パルティア

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 過去の国 テンプレート:イランの歴史 パルティア古典ギリシア語Παρθία, 古典ラテン語:Parthia, 紀元前247年頃 - 228年)とは、カスピ海南東部、イラン高原東北部に興った王国遊牧国家である。パルニ氏族を中心とした遊牧民の長、アルシャク(古典ギリシア語アルサケス)が建国した。

名称

アルシャク

アルサケス朝(古典ギリシア語)、アルシャク朝(中世ペルシア語اشکانیان, Ashkâniân)とも呼ばれる。テンプレート:仮リンク名「アルシャク」は、アケメネス朝のアルタクシャサ王(テンプレート:仮リンク: 𐎠𐎼𐎫𐎧𐏁𐏂𐎠 - テンプレート:Transl - 古典ギリシア語形アルタクセルクセス)に由来するパルティア語形である。中国史書では安息と音訳された。

パルティア

古典ギリシア語ないしラテン語である「パルティア」は元々、パルティア王国の故地である東北イランのパルサワ古代ペルシア語:Parthava)を転写した地名でしかない。パルテヤとも表記される[1]

概要

パルティア王国の領域は現在でいうアルメニアイラクグルジアトルコ東部、シリア東部、トルクメニスタンアフガニスタンタジキスタンパキスタンクウェートサウジアラビアペルシャ湾岸部、バーレーンカタールアラブ首長国連邦の領域にまで拡大した。最も初期の都はミトラダトケルタ、次いでカスピ海南岸のヘカトンピュロス、更に遷都してバビロニアクテシフォン(現在のイラク)。

また、歴代のパルティア王は「アルサケス」という称号を継承しており、もともと初代王の個人名であったものが、後にパルティアの君主号として定着した。これはちょうどローマ帝国の「アウグストゥス」や「カエサル」に類似している。[2]

歴史

成立

紀元前3世紀中頃にはセレウコス朝の支配力が衰え、紀元前250年頃にその支配下からバクトリアが独立した。これとほぼ同時にテンプレート:仮リンク地方とテンプレート:仮リンク地方(サトラップ)では現地の総督アンドラゴラスがセレウコス朝より独立していたが、パルニ氏族を中心とした遊牧民勢力が、アルサケス1世前247年頃 - 前211年頃)と弟のティリダテス1世を指導者としてアンドラゴラスの勢力を放逐して周辺一帯の支配権を得た。この年代はおおよそ紀元前247年ごろと推定されている[3]。アルサケス1世とティリダテス1世の関係には様々な説がある(それぞれの項目を参照)。

以降、パルティア地方に定着した彼らは「パルティア人」と呼ばれるようになる。アルサケス1世とティリダテス1世による征服以前から「パルティア」という地名は存在したが、その時代の「パルティア人」と一般的に知られている「パルティア人」は同一ではない。

アルサケス1世らは、初めニサ(現在のアシガバート近郊、ミトラダトケルタだとする説が有力)を根拠地としていたが、テンプレート:仮リンク地方(カスピ南東部)に進出し、ヘカトンピュロスを首都とした。その後、長くパルティアにとってテンプレート:仮リンク地方が本拠地となった。同じくセレウコス朝より独立したバクトリアのディオドトス2世とは紀元前228年頃に同盟を結び東方を固めた。しかし、セレウコス朝シリアのセレウコス2世の遠征に遭い、アルサケス1世は一度はサカの地に避難したものの、セレウコス2世がシリアで没する(紀元前226年)と再び帰還した。その後は町の建設を行い、国固めを行った。 アルサケス1世の死後、歴代の王は全て王の称号として「アルサケス(アルシャク)」を用いるようになった。

王位を継いだアルサケス2世(在位:前211年頃 - 前191年)の時代にはメディアエクバタナを占領したが、セレウコス朝のアンティオコス3世の東方遠征によってにエクバタナを奪還される。さらにアナーヒター神殿の財宝を奪われ、最終的には本拠地のヘカトンピュロスにまで進軍されたため、セレウコス朝の優位を認め「同盟者」となった。

次の王フリアパティウス(在位:前191年 - 前176年)からはティリダテス1世の子孫が王位を継いでいくことになる。彼の時代の前189年、セレウコス朝のアンティオコス3世がローマとの戦いに敗れ、この直後に再びセレウコス朝の勢力下から離脱した。フラーテス1世(在位前176年 - 前171年)の時代にはエルブールズ山脈へ進出。さらにマーザンダラーン(カスピ海南岸)を征圧し、メディア侵出の足がかりを得た。

