フォーミュラ2
フォーミュラ2(Formula 2、F2)は、自動車レースの1カテゴリー。国際自動車連盟 (FIA) が定義するフォーミュラカーレースのうち、フォーミュラ1 (F1) の直下に位置する。
フォーミュラ3000 (F3000) への移行により1984年に廃止されたが、2009年より2012年までの間 後述の「FIA F2選手権」が行われた。
目次
規定の変遷
F2規定は1948年に創設された。第二次世界大戦前にボワチュレット(フランス語で「小型車」の意味)と呼ばれたカテゴリーをベースに、当初は2,000cc以下の自然吸気 (NA) エンジン、もしくは500cc以下のスーパーチャージャー付きエンジンを使用することとされていた。1952年と1953年にはF1マシンが不足していたため、F2規定により世界選手権が行われた。この2年間はフェラーリが17戦中14勝という成績を収めた。
1957年にはエンジン規定が1,500cc以下のNAエンジンとされ、フェラーリは有名なディーノV6エンジンを開発した。
1961年にはF1のエンジンが1,500ccにスケールダウンされたのに伴い、F2が一旦廃止された。1964年より1,000cc以下のNAエンジンで復活し、1966年にはホンダエンジンを搭載したブラバムチームが開幕11連勝を成し遂げた。
ヨーロッパF2選手権
1967年からはF2カテゴリーに対し、FIAがヨーロッパ選手権のシリーズタイトルを創設した。エンジン規定は1967年~1971年までが1,300~1,600cc・最大6気筒のNAエンジン、1972年以降は2,000cc以下・最大6気筒のNAエンジンとしていた。また、量販エンジンがベースになるよう1975年まではエンジンの最低生産台数規定が存在したが、1976年以降は純レーシングエンジンの使用が認められるようになった。
発足当時はドライバーの契約金が低かったため、複数のカテゴリを掛け持ちするのが一般的だった。ヨーロッパF2選手権では高額のスターティングマネー[1]が支払われていたことから、現役F1ドライバーが数多く参戦した[2]。ただし、F1でチャンピオン経験などの十分な実績を持ったドライバーは得点対象外の「グレーデッド・ドライバー」に指定され、F1予備軍もしくはF1キャリアの浅いドライバー達がシリーズチャンピオンを争う形式とされた。若手選手がビッグネームを破ることで名を挙げ、飛躍のきっかけとするケースが多かった。しかし、1970年代中盤よりF1グランプリの開催数が増加したことにより、F1ドライバーの参戦は減少した。
一時は40台を越える参加台数があったものの、ヨーロッパF2選手権は次第に衰退していく。1970年代初頭まではF3→F2→F1というステップアップが一般的だったが、次第にF3の若手有望株がいきなりF1に抜擢される例が増え、F2の存在意義が薄れてしまったことが大きい。F3はF1の前座として開催される例も多いが、F2はF1の前座としては格が高く、それでいてF1ほどの集客力は望めないため、ドライバーにとってもレース主催者にとってもF2というカテゴリーは魅力に欠けるものになってしまった。
また、1980年にホンダがF2にエンジン供給を再開したが、供給の対象はごく少数のチーム(ドライバー)に限定されており、ホンダエンジン搭載車ばかりが勝つという状況が生まれてしまった。1984年には、それまで長年にわたり高性能なF2用エンジンを安定供給していたBMWが同カテゴリーからの撤退を表明した[3]。
そういった要因が重なり、1984年限りでヨーロッパF2選手権は廃止され、翌1985年よりF3000規格の新カテゴリー、国際F3000選手権に移行した。
最終的にヨーロッパF2選手権のチャンピオン獲得者からF1チャンピオンは誕生しなかった。このジンクスは国際F3000選手権時代でも続くことになる。
ヨーロッパF2選手権の歴代チャンピオン
FIA F2選手権
2008年6月25日にパリで開催された世界モータースポーツ評議会にて、若手ドライバーのF1へのステップアップを支援するカテゴリーとしてF2の名称復活が提唱され、発表された。F1直下シリーズとして現在機能しているGP2よりも大幅に安い「1台・1シーズン・20万ユーロ」で参戦可能としている[4]。
