年TBS入社。同期に生島ヒロシ鈴木順高橋進がいた。TBSの他に、ニッポン放送にも内定していたが、「テレビの仕事もしてみたかった。僕は欲張りですから」(本人談)という理由で、テレビ・ラジオ兼営のTBS(現在は分社化している)に入社した。

TBSアナウンサー時代は、主にラジオのディスクジョッキーのほか、テレビ「ザ・ベストテン」の追っかけマンとして縦横無尽に活躍し、1979年4月に同局で放送したバラエティドラマ「少女探偵スーパーW」では、追っかけマンを思わせるTVアナウンサーの役でレギュラー出演した。なお、幾度かの「ザ・ベストテン」の歴代司会退任の際、小島一慶と共に後任司会者の候補に再三あがるも、諸事情があって実現しなかった。

SURF&SNOW」では自らのことを「TBSアナウンス部のスーパーDJ」と称していた。番組放送期間中何度かTBSの組織改編があったため、「TBSアナウンスセンターの…」など一部の言い回しが異なるバージョンも存在する。一説には松下賢次が自らのことを「世界の松下」と呼ぶようになったのは、この発言に対抗意識を燃やしたためとも言われている。1998年にTBSを退社。後述のような女性関係の拗れが原因だとされている。また、管理職になり自分の希望する番組に出演する機会が減り、夜のスポットニュースを担当することが多くなった。本人は相当にニュース読みは向いていないと感じており、「気分が悪くなる」と語っていた。退社後は、フリーアナウンサーとしてNACK5TOKYO FMで番組を持つ。前述の自称は、TBS退社後は単に「スーパーDJ」になった。

スキーを嗜み、個人の大会のスポンサリングを幾度となく行ったりもした。1990年頃の日本大学の入学案内書には、卒業生として登場し、学生時代の思い出や受験生へのメッセージと共に「競技スキーに出場、実況、解説をすべてできるアナウンサーは自分しかいない」という趣旨のコメントをしている。スキーの事故で骨折することが多々あり、TBSの深夜ラジオ番組「コサキン」では、「スーパー・バキンボキンDJ(前述のニックネームより)」「コロビッチ・バキボキンスキー」「骨折りウォンバット」というありがたくない異名やキャッチフレーズを頂戴したことも。ただし、これはコサキンという番組のネタ傾向のひとつにある「笑える悪口」の類で、言葉のイメージほど松宮に悪意があったわけではない。また、コサキンこと小堺一機関根勤がTBSラジオで持った最初の番組が、松宮がDJだった「夜はともだち」の木曜日担当(松宮の「ザ・ベストテン」出演による代役)であり、二人と松宮の親交が深かったからこそ言えたネタだともいえる。

1998年長野冬季オリンピック大会では男子滑降競技(会場:長野県白馬村八方尾根スキー場)の会場実況アナウンスを担当した。

また自ら「明るい鉄道少年」と公言する鉄道ファンでもあった。

私生活では3度結婚したが3度とも離婚し、子供には恵まれなかった。晩年、約30年来の友でTBS退社以降の所属事務所社長の女性を乗せて車の運転中に交通事故に遭った。社長は重傷を負い、重い後遺症が残ったことから社長とは補償問題でもめるなど不仲となった。ただし、騒動後もこの女性の事務所に在籍した。

1999年9月、自宅で首を吊り縊死しているのを、当時交際中の女性が合鍵を使って松宮の自宅に入った際に発見された。その女性は英会話学校の講師を務めていて松宮と知り合い、交際に発展したと報道された。

この突然の死は、交流のあった人物に大きな衝撃を与えた。当時TBSの朝の情報番組「エクスプレス」内の朝刊コーナーで、この記事を取り上げた際、松宮とラジオ番組で共演したことのあった、コーナー担当の長岡杏子アナは言葉にならないほど涙ぐんだ。また久米宏は『ニュースステーション』内で「私の9年後輩でした」と語った上でニュースを紹介し、山下達郎は『山下達郎のサンデー・ソングブック』内で「なぜ相談してくれなかったのか」と無念の思いを述べた。

出演番組

ラジオ

TBS時代

テレビ
ラジオ

関連項目