平尾昌晃

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テンプレート:Infobox Musician 平尾 昌晃(ひらお まさあき、1937年12月24日 - )は、日本作曲家歌手社団法人日本作曲家協会・常務理事[1]、社団法人日本音楽著作権協会JASRAC)理事[2]。出生名は平尾勇。幼少時にたびたび改名し、デビュー初期の芸名である「昌章」を経て、現在は芸名の通り平尾昌晃を本名としている。東京都牛込区生まれであるが、敗戦後、神奈川県湘南に移住し、湘南学園で小中学時代を送る。[3]

来歴・人物

化粧品業を営む平尾聚泉の孫。作曲家平尾貴四男は伯父。茅ヶ崎市に住み、ジャズ教室に通い、朝丘雪路水谷良重ペギー葉山らと知り合う。慶應義塾高等学校中退後、ウエスタンの人気バンド『チャック・ワゴン・ボーイズ』に入る。しばらくして、『チャック・ワゴン・ボーイズ』はボーカルの小坂一也が脱退したため、『オールスターズ・ワゴン』となる。

1957年、ジャズ喫茶「テネシー」に出演していた際、ステージを見た渡辺プロ渡辺美佐と映画監督井上梅次に見初められ、同年に公開された石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』に出演。自身としても、翌1958年1月、キングレコードより「リトル・ダーリン」でソロ・デビュー。その後、ミッキー・カーチス山下敬二郎(後にこの2人は渡辺プロに所属する)と「ロカビリー三人男」として「日劇ウエスタンカーニバル」等で爆発的な大人気を博した。1958年には、キングレコードからオリジナルナンバーである「星は何でも知っている」、翌年には「ミヨチャン」が大ヒット。

ロカビリーブームが去った1960年代半ば、北海道からじわじわ火がつき始めた「おもいで」で再ブレーク。「おもいで」は、渡辺プロの新人歌手だった布施明が再レコーディングし、これもヒットとなった。続けて、「霧の摩周湖」、「恋」、梓みちよ「渚のセニョリーナ」などがヒット。「霧の摩周湖」、「渚のセニョリーナ」では、第9回日本レコード大賞作曲賞を受賞。

1968年、その後も作曲家として、非凡な才能を発揮していたが、結核を患い健康保険岡谷塩嶺病院への長期間入院による療養を余儀なくされ、肋骨を6本取り除く大手術を受ける。平尾自身は、この療養期間が作曲家としての活動の原点であることを事あるごとに語っている[4]

1970年代に入ると、ソフトな演歌から穏やかなポップス調まで様々な作風の曲を五木ひろし小柳ルミ子アグネス・チャン等に提供している。作詞家の山口洋子とのコンビは、この時代を代表するゴールデン・コンビとして知られている。

1971年、五木ひろしのデビュー曲「よこはまたそがれ」、小柳ルミ子のデビュー曲「私の城下町」がそれぞれ大ヒット。

1972年、小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」で第3回日本歌謡大賞受賞。

1973年、五木ひろし「夜空」で第15回日本レコード大賞受賞。

1974年、「平尾昌晃音楽学校(現平尾昌晃ミュージックスクール=HMS)」を創立。東京本校の他、札幌、所沢、茨城、名古屋、大阪、福岡、鹿児島にも地方校があり、デビューバックアップもする。同校出身者は石野真子狩人松田聖子倖田來未後藤真希ら。生徒の一人である畑中葉子とデュオを組み、「カナダからの手紙」、「ヨーロッパでさよなら」等のヒットを出した。また、彼が日本でのデビューのきっかけを作ったアグネス・チャンとも、「香港国際空港(CHEK LAP KOK空港)」でデュオを組んだ。

1980年代のNHKの人気番組『レッツゴーヤング』の司会などにも携わる一方、『平尾昌晃の部屋』など、ラジオ番組のパーソナリティも務めた。その他、人気テレビ番組「熱中時代」での「僕の先生はフィーバー」、「やさしさ紙芝居」、『熱中時代-刑事編の「カリフォルニア・コネクション」』の他、ABCテレビ朝日系時代劇の『必殺シリーズ』、アニメ「銀河鉄道999」などの音楽を手掛ける。また1980年代初頭から宝塚歌劇団の舞台音楽も手掛けており、こちらは今日に至るまで長きに渡って関係が続いている。

俳優としても、『二階の他人』などに出演。競走馬オーナーとしては中央競馬で3勝したスーパーミヨチャンなどを所有。またジャパンカップ優勝のローズキングダムの一口馬主でもある。オートレースのファンとしても有名で、川口オートレース場には年間ボックスシートを持っているほど。作曲者としても川口オートのテーマソングとなる『ぶっちぎりの青春』を提供した。

現在は音楽活動のみならず、『ものまねバトル』(日本テレビ系)の審査員、チャリティゴルフの企画等、幅広く活躍。

2001年モンブラン国際文化賞受賞。

2002年特定非営利活動法人ラブ&ハーモニー基金」を設立音楽を通じた福祉活動を展開している。

2003年紫綬褒章受章。

2004年に歌手デビューを果たした平尾勇気は次男。

2005年、歌手を目指す若い人、生徒のために自主レーベルのHMSレコードを立ち上げて優秀な生徒をCDデビューさせている。

2006年の『NHK紅白歌合戦』より逝去した宮川泰の後を受け「蛍の光」の指揮を務めている。

作曲家としての提供曲

あ行

か行

さ行

た行

な行

は行

ま行

や行以降

その他

など多数。

また、高等学校の校歌や、企業社歌を作曲したこともある。

歌手としての代表曲

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ラジオ出演

  • ラジオ深夜便(NHK第一放送および同FM放送)「生涯現役」のコーナーにゲスト出演(2011年5月1,2の両日)

テレビ出演

紅白歌合戦出場歴

  • 1960年 第11回「ミヨチャン」
  • 1961年 第12回「タック・ロック」 
  • 1962年 第13回「ツイストNo.1」
  • 1978年 第29回「カナダからの手紙」(畑中葉子とデュエット)

書籍

  • 平尾昌晃のカラオケ100点満点―カラオケなんて恐くない!! (1983年)
  • 平尾昌晃の歌上手になる本(1986年)
  • 自叙伝 気まま人生歌の旅(1994年 )

脚註

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関連項目

外部リンク

  • 日本作曲家協会・役員
  • 日本音楽著作権協会・役員一覧
  • 自叙伝 気まま人生歌の旅(1994年)
  • 音楽の力で社会福祉-平尾昌晃 独立行政法人福祉医療機構 機関誌『WAM』2011年1月号