文治
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文治(ぶんじ)は、日本の元号の一つ。元暦の後、建久の前。1185年から1189年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇。
改元
- 元暦2年8月14日(ユリウス暦1185年9月9日) 改元。『百錬抄』には「十四日甲子、有改元、依地震也、」とあり地震(文治地震)が原因とされるが[1]、『一代要記』には「八月十四日改元、依兵革也、」とあり兵革を理由とする説もある[2]。
- 文治6年4月11日(ユリウス暦1190年5月16日) 建久に改元
出典
礼記祭法の「湯以レ寛治レ民 〈略〉 文王以レ文治レ民」
『山槐記』文治元年8月14日条には詳しい改元の経緯が載せられている。それによれば、諸卿の間で有力であったのが「建久」であったが、摂政近衛基通が一部の公卿から反対が出ていた次点の「文治」を推して決定をひっくり返した。基通は先に武力によって天下が平定された(治承・寿永の乱)ことを指摘し、「文治」をもって統治を行うことを示す必要性を主張したのである。これはその14日後に実施された後白河法皇自らが主導した東大寺盧舎那仏像の開眼供養と並んで、戦後の秩序再建を後白河法皇-近衛基通ラインが主導しようとする意欲の表れと捉える見方もある[3]。
文治期におきた出来事
西暦との対照表
※は小の月を示す。
文治元年(乙巳) | 一月 | 二月※ | 三月 | 四月※ | 五月※ | 六月 | 七月※ | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月 | 十二月 | |
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寿永四年 | |||||||||||||
ユリウス暦 | 1185/2/2 | 3/4 | 4/2 | 5/2 | 5/31 | 6/29 | 7/29 | 8/27 | 9/26 | 10/25 | 11/24 | 12/24 | |
文治二年(丙午) | 一月※ | 二月 | 三月※ | 四月 | 五月※ | 六月※ | 七月 | 閏七月※ | 八月※ | 九月 | 十月 | 十一月 | 十二月※ |
ユリウス暦 | 1186/1/23 | 2/21 | 3/23 | 4/21 | 5/21 | 6/19 | 7/18 | 8/17 | 9/15 | 10/14 | 11/13 | 12/13 | 1187/1/12 |
文治三年(丁未) | 一月 | 二月 | 三月※ | 四月 | 五月※ | 六月※ | 七月※ | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月 | 十二月※ | |
ユリウス暦 | 1187/2/10 | 3/12 | 4/11 | 5/10 | 6/9 | 7/8 | 8/6 | 9/4 | 10/4 | 11/2 | 12/2 | 1188/1/1 | |
文治四年(戊申) | 一月 | 二月 | 三月 | 四月※ | 五月※ | 六月 | 七月※ | 八月 | 九月※ | 十月※ | 十一月 | 十二月 | |
ユリウス暦 | 1188/1/30 | 2/29 | 3/30 | 4/29 | 5/28 | 6/26 | 7/26 | 8/24 | 9/23 | 10/22 | 11/20 | 12/20 | |
文治五年(己酉) | 一月※ | 二月 | 三月 | 四月※ | 閏四月 | 五月※ | 六月 | 七月※ | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月※ | 十二月 |
ユリウス暦 | 1189/1/19 | 2/17 | 3/19 | 4/18 | 5/17 | 6/16 | 7/15 | 8/14 | 9/12 | 10/12 | 11/10 | 12/10 | 1190/1/8 |
文治六年(庚戌) | 一月※ | 二月 | 三月※ | 四月 | 五月 | 六月※ | 七月 | 八月※ | 九月 | 十月※ | 十一月 | 十二月※ | |
ユリウス暦 | 1190/2/7 | 3/8 | 4/7 | 5/6 | 6/5 | 7/5 | 8/3 | 9/2 | 10/1 | 10/31 | 11/29 | 12/29 |
脚注
- ↑ 古代中世地震史料研究会 [古代・中世]地震・噴火史料データベース(β版)
- ↑ 北爪真佐夫「元号と武家」(初出:『札幌学院大学人文学会紀要』第68号(2000年9月)/所収:北爪『文士と御家人』(青史出版、2002年) ISBN 978-4-921145-13-2)
- ↑ 小原仁「文治元年の後白河院政」(初出:佐伯有清先生古希記念会 編『日本古代の祭祀と仏教』吉川弘文館、1995年/改題所収:「大仏開眼会と後白河院政」小原『中世貴族社会と仏教』吉川弘文館、2007年 ISBN 978-4-642-02460-0)