ゲーム機
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ゲーム機(ゲームき、テンプレート:Lang-en-short)は、ゲーム(コンピュータゲーム)を動作させるためのハードウェア機器の総称[1]。ゲームソフトの略称「ソフト」に対してハードとも呼ばれる。
コンシューマーゲーム(テレビゲーム/携帯型ゲーム)機を家庭用ゲーム機と呼ぶ。ゲーム機の形態からテレビ(据え置き型)ゲームが遊べる「据置機」(据え置き機)と携帯型ゲームが遊べる「携帯機」に分類されている。家庭用ゲーム機は歴史を経るにつれてオーディオ・ビジュアル(AV)機能を持つようにもなり、ソフトの提供についても「パッケージ版」と「ダウンロード版」が用意されるようになった。
- 世界のゲーム機の歴史を各世代ごとに年代順に分けて述べる。より詳しくは海外版記事も参照のこと。
- 日本市場のみに限定された歴史については日本におけるゲーム機戦争を参照のこと。
- 世代分けはアメリカに準拠しているが、出典により食い違いも見られる[2][3]。
最も売れたゲーム機
テンプレート:Seealso 全世代歴代の主なゲームハード(据置機)を2013年9月現在の全世界歴代販売台数から記す[4]。
ハード名 | 販売台数 | 発売元 | 発売年 | |
---|---|---|---|---|
1位 | PlayStation 2 | 1億5500万台 | ソニー・コンピュータエンタテインメント | 2000年 |
2位 | PlayStation | 1億2490万台 | ソニー・コンピュータエンタテインメント | 1994年 |
3位 | Wii | 1億4万台 | 任天堂 | 2006年 |
4位 | PlayStation 3 | 7920万台 | ソニー・コンピュータエンタテインメント | 2006年 |
5位 | Xbox 360 | 7840万台 | マイクロソフト | 2005年 |
6位 | ファミリーコンピュータ | 6191万台 | 任天堂 | 1983年 |
7位 | スーパーファミコン | 4910万台 | 任天堂 | 1990年 |
8位 | メガドライブ | 4000万台 | セガ | 1988年 |
9位 | NINTENDO64 | 3293万台 | 任天堂 | 1996年 |
10位 | Atari 2600 | 3000万台 | アタリ | 1977年 |
北米におけるその年の最も売れたソフトは次の通り[5]。
概要と歴史
テンプレート:出典の明記 テンプレート:Seealso ここではゲーム機と呼ばれているものがどのようにして確立したかを年代順に簡略に述べる。
ゲーム機が誕生した1970年頃には、コンピューターと言えばスパコンやミニコンなど、軍や大学で使われる高価なシステムしかなかった。初期のコンピューターゲームで最も有名なものとしては、ミニコン上で書かれ不特定多数の大学生に遊ばれた宇宙戦ゲーム『スペースウォー!』が挙げられる[6]。その後、ゲームは4つの道を通って発展した。
1972年、史上初のビデオゲーム機が登場するが商業的に成功せず、最初に商業ゲームとして成功したのはアタリ社のアーケードゲーム『ポン』だった[7]。ビデオゲームは、それまでゲームセンターで人気を博していたピンボールを瞬く間に駆逐した。アーケードビデオゲームは次第に内容が複雑化していき、ワイヤードロジックの回路では実現が難しくなるにつれマイクロプロセッサーが採用されるようになっていった。
1970年代中盤に登場した最初期のテレビゲーム機(第1世代)は、それらのアーケードゲームを家庭で手軽に楽しむためのものであった。当初のテレビゲーム機は、初期のアーケードゲーム同様にワイヤードロジックで構成されていたため、1ハード1ゲーム、もしくは複数のゲームをスイッチで切り替える方式だった。
第2世代(1970年代後半 - 1980年代前半)では、1つのハードでさまざまなゲームをプレイしたいというユーザーの欲求に応えるため、ハードにゲームソフトを組み合わせることで、コンピューターゲームをプレイすることができるシステムが採用された。ソフトの供給メディアはカセットテープを採用したマシンもあったが、Atari 2600はカートリッジでプログラムを供給するカートリッジ交換式のシステムを採用し、それが標準となった。1979年には史上初のサードパーティーが誕生し、ここで、ゲーム機本体を販売する産業とは別に、ゲームのプログラムそのものを販売して利益を上げるゲーム産業が誕生した。このAtari 2600によってテレビゲームのイメージがほぼ確立されたが、1982年にいわゆるアタリショックが起きた[8]。
