ドミトリ・メンデレーエフ

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イリヤ・レーピンによるドミトリ・メンデレーエフの肖像画

ドミトリ・イヴァーノヴィチ・メンデレーエフロシア語:Дмитрий Иванович Менделеевドミートリイ・イヴァ-ナヴィチ・ミェンヂェリェーイェフru-Dmitri_Mendeleev.ogg 発音を聴く[ヘルプ/ファイル]</span>、ラテン文字転写の例:Dmitrij Ivanovich Mendelejev1834年1月27日グレゴリオ暦2月8日) -1907年1月20日(グレゴリオ暦2月2日))はロシア化学者であり、元素周期律表を作成し、それまでに発見されていた元素を並べ周期的に性質を同じくした元素が現れることを確認し、発見されていなかった数々の元素の存在を予言したことで知られている。

また、「石油無機起源説」の提唱者としても近年再評価されている。


経歴

メンデレーエフは西シベリアトボリスクに近いVerkhnie Aremzyani村に母マリア・ドミトリーヴナ・コルニレフと父イワン・パブロヴィッチ・メンデレーエフの14人の子供の末っ子として生まれた。14歳、当時中学校の校長をしていた父を亡くした。1849年に貧しい家族とともにサンクトペテルブルクに移り住み、1850年には高等師範学校へと進学した。卒業後の1855年黒海近くのクリミア半島のシンフェローポリにある中等学校(ギムナジウム)の博物学の教師として赴任した。しかし、クリミア戦争中で講義はなく、すぐにオデッサのリシュリュー・リセ(より程度の高い中等学校)に転任になった。翌1856年に修士論文の審査のため再びサンクトペテルブルクへと戻った。

1859年から1861年の間気体密度についてハイデルベルクで研究を行う。1861年再びロシアに戻り、1864年にはサンクトペテルブルクの高等技術専門学校で化学の教授となった。さらに1865年4月にサンクト・ペテルブルグ大学の技術化学の員外教授に任じられ、12月には正教授に進んだ。1867年10月に技術化学から一般化学の講座に転じた。1862年4月、Feozva Nikitchna Lascheva と結婚した。

1865年ジョン・ニューランズオクターブの法則を発表した。メンデレーエフも同様の考えを持っており、1869年3月6日にロシア化学学会で The Dependence Between the Properties of the Atomic Weights of the Elements と題した発表を行った。そこで、

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メンデレーエフの最初の英語版の周期表。(1891年のロシア語の第5版をベースにしている。)
ファイル:Mendeleyev gold Barry Kent.JPG
メンデレーエフメダル
  1. 元素原子量の順に並べると明らかにその性質ごとの周期性を表す。
  2. 科学的特性の類似する元素はほぼ同じ原子量であるか(例:白金イリジウムオスミウム)、原子量が規則的に増加するか(例:カリウムルビジウムセシウム)である。
  3. 元素グループ内での原子量順に並べた元素の配列はいわゆる原子価だけでなく、ある範囲まで、独特の化学的特性と一致する。
  4. 広範囲に存在している元素の原子量は小さい。
  5. 分子の大きさが化合物の性質を決定するように、原子量の大きさが元素の性質を決定する。
  6. 未知の元素の発見が期待される。たとえば、共に原子量が65から75の間であり、科学的特性がアルミニウムに類似する元素およびケイ素に類似する元素が存在するであろう(後年、該当するガリウムゲルマニウムが発見される)。
  7. 元素の原子量は原子番号順で前後する元素の原子量に関する知識により修正できることがある。たとえば、テルルの原子量は123から126の間にあり、128にはなりえない。
  8. 元素の特徴的な特性はその原子量から予言できる。

ということを指摘した。

メンデレーエフが周期表を発表した数ヵ月後、ドイツロータル・マイヤーが事実上同一の表を発表した。このため、周期表はメンデレーエフとマイヤーの共同成果であると考える者もいるが、未発見の元素の予測の質がよかったため、メンデレーエフ単独の功績とみなされている。この考えは当初は疑いの目で見るものも多かったが、メンデレーエフが周期表に空欄を作って予言したとおりの場所に、1875年にガリウム、1879年スカンジウム1886年にゲルマニウムと次々と新元素が発見されたことから正確さが確かめられ、高く評価されるようになった[1]

1890年、サンクトペテルブルク大学の学生の奨学金増額要求を文部大臣に取り次ぎ、拒否されるとそれに抗議して同大学を辞職した。

1893年、メンデレーエフは度量衡局の所長となった。ここでのメンデレーエフの仕事はウォッカの製造技術の標準化であった。メンデレーエフは、エチルアルコール分子1に対して水分子2の割合で混合するのが最適であると結論づけたが、これは体積比にして38%アルコールと62%の水に相当する。これにより、1894年に新法が制定され、すべてのウオッカは40%(体積比)のアルコールを含むものと規定されたテンプレート:要出典。この比率は現在においても多くのウオッカで用いられている。

メンデレーエフは死去するまで度量衡局の局長を務めた[2]

メンデレーエフの研究は、1906年ノーベル化学賞にノミネートされるも、たった一票の差でアンリ・モアッサンに敗れる。翌年に死去。

1955年、101番元素(仮名はウンニルウニウム)は彼の名にちなみ「メンデレビウム」と名づけられた。

逸話

1869年の2月17日、元素の原子量とその化学的特性との関係について考えていたメンデレーエフは、そのまま眠りに落ちてしまった。居眠りの最中、彼は夢の中で、すべての元素が原子量の順に並んだ表を見た。目を覚ました彼は即座にその表を紙に書いた。彼はこの表から、元素を原子量の順に並べると化学的特性が周期的に繰り返されるという発想を思い付いた。[3][4]

また、当局に追われるイワン・セチェノフを一時期、自身の研究所に雇い入れて庇護した[5]

その他

関連項目

外部リンク

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  • Gordin, M. D. "D. I. Mendeleev: Reflecting on His Death in 1907" Angew. Chem., Int. Ed., 2007. DOI: 10.1002/anie.200601976

脚注

  1. 「科学の世紀を開いた人々(上)」p102 竹内均編 ニュートンプレス 1999年4月10日初版第1刷
  2. 「新版 ロシアを知る事典」p745 平凡社 2004年1月21日発行
  3. Paul Strathern. Mendeleyev's Dream : The Quest for the Elements 2001. Thomas Dunne Books
  4. Paolo Mazzarello. What dreams may come? 2000. Nature 408, pp. 523
  5. セチェノフ著『思考の要素』明治図書出版、1964年