芳賀高武
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芳賀 高武(はが たかたけ、元亀3年(1572年)- 慶長17年(1612年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。宇都宮氏の家臣。宇都宮広綱の三男。兄に宇都宮国綱、結城朝勝。下野国真岡城城主。芳賀氏十一代当主。左兵衛尉。宇都宮時綱とも。
宇都宮一族であったが、有力家臣の芳賀高継の養嗣子として入嗣し、天正20年(1592年)の高継が死去すると跡を継いだ。兄と協力して家中の家臣団統制をはかり、同年の文禄の役の際に兄と共に肥前名護屋城に駐屯、慶長元年(1596年)には国綱から官途を付与されるなど、兄の右腕として活躍した。
しかし慶長2年(1597年)、跡継ぎの無い国綱に対し豊臣氏五奉行の浅野長政の子・長重を養子に迎えようと家中で計画されると高武は強硬に反対。これを主導した重臣・北条勝時と今泉高光を殺害した事から、豊臣秀吉によって兄共々改易されたという。
その後はお家再興に尽力し、慶長の役に参陣し、伊勢神宮に再興の願文を出したという。だが、それが報われることは無く、慶長17年(1612年)に死去。子の高成は水戸徳川家に仕えたといわれる。