1977年には、各社からパーソナルコンピュータ(8ビットパソコン)の販売が始まった。この頃すでにテレビゲームやアーケードゲームはしており、パソコンのユーザはこれらのアーケードゲームを無料で楽しむために、アーケードゲームを真似たパソコンゲームを競って自機上にプログラミングし、互いに交換しあった。パソコンゲームはその後アドベンチャーゲームやロールプレイングゲーム、シミュレーションゲームといった、同時代のアーケードゲームやコンシューマーゲームとは異なる分野で発展を遂げていくことになる。
1970年代後半のゲーム機やパソコンに使用されたCPUは4ビットまたは8ビットで、複雑化してきたアーケードゲームには画像処理機能が不足していた。そのためアーケードゲーム基板では、表示装置に特別仕様の画像処理回路を追加するようになっていた(代表的なものがスプライト機能とハードウエアスクロール機能である)。これらの処理回路は高価でありサイズも大きかったのでテレビゲーム機に搭載することが困難であり、アーケードゲームのテレビゲームに対する優位性として働いた。
1970年代後半には携帯型ゲーム機も人気となった。1979年には既にカートリッジ交換型携帯型ゲーム機が登場していたが、当時は技術的な制約から他の形態と比べて十分な製品を作れずにいた。かわりに主流となっていたものが電子ゲームと呼ばれるものであった。電子ゲームとは電卓の技術を応用したもので、アーケードゲームやパソコンゲームとはまったく別系統に生まれたものである。表示装置としては特定の形状を表示する液晶や発光ダイオードが使われた。汎用のグラフィック表示機能を備えておらず、必然的に1ゲーム1ハードが基本であった。
第3世代(1980年代前半 - 1980年代中盤)では、エレクトロニクス技術の進歩によって、テレビゲーム機にも簡略化・低価格化を施されたスプライト機能とハードウエアスクロール機能が追加されていった。任天堂のファミリーコンピュータは、サードパーティーによるソフトウェアの製造をライセンス(ゲーム機メーカがサードパーティーにゲームソフトウエア開発・販売を許諾する)形式にし、ゲームソフトメーカからのライセンス収入を見込むことでゲーム機のハードウェア自体を低価格で販売することができ、それによりゲーム機所有者数が増えることでゲームソフトメーカも恩恵を得ることができた。
1980年代後半には、パソコンの性能向上速度が加速し最新機種が入れ替えられていったために、ゲームに対するパソコンのプラットフォーム性が失われた一方、相対的に機種変更頻度が少ないゲーム機はそのプラットフォーム性が高まった。パソコンやゲーム機などで、単一の機種が長期的に基本性能が変わらないまま販売され続ける(商品寿命が長い)と、その機種はひとつのプラットフォームとして認識され、その機種で他機種用のゲームを遊べるよう多くのソフトウェアが製作された(いわゆる移植)。「プラットフォームハードウェアと多数のソフトウェア」という手法は、ハードウェアの進歩や新しいプログラミング手法の導入[9]を阻害するものではあったが、ゲームソフトという特定の先鋭分野における競争と技術開発を促進することでゲームソフト業界を急速に発展させる一因にもなった。
第4世代(1980年代後半 - 1990年代前半)ではさらにゲームソフトの技術力や表現力が向上し、より高性能のハードウェアが求められるようになり、ゲーム機専用のプロセッサ類が設計されるようになった。それまでのゲーム機は、パソコン用チップや汎用製品を流用したものが多かったが、この時代になるとゲーム機はゲーム用途としてはパソコンをはるかに凌ぐ性能を持つとのイメージが確立された。また、他のハードウエア形態と遜色がない十分な性能をもつ CPU とグラフィック表示装置を備えるカートリッジ交換型の「携帯型ゲーム機」がこの頃に発売され、人気を得るようになった。
このような歴史を経て、1985年頃にはゲーム機という物のイメージが確立された。
据置機
第1世代(1970年代)