2008年9月4日、元F1ドライバーのジョナサン・パーマーが経営するモータースポーツ・ビジョン (MotorSport Vision) がFIAが公募した入札に入札したと発表し[5]、2008年9月15日、FIAはモータースポーツ・ビジョンがプロモーターとしてシャシー及びエンジンを供給する事が決定したことを発表した。シャーシはF1チームのウィリアムズの協力を得て設計され、エンジンはアウディ1.8リットル直4ターボエンジンが採用される。また、同時に年間ランキング上位3名はスーパーライセンスの発給資格を得ることが発表された[6]。さらにシリーズチャンピオンにはウィリアムズのF1マシンをテストドライブする機会も与えられる[7]。
2009年3月2日にF2用マシン、ウィリアムズ・JPH01が発表、その場でシェイクダウンされた。
一部F2単独の開催もあるが、主に同じFIAが所管する世界ツーリングカー選手権 (WTCC) のサポートレースとして開催されており、年間8~9イベント程度が行われていた。
評判
GP2よりも低コストで参戦可能なF1へのステップアップカテゴリーとして設立された本シリーズだが、GP2からは毎年数人のドライバーがF1へステップアップしているのに対し、FIA F2初年度の2009年に参戦したドライバーからはチャンピオンのアンディ・ソウセックがヴァージン・レーシングのテストドライバーとなったのみで、レギュラーシートを得たドライバーはいなかった。そのアンディ・ソウセックも2010年シーズン中にヴァージン・レーシングを離脱し、スーパーリーグ・フォーミュラに参戦した。
また、開催初年度にはヘンリー・サーティースの死亡事故が発生し、前述のステップアップ実績も相まって、シリーズの評判は落下の一途を辿った。
2012年12月6日、エントリー数の減少などを理由に2012年シーズンを持ってFIA F2選手権の終了が発表された[8]。
FIA F2選手権の歴代チャンピオン
年 | チャンピオン | 国籍 |
---|---|---|
2009年 | アンディ・ソウセック | テンプレート:Flagicon スペイン |
2010年 | ディーン・ストーンマン | テンプレート:UK |
2011年 | ミルコ・ボルトロッティ | テンプレート:Flagicon イタリア |
2012年 | ルチアーノ・バチャタ | テンプレート:Flagicon イギリス |
日本のF2
テンプレート:Main 日本においては、1973年に全日本F2000選手権としてF2規定[9]によるシリーズがスタート。1978年にF2規定が改訂され、全日本F2選手権に改称された。ヨーロッパF2選手権にもエンジンを供給していたBMWとホンダに加え、1985年よりヤマハが参戦してエンジンメーカー3社による激しい争いが繰り広げられた。1984年にはこのシリーズを舞台にした映画『F2グランプリ』(東宝作品)が製作・公開された。
1980年代半ばには、日本でも限定供給のホンダエンジン搭載車ばかりが勝つ状況になり、観客のレースに対する関心が失われていた時期があった。1986年まで日本のトップカテゴリーとして開催されてきたが、ヨーロッパの動きに合わせて1987年より全日本F3000選手権に移行した。
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:F2選手権 テンプレート:F2選手権歴代チャンピオン テンプレート:モータースポーツ
テンプレート:Motorsport-stub- ↑ 賞金とは別に、レースへのエントリーに対して支払われる「出走約束料」。人気ドライバーの参戦は観客動員を左右するため、ネームバリューのある選手ほど好待遇になる。
- ↑ 1968年にはジム・クラークがF2出場中に事故死している。
- ↑ BMWはホンダと異なり、代金さえ払えばどのチームにもエンジンを供給していた
- ↑ GP2シリーズにフル参戦するためには、年間数億円の予算が必要と言われている。
- ↑ Palmer submits F2 tender - autosport.com
- ↑ FIA Formula Two Championship - FIAプレスリリース
- ↑ Soucek: Williams test a dream chance - autosport.com
- ↑ MSV and FIA agree not to run F2 in 2013
- ↑ ただし、エンジンの最低生産台数規定は適用されなかった。