総じてこの時代のパルティアは中央アジアに近い地域の一角を占める地方勢力でしかなく、古代の記録者達も彼らに対して格段の興味を示してはいなかった。しかし、やがてパルティアはイラン世界の覇を唱える勢力に成長していくことになる。

拡大

ミトラダテス1世(在位:前171年 - 前138年)の治世にはパルティアは飛躍的な拡大を遂げた。まずエウクラティデス1世王が率いるグレコ・バクトリア王国に東征して2州を奪い、西方では長期に渡る戦いの末、紀元前148年または紀元前147年にはメディア地方をその支配下に置いた。これによってセレウコス朝の中核地帯であるバビロニアへの拡大が視野に入ることとなった。セレウコス朝の内乱も手伝ってバビロニア方面への侵攻は大成功に終わり、前141年までにはバビロニアの中心都市セレウキアを陥落させ、翌年にはスシアナSusiana、現フーゼスターン州)の中心都市スサも陥落、エリマイス王国もその影響下に置いた。しかし、このミトラダテス1世の征服活動の結果、パルティアの支配地域には多数の異民族集団が内包されることになった。ミトラダテス1世以降のパルティア王達は異民族の統治に非常に気を使ったが、パルティアの支配を忌避し反パルティアの政治傾向を長く持ち続ける集団も存在した。ミトラダテス1世は北西インドのサカ人が本拠地のテンプレート:仮リンクに侵入したと言う報せを受けて、ヒュルカニアへ出向いた。その間にセレウコス朝のデメトリオス2世はエリマイス、ペルシス(ペルシア湾北岸)、バクトリアと協力し、バビロニアで挙兵した。しかし、王の留守を預かったパルティアの将軍たちはこの軍を打ち破ってデメトリオス2世を捕虜とした。この時セレウコス朝に味方をしたエリマイスの都市アルテミスには制裁として略奪が行われた。ミトラダテス1世はその後インド北西部を征服し、王はバシレオス・メガロス(大王)を名乗った。

フラーテス2世(在位:前138年 - 前128年)は初め幼少であったため、 母リインヌが摂政となった。彼の治世に捕虜であったセレウコス朝のデメトリオス2世の弟であるアンティオコス7世が、失地奪還のために兵を起した。デメトリオス2世の侵入時と同じく、パルティア領内の旧支配層はセレウコス朝の「マケドニア人王」の到来を歓迎し、この軍に参入していった。こうしてまずメディア地方が、紀元前130年にはバビロニア一帯が占領された。このとき和平交渉により、フラーテス2世はデメトリオス2世を返還した。アンティオコス7世は更に東方へと向かったが、現地住民に圧力をかけ不評だったため、住民は重圧に抵抗する態度を見せ始めた。パルティア側は市民蜂起の工作を行い、蜂起軍にパルティア軍を参加させ、蜂起を盛り上げた。前129年にアンティオコス7世は反乱鎮圧中に戦没した。アンティオコス7世の子は捕虜となり、パルティアで丁重に扱われた。また、同年アラブ人テンプレート:仮リンクによってメソポタミア南部にカラケネ王国が建てられ、一時バビロンとセレウキアを奪われた。フラーテス2世は勢いに乗じて、シリア侵攻を計画したが、傭兵として雇っていたサカ人やバビロニアのギリシア人捕虜が反乱を起こし、紀元前128年、フラーテス2世は戦死した。

続くアルタバヌス1世(在位:前128年 - 前123年)は、即位後、遊牧民であるトハラ人に悩まされた。トハラはアムダリヤ川の北を本拠とし、アルタバヌス1世はトハラ人との戦闘において腕に毒矢を受けて戦没した。この結果サカ人はドランギアナ北方(現在のアフガニスタン、ヘラート市近辺)に移住し、この一帯はサカスタンと呼ばれるようになった。

ミトラダテス2世(在位:前123年頃 - 前87年頃)の時代にはサカ人の圧力をかわすことに成功し、西ではセレウコス朝を攻めてメソポタミア北部を制圧。さらにカラケネ王国および小アジアのアルメニア王国を服属させた。都をクテシフォンに移し、この時代には再びメソポタミアからインダス川までを支配する大国となり、ミトラダテス2世はイラン地方の覇者の称号である「バシレウス・バシレイオン」(諸王の王)を名乗るようになった。前92年にはローマと会談し、初めての接触を持っている。この時代がパルティアの最盛期と評される。

分裂とローマとの戦争

テンプレート:Main ミトラダテス2世の後、王位継承を巡って内紛が勃発し、更にローマからの侵攻を幾度となく受けることになる。前63年にはセレウコス朝がローマのポンペイウスにより滅亡し、パルティアもローマと直接向き合うこととなった。この時期は政治混乱のために記録が少なく、パルティアの内情は不明な点が多い。