1972年に史上初の家庭用ゲーム機とされるオデッセイがリリースされた。オデッセイはCPUではなく、アナログ回路で電子ゲーム機能を実現していた。オデッセイを参考にして製作したビデオゲーム『ポン』をアーケードで大ヒットさせたアタリ社が、テレビに接続するだけで家庭でもポンが楽しめる玩具を1975年にリリースし、大ヒットとなった。これによって家庭用ゲーム機という存在が広く知られ、「ポンクローン」と呼ばれるポンのコピーゲーム・亜流ゲームが、大手から中小までおびただしい数の玩具メーカーからリリースされた。その中には任天堂の姿もあった。アタリが1976年に発売した『ブレイクアウト』(ブロック崩し)なども多くのクローン機が出回った。これらのゲーム機が最初期に現れたゲーム機、すなわちゲーム第1世代と呼ばれる。この時代はソフトがハードに組み込まれていて、後からソフトを買い足すことはできなかったが、スイッチで複数のゲームを切り替えることができるもの、切り替えカードを追加購入することでオプションのゲームをプレイできるものもあった。
ポンクローン
ブレイクアウトクローン
第2世代(1970年代後半 - 1980年代前半)
1976年、フェアチャイルド社がチャンネルFを発売した。チャンネルFはROMカートリッジを差し込むことで様々な種類のゲームを楽しむことができる最初の家庭用ゲーム機であった[10]。マグナボックスも1978年に同様のシステムを採用したゲーム機Odyssey²を発売した。アタリも1977年にAtari 2600(VCS)を発売した。『スペースインベーダー』などの人気アーケードゲームのコンシューマ移植をキラータイトルとし、1980年頃にはアメリカにおいて爆発的な人気を博した。さらに、1979年にアタリからアクティビジョンが独立してゲーム史上初のサードパーティーとなって以後、続々と誕生するサードパーティーのソフトを積極的に受け入れるビジネスモデルを確立した。北米では他にインテレビジョンやコレコビジョンも人気となり、欧州ではドイツのインタートン社によるVC 4000なども人気を博した。しかし1982年のクリスマス商戦で決定的な市場崩壊(いわゆるアタリショック)を起こした[8]。Atari 2600のみならずアメリカのゲーム機市場(パソコンゲーム市場は含まない)そのものが一時壊滅状態に追い込まれた。日本や南米などの地域におけるゲーム機の本格的な普及は、次のファミコン時代以後になる。
- チャンネルF(フェアチャイルドセミコンダクター、1976年)
- Atari 2600(アタリ、1977年)
- ビデオカセッティ・ロック(タカトク、1977年)
- Odyssey²(マグナボックス、1978年)
- VC 4000(インタートン、1978年)
- インテレビジョン(マテル、1979年)
- カセットビジョン(エポック社、1981年)
- Atari 5200(アタリ、1982年)
- コレコビジョン(コレコ、1982年)
- Vectrex(GCE、1982年)
第3世代(1980年代前半 - 1980年代中盤)
アタリショック後、北米と欧州ではゲーム機能に加えてプログラミング機能をそなえたゲームパソコンが勢力を増し、多くのゲームメーカーがゲームリリースを家庭用機からパソコン主力に移した。ゲームパソコンとして北米ではコモドール64が、欧州ではZX Spectrumが成功を収めた。日本でも同様の機種(ぴゅう太、M5、SC-3000、MSXなど)が登場したが、最終的にはゲーム機能に特化し、第1・第2世代より優れたゲーム性能を実現した機種が成功を収めた。特にファミリーコンピュータ(以下ファミコン)は日本における家庭用ゲーム機の本格的普及を担った。1985年にはアメリカで海外版ファミコンであるNintendo Entertainment System(NES)が発売され大成功を収めた。RPGや対戦型格闘ゲーム、2Dアクションゲームなどの今日に繋がるゲームシステムの原型もこの時期に出来上がった。これまではAtari 2600に由来するAtari仕様と呼ばれるジョイスティック型のコントローラーが一般的であったが、ファミコンのパッド型コントローラー(ゲームパッド)はコンパクトだが汎用性に優れ、以後のほとんど全てのゲーム機における入力装置の基礎となった。
- アルカディア(バンダイ、1983年)
- ファミリーコンピュータ、Nintendo Entertainment System、ファミリーコンピュータ ディスクシステム(任天堂、1983年,1985年,1986年)
- SG-1000、SG-1000II(セガ、1983年,1984年)
- PV-1000(カシオ、1983年)
- Atari 7800(アタリ、1984年)
- スーパーカセットビジョン(エポック社、1984年)
- セガ・マークIII(正式名称:SG-1000III)、セガ・マスターシステム(正式名称:SG-1000IV)(セガ、1985年,1987年)
