日本共産党(日本のこえ)
テンプレート:混同 テンプレート:日本共産党から分裂した党派 日本共産党(日本のこえ)(にほんきょうさんとう にほんのこえ)は、1964年に結成された日本の親ソ派の共産主義党派。
概要
部分的核実験停止条約の批准をめぐってソ連を支持したために日本共産党を除名された志賀義雄・鈴木市蔵・神山茂夫・中野重治が結成。中野の命名によって党名に「日本のこえ」とつけた。しかし1967年1月の総選挙で志賀が落選すると早々と党内対立が表面化。10月には神山・中野が離脱し、翌1968年1月に党名から「日本共産党」を取り除いた日本のこえに改称。だが、同年の参院選で改選を迎えていた鈴木は出馬を断念してしまい、結果として国会議員がいなくなってしまう。1977年には「平和と社会主義」編集会議と改称するが、1979年に日本共産党がソ連共産党との関係を修復してしまうと、影響力を大きく失うことになった。現在は消滅している。また、1960年代には反志賀派党員の一部が離党し日本のこえ(左派)を結成、その後共産主義労働者党に合流する。[1]
志賀が部落解放同盟を主な支持基盤としていたことから、結党当初には解放同盟系の活動家が多数参加していた(その中の一人に後に解放同盟委員長・日本社会党衆議院議員となる上田卓三がいる)。その影響で解放同盟の主流派(本部派)を「こえ派」と呼ぶ人もいる。日本共産党は、現在でも解放同盟を「利権あさりの集団」と見なして敵対している。しかし、両者の対立の引き金の一つに、解放同盟主流派が、志賀派(こえ派)と協力した事実があったことも認めていて、日本共産党とソ連共産党の対立が飛び火した一面があったことがわかる[2]。
構造改革系の学生運動組織、民主主義学生同盟(民学同)とは共闘関係にあった。民学同は後の1970年に多数派の「民主主義の旗派」と少数派の「デモクラート派」「新時代派(アサート)」などに分裂。その後「民主主義の旗派」は「現代政治研究会」に改称。さらに2000年にはソ連型社会主義を厳しく批判する総括を行ない民主主義的社会主義運動(MDS)へと改称し、「無防備地区宣言」条例の制定運動の中核として活動することになる。
MDSの関連組織に「平和と民主主義をめざす全国交歓会(全交)」、「平和と生活をむすぶ会」、「イラク市民レジスタンス連帯委員会」など。国際情勢に関してはイラクを中心とする中東関係には機関紙上で多く言及している。