紀元前1世紀半ばにはオロデス2世ミトラダテス3世との間で王位継承の戦いが行われたが、敗れたミトラダテス3世はローマ領へ逃れその支援を受けた。結局ミトラダテス3世は敗死するが、前53年にはローマ軍が自らパルティアに侵入した。この戦争ではカルラエ市近郊で行われた戦いでローマ将軍のクラッスス親子を戦死させ、パルティアが勝利を収めた(カルラエの戦いあるいは第1回パルティア戦争)。

前44年にローマのカエサルがパルティア侵攻の準備中に暗殺される。その後の内紛に乗じてオロデス2世は前40年にローマに侵攻してシリアを奪った。しかし翌年からの第2回パルティア戦争でシリアを奪還され、戦闘を指揮していたパコルス1世は戦死する。

後を継いだフラーテス4世は、その治世の前36年アントニウス率いるローマ軍の大挙侵入を受けたが、これを撃退した。前31年ティリダテス2世による反乱が起こり、王は一時スキタイ方面に避難した。スキタイ人の力を借りたフラーテス4世はティリダテス2世を追い出したが、その後も内紛は続いた。

フラーテス4世を暗殺したフラーテス5世以降、王位継承を巡る争いは更に深刻なものとなった。最終的にローマ帰りの王ヴォノネス1世の即位を見るが、彼の親ローマ政策は国内の大きな反発を買い、アルタバヌス2世が敵対者によって擁立された。

アルタバヌス2世はヴォノネス1世に対する勝利を収めた後、アルメニアの王位継承に介入しこれを支配下に置こうとしたため、帝政となったローマ帝国と第3回パルティア戦争を引き起こした。その後もアルメニアの帰属を巡って両国の関係は紛糾し続けた。パルティアがアルメニアへ対して軍を派遣しようとした所、36年にローマの手引きによりアラン人の侵入を受け、同年に和平を結んだ。その後、アルタバヌス2世は貴族たちの不満から退位させられ、一旦はキンナムスが後を擁立されるが、すぐに退位してアルタバヌス2世が復位する。なお現アフガニスタンパキスタン方面を支配していたテンプレート:仮リンクゴンドファルネス20年頃に分離独立してインド・パルティア王国を建てた。

アルタバヌス2世は復位後すぐに死去し、再び内紛が起こった。最終的にゴタルゼス2世が勝利して、51年にその後をヴォロガセス1世が継いだ。53年、ヴォロガセス1世は再びアルメニアを占領するが、58年コルブロ率いるローマ軍に奪い返され、63年ネロ帝との間に和議を結んだ。

その後、しばらくはローマとの間は小康状態となり、その代わりにアラン人対策に追われることになる。ヴォロガセス1世はアラン人討伐のため、ローマに援軍を依頼するが不調に終わった。

ローマにトラヤヌスが即位し、113年より侵攻を受ける。パルティアはローマにアルメニア、メソポタミアを奪われ、115年には首都クテシフォンを攻略される。117年、オスロエス1世によりクテシフォンは奪回するもののアルメニアとメソポタミアはローマの属州となった(第5回パルティア戦争)。同年にトラヤヌス帝が死ぬとローマはメソポタミアを放棄し、ユーフラテス川を両者の国境と定めた。

ローマとの和平後の134年にはアラン人に侵入され略奪された。

ヴォロガセス4世(在位:148年 - 192年)は161年の時代にはマルクス・アウレリウス・アントニヌス治下のローマと再びアルメニア問題で対立し、162年にローマ領シリアに侵攻したが、反撃を受けて164年に首都クテシフォンを破壊され、占領される。しかしこの時、ローマ軍で天然痘が発生し、これに乗じてクテシフォンを奪回し、アルメニアを占領した。166年、パルティアはローマに北メソポタミアを割譲することで戦争は終了した(第6回パルティア戦争)。

後を継いだヴォロガセス5世はマルクス・アウレリウスの死後の内紛に介入するが、内紛を収めたセプティミウス・セヴェルスの侵攻を受けて194年には再びクテシフォンを落とされるが、ローマ軍も兵站が上手くいかなかったために撤退した。197年にローマ領メソポタミアに侵入するが、198年ローマ軍によって撃退され撤退した(第7回パルティア戦争)。

ヴォロガセス5世の跡を継いだヴォロガセス6世の時代(207年頃)に内紛が起き、国が分裂した。メソポタミアとクテシフォンをヴェロガセス6世が、イラン高原をアルタバヌス4世が支配し、国内を二分して合い争った。この内乱に乗じてローマのカラカラ帝が侵攻してくるが、アルタバヌスはこれを打ち破り、大勝。カラカラは軍中で暗殺され、アルタバヌスはローマから賠償金を奪った(第8回パルティア戦争)。

