平野レミ
テンプレート:ActorActress 平野 レミ(ひらの レミ、テンプレート:要検証範囲[1]3月21日 - )は、日本の料理愛好家、タレント、シャンソン歌手。東京都生まれ、千葉県松戸市で育つ。本名:和田 レミ(わだ レミ、旧姓:平野)。父はフランス文学者の平野威馬雄。夫はイラストレーターの和田誠。長男はTRICERATOPSの和田唱。祖父は日本美術史家で法律家のヘンリイ・パイク・ブイ。
人物
料理番組を中心に活躍。料理中は終止テンションが高く、息つく間もない程の早口で話すのが特徴。その明るいキャラクターがウケ、料理番組のみならずバラエティ番組(番組内の料理コーナー)にも出演する個性派料理研究家。
清水ミチコのモノマネレパートリの1人でもある。
東京都立上野高等学校中退[2]後、文化学院在学中、佐藤美子にシャンソンを学び、日航ミュージックサロンで歌手デビューする。
やがてTBSラジオのディレクターから声がかかり[3]、TBSラジオ番組『キンキン・ケンケンのそれ行け!歌謡曲』内の番組コーナー『ミュージック・キャラバン』(東京や関東近県の主にスーパーマーケット等の店頭等から公開生放送する番組。番組提供スポンサーは、「三井物産食品グループ」など)で久米宏とコンビを組み活躍し、番組内での一般観覧者が参加する、TBSラジオカー(中継車)と同行した車両に搭載し持参したジュークボックス(ジュークボックスのスピーカ部分には放送用のマイクを設置して生中継放送されていた)から、番組側が選んだジュークボックスの「曲番号」で掛かる曲が「男性歌手か?、女性歌手か?」と当てるゲームで、曲のイントロが流れて正解が判るまでの短い時間、平野が繰り返し叫んだ「男が出るか! 女が出るか!」は、当時話題を呼んだ。その番組を聞いていた和田誠が平野に惚れ込んだことが縁で[4]、1972年和田と結婚した。
一時は育児・主婦業に専念していたが、両親が旨いもの好きという影響から家庭料理の研究にも力を入れるようになり、料理研究家ならぬ「料理愛好家」として再び表舞台で活躍しはじめた。
シャンソン歌手としても活動を続けており、『きょうの料理』の「20分で夕御飯」では20分以内に料理を作り終えてしまったため、余った時間でオリジナルソングを歌ったことがある。
2007年公開のディズニー配給映画『レミーのおいしいレストラン』の日本でのプロモーションでは「料理親善大使」を務める。
レミパン
株式会社オダジマと共同開発した多機能鍋「平野レミの鍋 ドゥ! レミ・パン」(以下「レミパン」)を使って料理をすることが多い。レミパンはフッ素樹脂加工された平底のアルミニウム鍋ないしは深いフライパンで、蓋に可変式の蒸気穴がある。蓋の取手は蓋立てとしても機能する。また、平野が審査員を務める料理コーナーの景品にレミパンをプレゼントすることがある。主なレミパン支持者にグッチ裕三がいる。累計販売個数が150万個となる。
メディア
主な出演番組
- きょうの料理 (NHK)
- (Matthew's Best Hit TV+ (テレビ朝日)
- アサデス。九州・山口 火曜日「デリバリキッチン」(KBCテレビ系九州山口ブロックネット)
- 後述のように、かつてジャスコのCMに出演していたことから、この番組のスポンサーでもあるイオン九州の店舗内で、アナウンサーをアシスタントに従え、料理の腕を披露。なおこのコーナーは収録で、基本的にスタジオ出演はしない。
- 裸の少年 (テレビ朝日)
過去の出演番組
- 寝るには早いドンといけ! (日本テレビ、1970年6月14日 - 7月12日)
- 冠婚葬祭屋 第2話「ケニヤ式結婚式…ですヨ」(NET(現・テレビ朝日)、1972年1月15日)
- 大沢悠里のゆうゆうワイド (TBSラジオ、1989年4月3日 - 1990年3月26日)
ほか多数
CM
主なレコード、CD
主な著書
- 『ド・レミの歌』(1977年、文化出版局,1984年、中央公論社)
- 『平野レミ・料理大会』(1986年、講談社)
- 『平野レミ・料理パレード』(1992年、講談社)
- 『平野レミのエプロン手帖』(1995年、文化出版局)
- 『平野レミのうまいもの教室』(1996年、日本放送出版協会)
- 『笑顔がごちそう』(1997年、講談社)
- 『平野レミの作って幸せ・食べて幸せ』(1998年、主婦の友社)
- 『平野レミのごちそうレシピ』(1999年、小学館)
- 『平野レミ・元気印のおかず屋さん』(1999年、文化出版局)
- 『平野レミ・一見豪華ふう』(2000年、講談社)
- 『平野レミのなんてったって、うちのご飯がいちばん!』(2000年、講談社)
- 『気まずい二人』(三谷幸喜との対談集・ゲストとして登場、角川文庫)
脚注
- ↑ 公式プロフィールでは1947年生まれだが、平野威馬雄著『アウトロウ半歴史』pp.255-256(話の特集、1978年)には「昭和21年ごろ(つまり終戦直後)に、5、6歳だった」「公表の年齢よりはるか上」との記述がある。
- ↑ 平野レミ『愛のオーロラ』(北欧社、1973年)
- ↑ 『ド・レミの歌』p.39(中公文庫、1984年)によると、これはラジオのディレクターに配られていたレコード会社の新人宣伝書で平野レミと辺見マリの写真が入れ替わって刷られていたことが原因で、ディレクターは本来辺見マリと契約するつもりで平野と契約したのだという。
- ↑ 初め和田は久米宏にレミの紹介を頼んだが、久米は「絶対、紹介しませんよ、あんな出歯!しようがないですよ!!」と真剣に断った。平野レミ『ド・レミの歌』(中公文庫、1984年)の巻末に収録された黒柳徹子「レミちゃんのこと」p.215を参照。