ラノーン県
ラノーン県(ラノーンけん、タイ語: จังหวัดระนอง )はタイ王国・南部の県(チャンワット)の一つ。チュムポーン県、スラートターニー県、パンガー県に接し、ミャンマーとの国境を有する。また、アンダマン海にも面する。
地理
ラノーン県は狭い地形が大陸部とマレー半島南部を結ぶクラ地峡に位置する。県西部はプーケットとつながる山脈がある。この山脈にモンスーンが当たるため雨が非常に多く降り、ラノーン県はタイの県の中で一番雨の多い県である。雨期も長く8ヶ月も続くことで有名である。1955年には6699.5mmもの降水量が記録されている。ちなみに、タイ中部の平均降水量が1200mmである。
歴史
中国福建省漳州出身の許泗漳(きょししょう)は1810年、マレーシアのペナンに流れ着き、そこで6年間過ごした後、ラノーン県と隣接する県であるパンガー県のタクワパー郡に渡来した。そこでビジネスを成功させたのち1844年、ルワン・ラッタナーセーティーと言う官位・欽錫名を得て、王室専属のスズ採掘者となった。後の1854年にはラーマ4世(モンクット)は許泗漳をルワンからプラヤー(官位)に昇格させラノーンの国主とした。
当時ラノーンはチュムポーン県の管轄下にあったが1864年には許泗漳の努力によりラノーンは周辺の地域と共にラノーン県に昇格し、その官位もプラからプラヤーへ昇格した。1882年、許泗漳の死去に伴い、その次男、許心広が新たなラヨーンの国主となり後の1896年、モントン・チュムポーンの省長へと昇進した。他の子供はクラやランスワンなどの地域の最高責任者として配属された。許泗漳の末っ子である許心美(プラヤー・ラッサダーヌプラディット)はトラン県の知事となり、1900年にはモントン・プーケットの省長に任命されている。しかしながら急激に勢力を拡大した許家のタイ南部における勢力が懸念され、1913年の許心美の死後は許家以外の人物がモントンの省長に任命されることとなる。
なお、許家は1916年にはすべての華人がタイ名を名乗るようになったが、この過程で名門であった許家は自分の家系を明確にするため「ナ・ラノーン」を名の後に付けるようになった。これがナ・ラノーン家である。
県章
県章に描かれている建物は、チャクリー王朝のラーマ5世が滞在したと伝えられるニウェートキーリー山にあるプラーサート・ラッタナーランサーン(宮殿)をデザインしたものある。
県木はオオバナサルスベリ(テンプレート:Snamei)、県花はランの花。
行政区分
ラノーン県は5の郡(アムプー)にわかれ、その下位に30の町(タムボン)と、167の村(ムーバーン)がある。
外部リンク
- จังหวัดระนอง (公式サイト)