滅亡へ

しかし国内の混乱はますます激しさを増し、全土に反乱が多発する。220年、それに乗じたペルシア王アルダシール1世の侵攻を受け、メソポタミア諸都市も多数離反し、ヴェロガセス6世は陣中で死去し、アルタバヌス4世も224年にアルダシール1世に敗れて殺された。この時点で事実上パルティアは滅びた。

その後、アルタバヌスの子・アルタバスデスが抵抗を続けたが、クテシフォンで処刑。パルティアは完全に滅亡した。

パルティアを滅ぼしたアルダシール1世はパルティアの後継者を名乗り、「バシレウス・バシレイオン」(諸王の王)を称してクテシフォンを首都としてサーサーン朝を設立した。

政治

パルティアは国内の社会的相違が激しく、それを反映して政治体制は地方分権的であった。領内に多数の従属王国を抱え、また無数の領主が存在していた。社会的階層として頂点にいたのは王族たるアルサケス氏族であり、アルサケス氏族の出身者のみがパルティア王位、及び従属王国の王位に付く事ができた。また従属王国の王位は厳しく序列分けされたが、インド・パルティア王国のように事実上の独立王国といえる状態に到った王国や、一時バビロニアを制圧して強勢を誇ったカラケネ王国などの例からもわかるように、時代によって各王国の地位、立場は変化した。

パルティア内の主要な王国

7大貴族

パルティアで大きな影響力を振るった7つの氏族があった。

これらの大貴族らの中には、サーサーン朝時代にまで影響力を振るったものもあった。この7貴族はその領地経営において、パルティア中央政府の影響を受けることはほとんど無く、王に近い地位を保持していた。この7家氏族の中でも特殊な地位にあったのがスーレーン氏族であり、軍司令官の地位を世襲したほか、王位継承の儀式においてパルティア王に戴冠する役割を持っていた。

この他にも中小の貴族が存在し、これらの貴族は重装騎兵として軍事力の根幹を担っており、パルティアの政治体制の基層を成した。

騎士

騎士は主に軽騎兵としてパルティアの軍事力の一翼を担っていた。支配者層としていくつかの特権を持ち、被征服民とは明確に区別されていたが、貴族にあまりにも強く従属していたために古典古代の著作家たちの中には、奴隷だと考えた者もいたという。騎士は遊牧的もしくは半遊牧的な伝統を持ち、都市ではなく農耕的オアシス周辺の草原を生活の場にしていたと考えられている。

ペラト

プルタルコスがペラト(Pelat)と呼んだ階層はプトレマイオス朝ラオイに似た「奴隷タイプの隷属民」だと考えられている。一定の法的保障を持つと同時に納税を義務づけられた被支配民である。税は土地台帳に基づいて課税され、納税を怠ると厳しい処罰を受けた。王の直轄地では国家に、貴族の所領では貴族に従属していた。古典古代の著作家たちは奴隷としていることも多いが、プルタルコスはペラトと奴隷を明確に区別している。

奴隷

奴隷はペラトよりさらに下の階層として存在していたと考えられている。また、奴隷とペラトの中間階層も存在したと思われる。

ギリシア人ポリス

パルティアが征服した領域、特にメソポタミアなど西部には多数のギリシア人が住む砦や少数の都市が存在した。これらの集落(砦)や都市はセレウコス朝以来自治組織を持っており、また伝統的に親セレウコス朝、親ローマの政治傾向が強かった。パルティアの政治闘争の中でしばしば現れる親ローマ派の勢力の支持母体となったのがこの集団であった。このため、セレウコス朝やローマとの戦争の際に裏切る恐れがあるギリシア人ポリスは、パルティア首脳部の頭痛の種となっていた。

ギリシア人殖民団の自治はパルティアによる征服初期にはセレウコス朝時代からほとんどそのまま継続されたが、長期に渡るセレウコス朝やローマとの戦争を通じて、パルティアの指導者達は彼等の自治権を縮小した。最大の契機となったのは紀元前6年にローマの支持の下で即位したヴォノネス1世と、アルタバヌス2世との間で戦われた内戦である。この内戦ではギリシア人集団の大半がヴォノネス1世側に加担したが、最終的にアルタバヌス2世が勝利した。これ以後、パルティア領内でのギリシア人の政治的地位が著しく低下し、ギリシア人集団の自治権も剥奪された。