- マックスマシーン(コモドール、1982年)
- コモドール64(コモドール、1982年)
- ZX Spectrum(シンクレア、1982年)
- ぴゅう太(トミー、1982年)
- M5(ソード、1982年)
- SC-3000(セガ、1983年)
- RX-78(バンダイ、1983年)
- PV-2000 楽がき(カシオ、1983年)
- MSX(MSX参入各社、1983年)
第4世代(1980年代後半 - 1990年代前半)
従来機種より高度なスプライト機能を搭載し、2Dグラフィックスの表現力が格段にアップした。ステレオサウンドが標準になり、表現も工夫された。ゲームの複雑化・高度化も進み、対応するコントローラーも多ボタン化が進んだ。他方、複雑で表現力豊かなゲームをROMカートリッジに詰め込むのには、容量不足による限界が見え始めてきた。ゲームソフトの大容量化によりコストも高騰し、9,800円以上のソフトが続出した。このような情勢から、従来のROMカートリッジに代わりCD-ROMを媒体に利用する機種が現れた。対応タイトルは、大容量を活かしたものとなっており、後の光ディスクによるソフト供給の基礎となったが、大容量でのゲーム開発がいまだ洗練されていないこともあって、この世代ではそれほど成功しなかった。
主なハードは、PCエンジン・メガドライブ・スーパーファミコンの3機種である。スーパーファミコンは他の2種よりも大幅に発売が遅れたが、日本ではファミリーコンピュータからの圧倒的シェアを受け継いで移行することに成功した。北米市場では任天堂のSNES(海外版スーパーファミコン)とセガのGENESIS(同メガドライブ)が市場競争を展開し、GENESISがシェア55%の2000万台を売り上げ一定の成功を収めた[11]。
アーケード市場において対戦型格闘ゲームなどで絶大な人気を得ていたSNKが、アーケードのシステムをそのまま家庭用機に流用したNEOGEOでゲーム機市場に参入した。家庭用ゲーム機の高性能化によりアーケードゲームやパソコンゲームとの性能差は縮まった。海外市場ではホビーパソコンのAtari STとAmigaがリリースされ、ゲームパソコンとして拮抗した人気を得た。日本でもX68000やFM TOWNSなどのホビーパソコンが発売されたが、据置機とソフトに恵まれた日本ではパソコンゲームは家庭用ゲーム機で扱えないアダルトゲームを除いて衰退した。第4世代ゲーム機はドット絵とスプライトによる2Dゲームの成熟・完成期にあたる。第7世代機ではネットワークサービスを利用して、当時のゲームや「ドット絵を利用した、当時のハードウェア環境そのままでの新作」が配信された。
- PCエンジン、CD-ROM2、SUPER CD-ROM2(NECホームエレクトロニクス、1987年,1988年,1991年)
- メガドライブ、メガCD(セガ、1988年,1991年)
- PCエンジンスーパーグラフィックス(NECホームエレクトロニクス、1989年)
- PCエンジンコアグラフィックス、PCエンジンコアグラフィックスⅡ(NECホームエレクトロニクス、1989年,1991年)
- スーパーファミコン(任天堂、1990年)
- ネオジオ(SNK、1990年)
第5世代(1990年代中盤 - 1990年代後半)
ROMカセットに代わって光ディスクがコンテンツ販売パッケージの主力となった。光ディスクは読み込みに時間がかかるという難点があるものの、データ容量が大きくさらに生産性が高いので、安価にゲーム媒体を量産可能になった。これに伴いゲームの規模は拡大し、副次的にも音質の向上やムービー再生による演出が広がるなどのメリットがあった。本格的な3Dグラフィックス機能が搭載されたゲーム機が現れ、ゲーム内での映像表現の幅が劇的に広がった。振動機能やアナログスティックを備えたコントローラも登場した。ドット絵とポリゴンでは製作ノウハウが違い、中小の新しいソフトハウスも台頭した。
この世代から第6世代にかけて、コンソール・ウォー(ゲーム機戦争)と呼ばれるハードウェア同士の性能競争が最高潮に達し、各社とも自社製ゲーム機の高性能ぶりを盛んにアピールした。主要な機種はPlayStation、セガサターンの2機種である。この世代でゲーム機市場に新規に参入したSCEのPlayStationは、安価で開発のしやすいシステムと、サードパーティーの高い支持による充実したソフト群を背景に首位に立った。任天堂が発売したNINTENDO64は、64ビットの高性能をその名でアピールする象徴的な存在を目指したが、旧来的なROMカセットを使用したこともありソフト価格は高めであり、発売が大きく出遅れた上、PlayStationやセガサターンとの価格的競争力が低く、北米では成功したが主流となることはなかった。
