坂上広野
坂上 広野(さかのうえ の ひろの、延暦6年(787年) - 天長5年3月9日(828年3月28日))は、平安時代初期の貴族。大納言・坂上田村麻呂の次男。官位は従四位下・勲七等・右兵衛督。坂上広野麻呂とも表記される。
概要
経歴
薬子の変では父・田村麻呂と共に嵯峨天皇側につき、近江国の関を封鎖するために派遣された。
弘仁元年(810年)正六位上から従五位下に昇叙、右兵衛佐に任ぜられる。父・田村麻呂の死去に伴う官職を辞するが、その後右衛門佐に任ぜられ、弘仁3年(812年)右近衛少将に転ずる。のち、伊勢守を兼任したのち、陸奥守として任国に赴任し、任期終了後に右兵衛督に任ぜられた。この間、弘仁5年(814年従五位上、弘仁14年(823年)正五位下から従四位下に昇叙されている。
人物
父・田村麻呂ゆずりの武人で若い頃から武勇の誉れが高かったが、他に才芸はなかった。思った通りに行動し、賞賛に価するほど節操があった。しかしながら、酒の飲み過ぎが原因で発病し、卒去した。[1]
平野殿
摂津国住吉郡平野庄(現・大阪市平野区)の開発領主で「平野殿」と呼ばれた。
姉の坂上春子は、桓武天皇の後宮で、桓武天皇の崩御後は、広野を頼って平野の地に住み、長寶寺を創建し、坂上氏累代の尼寺となったと伝える(長宝寺系図)。
融通念仏宗の総本山の平野の大念仏寺は、開祖良忍(聖応大師)が四天王寺で見た霊夢で、坂上広野の私邸内に建てた修楽寺が前身という(大念仏寺記)。
広野の墓は、平野の坂上公園の中にあるが、往時のものではなく後世のものである。
子孫
広野の孫・峯益は出羽権介、それ以降行松(秋田城介)、高時(出羽介)と、代々東北地方の地方官に任ぜられた。また、陸奥国の豪族田村氏を広野の子孫とする系図もある[2]。
広野の弟・浄野の三男とされる坂上当道も一説に広野の子とされ[3]、当道は摂津国平野庄に住し、広野にはじまる平野の坂上氏宗家の家督を継いだともいわれている。広野の子孫は、代々、明法博士などの官職を得て京都に住した系統(当道の子の右少将・好蔭の系統)と、平野庄に土着したとされる系統(広野の孫の出羽権介・峯益の系統)に分かれた。
伝承
平野氏と七名家
杭全氏が没落した後、室町時代後期に平野氏が台頭する。坂上春子創建の長宝寺の寺譜や平野氏の一族の末吉氏に伝わる家伝や末吉氏系図によると、坂上広野の孫で清水寺別当の坂上峯盆の子の秋田城介権守の坂上行松(平野行増)を祖とするという。平野氏からは末吉氏をはじめとする坂上(平野氏の七家で、平野七名家と呼ばれた一族)が生まれ、宗家の坂上氏、庶家惣領の平野氏を筆頭に、平野七名家が坂上宗家を支えると共に代々「民部」を称し、堺などと並ぶ中世の自治都市の平野を担った。宗家の坂上氏は、代々、京都の公家との姻戚関係を維持し、明治時代に東京に移るまでは長寶寺の一角に構えた屋敷に住した。七名家の筆頭の末吉氏は江戸時代初期には繁栄を極め、後に東西両家(末吉勘兵衛家、末吉孫左衛門家)に分れたが、子孫は今も平野の地に現存している。