バビロン 

バビロンには独自の市民と神殿の共同体が存在していた。この共同体はヘレニズム期の初めに神殿関係者と都市の富裕層が一体となった共同体を形成したもので、市民は何らかの義務を果たし、神殿は共同体成員にブレベンダ(給与)の形で分配するというシステムになっていたと考えられている。時代が下ると、ブレベンダは信仰とは無関係に神殿経営で得られた余剰産物の市民と共同体成員の間での分配方法の一つとなっていった。 バビロンはセレウコス朝時代より自治を認められており、いくつかの神殿の管理する土地をはじめとする特権を有していた。この特権は共同体の成員のみに与えられていた。 バビロンの自治も、ギリシア人ポリス同様にパルティア中期以降は次第に縮小されていったと考えられている。

文化

パルティアは征服の過程でヘレニズム文化圏を広範に支配下に納めた。この結果、初期には旺盛なヘレニズム文化の継承者となった。ギリシア語アラム語と並んで共通語として普及し、パルティア王達はギリシア文化の保護者を名乗った。

このように初期には各地でギリシャ風の美術、建築が行われたが、その度合いは地域によって大きく異なっている。ヘレニズム文化の中心地となったのはギリシア人の居住が多いバビロニアであり、セレウキアなどの都市はパルティア時代に入ってもなおギリシャ文化の一大中心地であった。

トルクメニスタン(パルティアナ)でも都市ではギリシア様式の芸術が多数みつかっているが、ギリシア人の絶対人口が少ないこの地域ではヘレニズム文化は極めて限られた都市部に集中していた。パルティアの農村地帯は研究が少ないが、現在知られている限り、パルティアの発祥地ともいえるパルティアナでは、農村部にヘレニズム文化が普及することはなかった。バクトリアなども含め、東方領土では早い段階から現地文化が強く現れはじめ、ヘレニズム文化との折衷様式が普及した。

宗教

ゾロアスター教ミトラ教信仰が盛ん。ミトラ教帝政ローマにおいて、兵士の間で流行する。

軍事

パルティアは遊牧民が政権中核を構成した国家であり、弓と馬の扱いに秀でていた。そのため軍隊の主力にも軽装騎兵を採用しており、機動力を生かした戦いを得意としていた。軽装騎兵は槍や剣ではなく弓で武装し、一定の距離を保ち矢を放って敵を苦しめた。軽装騎兵を効果的に活用するためパルティアは接近した白兵戦につながる会戦をできるだけ避け、戦闘になっても会戦で決着をつけようとはせずにすぐに退却した。退却するパルティア軍は追撃する敵に逃げながら矢を放ち、その損害に敵が浮き足立ったり高速移動に敵の戦列が対応できずに戦闘隊形が乱れると、取って返して再び攻撃した。こうした戦法は特にパルティア独自のものではなく、スキタイ匈奴モンゴル帝国といった遊牧国家の戦争に共通したものであるが、ヨーロッパに古典文明を伝えたローマ帝国が本格的に対峙した遊牧民勢力がパルティアだったため、ヨーロッパ人にとって遊牧民の戦法は、パルティア的なものとして記憶されるようになった。

このようなパルティアの戦い方から逃げながら馬上から振り返りざまに打つ矢のことを「パルティアンショット」(Parthian shot) と呼び、現代では転じて「捨てぜりふ」の意味になった。馬上の弓術は、パルティアの後継政権であるサーサーン朝の皇帝の狩猟図像などに記録されているものを、今日でも見ることができる。

言語

ユニアヌス・ユスティヌスが抄録したポンペイウス・トログスの『ピリッポス史』に「彼ら(パルティア人)の言語はスキュティア人の言語とメディア人のそれとの中間で、両方を混合したものである。」と記されている。[4]

歴代の王

※ アルサケス2世をアルタバヌス1世とし、以後1世ずつずれて表記される書籍も多い。

脚注

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参考文献

関連項目

bg:Партско царство cs:Parthská říše eo:Partoj es:Partos fa:پارت fr:Parthie hr:Parti hy:Պարթևաստան it:Parti ka:პართია ko:파르티아 lt:Partai nl:Parthen pl:Partia (kraina) ru:Парфия sk:Partská ríša ur:پارتھیا vi:Người Parthia

zh:帕提亚
  1. 新約聖書』の『使徒行伝』2:9で、日本語訳聖書の文語訳聖書口語訳聖書新改訳聖書は「パルテヤ人」と訳している。
  2. 京都大学学術出版会 1998,p435(トログス『ピリッポス史』第41巻2)
  3. ユゼフ・ヴォルスキは前239年としている。
  4. 京都大学学術出版会 1998,p430(トログス『ピリッポス史』第41巻2)