マイケル・レービン
マイケル・レービン(Michael Rabin, 1936年5月2日 - 1972年1月19日)はアメリカのヴァイオリニスト。日本では一般にマイケル・レビンとして知られる。
父親はニューヨーク・フィルハーモニックの第一ヴァイオリン奏者で、母親はジュリアード音楽学校のピアノ教師をつとめる、音楽家の家庭に生まれた。いわゆる音楽的神童として少年時代をすごし、最初は母親にピアノの手ほどきを受けたが、程なくしてヴァイオリンに興味を示し、父親からヴァイオリンの手ほどきを受ける。
9歳からジュリアード音楽学校でイワン・ガラミアン(アイヴァン・ガラミアン)に師事した。早くもこの年齢でリサイタルを開いてデビューし、12歳でパガニーニの≪無伴奏ヴァイオリンのためのカプリース≫を録音した。1950年には、ディミトリ・ミトロプーロス指揮のニューヨーク・フィルハーモニックと共演し、パガニーニの≪ヴァイオリン協奏曲 第1番≫を演奏して、カーネギー・ホール・デビューで大成功を収めた。1951年にはテレビ番組にも華々しく登場、1952年には豪州に楽旅を行う。欧州へは、1954年より演奏旅行と録音のためにたびたび訪れるようになる。
しかし1960年代初頭には、過密なスケジュールのために心身に消耗をきたしており、無気力や病気に悩まされるようになる。また、神童型の芸術家に間々あるように精神的に脆く、そのため演奏家として続けていくためにドラッグにも手を出し、確証はないもののほとんど中毒だったと言われている。1972年に自宅で転倒した際、頭部を強打したためニューヨークの自宅で急死した。周囲の証言によると、薬物依存を脱した後の不幸な事件であったという。
レービンは、「Cry now. Play later.(今泣いておけば後で弾けるようになる)」が口癖の、鬼教師として知られるガラミアンによって、「瑕疵のない、生まれついての完璧なヴァイオリニスト」と認められた、ただひとりの門人であった。レービンは生まれつき右手の弓さばきがよどみなく、そこにガラミアンの教授法による、リュシアン・カペー譲りの近代的なボウイングが加わり、音色に力強さと輝かしさを習得した。その完成された演奏技巧は、1958年にステレオ録音されたパガニーニの≪24のカプリース≫全曲にもうかがわれる。
レービンはハイフェッツを崇拝し、その後継者たらんと自ら望んだだけでなく、レービンの才能を認めた数々の巨匠からも、ハイフェッツの再来と見なされていた。しかしながら早熟の天才として国際的なキャリアが始まるや否や伸び悩むようになって挫折し、周囲から望まれたような大器として円熟するには至らなかった。