青嵐会
青嵐会(せいらんかい)は、1973年、自由民主党の派閥横断的に結成された保守派の衆参両若手議員31名からなる政策集団。(石原派→黎明の会)
趣意
- 自由社会を守り、外交は自由主義国家群との緊密なる連携を堅持する。
- 国民道義の高揚を図るため、物質万能の風潮を改め、教育の正常化を断行する。
- 勤労を尊び、恵まれぬ人々をいたわり、新しい社会正義を確立するために、富の偏在を是正し、不労所得を排除する。
- 平和国家建設のため、平和は自ら備えることによってのみ獲ち得られるとの自覚に則り、国民に国防と治安の必要性を訴え、この問題と積極的に取り組む。
- 新しい歴史における日本民族の真の自由、安全、繁栄を期するために自主独立の憲法を制定する。
- 党の運営は安易な妥協、官僚化、日和見化の旧来の弊習を打破する。
概要
青嵐は寒冷前線の意味で、会名は「渾沌停滞した政界に爽やかな風を送り込もう」という意味を込めて石原慎太郎が命名した。設立趣意書には「いたずらに議論に堕することなく、一命を賭して、右、実践する」とあり、結成時に石原の提案で会員名簿に血判状を捺した事で知られる[1]。
中華民国支持の立場をとり、田中角栄首相による日中国交正常化に伴う中華民国との断交に絶対反対の姿勢を貫き、自民党外交部会などで強硬に主張した。1973年の「日中国交正常化1周年記念」に対抗して「中華民国断絶1周年訪問団」を結成し、台北市を訪問した。自民党議員による北朝鮮訪問を実力で阻止したこともある[1]。反共を標榜していたが、当時中華人民共和国と対立していたソ連に対しては柔軟で、在京ソ連大使館職員を招いて勉強会を開くなどしている。
1974年には浜田幸一が中国国民党擁護の立場から、在日台湾独立派の金美齢と論戦を行ったが、この番組(毎日放送制作:東京12チャンネル放映予定)は中国国民党の圧力で放映中止となった。
結成当初より、集会では会場となった日本武道館を満員にするほどの人気を得ていた[1]が、マスコミからは「自民党の右翼集団」「極右集団」などと批判された[1]。また、思想面で近いことから「福田赳夫親衛隊」などと言われることもあった。中川、石原、玉置ら、福田・岸系列に近い人間が多かったため、それらの指摘がある側面も存在する。マスコミの批判的報道に神経質になっていた中川は、取材を受ける際には記事に細かい注文をつけていた[1]。
結成から間もなくして、中華人民共和国に対する強硬論に反発した山崎拓が中川の度重なる説得にも翻意せず脱会し、それに続いて野田毅、綿貫民輔、内海英男ら離脱者が続いた。1977年になると、中川の農林大臣就任をきっかけとして、中川と渡辺が対立するようになった[1]。
1979年に解消。中川は石原ら一部のメンバーと青嵐会の意志を引き継いだ自由革新同友会(中川派)を結成した。
結成メンバー
衆議院議員26名、参議院議員5名。(当選回数、所属派閥は当時のもの)
衆議院議員 |
参議院議員 |
その他
コラムニストの勝谷誠彦は、ビートたけしのTVタックルでの浜田幸一とのやり取りで、「すごいカッコよかった。僕大人になったら絶対青嵐会入ろうと思っていた」と明らかにしている。また、中川の長男で自由民主党政務調査会長や財務大臣を歴任した中川昭一は、「自身の政治家としての原点」と述べ、当時のマスコミの同会に対する報道姿勢に強い不信感を抱いたことを明らかにしている。