北米最大のコンシューマゲーム会社であるエレクトロニック・アーツの創設者が、3DO社を設立してゲーム機市場に参入した。ゲーム機やゲームパソコンのメーカーとして黎明期から長らくゲーム業界を支えたアタリがこの世代でハード事業から撤退、コモドールが倒産した。それによって、ゲーム用途で使われるパソコンとしてはPC/AT互換機がほとんどとなった。Windows 95の登場後もしばらくゲーム用途ではMS-DOSが主流であったが、DirectXの登場以後は次第にゲーム用途としてもWindowsがメイン環境となった。マイクロソフトはパソコン用ゲームの開発スタジオを多数抱える大手ゲームメーカーとなり、続く第6世代でついにコンシューマ機に参入した。
- Atari Jaguar、Atari Jaguar CD(アタリ、1993年)
- Amiga CD32(コモドール、1993年)
- FM TOWNS マーティー(富士通、1993年)
- レーザーアクティブ(パイオニア、1993年)
- 3DO(3DO、1994年)
- ネオジオCD(SNK、1994年)
- プレイディア(バンダイ・デジタル・エンタテイメント、1994年)
- セガサターン(セガ、1994年)
- スーパー32X(セガ、1994年)
- PlayStation(ソニー・コンピュータエンタテインメント、1994年)
- PC-FX(NECホームエレクトロニクス、1994年)
- バーチャルボーイ(任天堂、1995年)
- ルーピー(カシオ、1995年)
- ピピンアットマーク(バンダイ・デジタル・エンタテイメント、1996年)
- NINTENDO64、64DD(任天堂、1996年 - 1999年)
第6世代(1990年代末 - 2000年代初頭)
3Dグラフィックスの表現力が格段に上がり、インターネットとの通信や5.1chサウンドにも限定的に対応し始めた。メディアはDVD、もしくはDVDの技術を応用した独自規格のディスクが主流となった。この世代を最後にセガはハード販売から撤退し、入れ替わる形でマイクロソフトのXboxが参入した。Xboxは日本国外市場において成功を収めてPlayStation 2(PS2)に次ぐシェアを獲得したが、日本では非常に不振であった。NINTENDO64の後継機のニンテンドーゲームキューブ(GC)は日本で一定の支持を得たが、日本国外では前ハードほど振るわなかった。
大手メーカーではゲームの大作主義・シリーズ物重視がより一層進み開発費の高騰が進んだ。大手メーカーやサードパーティーの統廃合も進行し、据置きゲーム市場は厳しい転換期を迎えた。開発費の高騰に対しては、開発者側では従来から行われてきた開発ライブラリの整備だけでなく、ゲームエンジンを利用した開発などの対策がとられた。ハードウェア面ではGCのようにボトルネックを排除し扱いやすさを意識した設計を採用したり、ドリームキャストとXboxのようにWindowsをOSに採用しパソコンとほぼ同様の開発手法が使えることをアピールするゲーム機が現れた。
第3世代より長らくゲーム開発をリードして来た日本のゲーム市場は頭打ちとなった。業界全体でゲームの売上げは伸び悩み、ゲーム離れと言われるようになった。PS2においては当時としては高価だったDVDプレーヤーとしての機能もあり、ハードは売れるのにソフトが売れないという現象を引き起こした。欧米ゲーム市場は逆に大きな拡大を見せ、このことは第7代目になると更に顕著なものとなった。欧米ではパソコンや複数のゲーム機にタイトルを供給するマルチプラットフォーム作品が増加し当たり前になってきた。
パソコンにおけるブロードバンドの普及期に当たり、ネット対応が不十分な家庭用ゲーム機に先行して、パソコン用のオンラインゲームが充実した。中国や韓国などアジアの新興国においても自国製ゲームの普及が見られ始めるが、据置型ゲームは多大な開発コストなどの参入障壁が大きかったことや、アジア諸国における海賊版の横行のためコンテンツ販売では利益を得にくかったなどの理由から課金制のパソコンオンラインゲームが開発の主流となっていき、これらの国の作品が海外に輸出されるのも多く見られ始めた。また同時に、それへのゲーム依存症といえるほど傾倒するゲーマーも現れた。
- ドリームキャスト(セガ、1998年)
- PlayStation 2(ソニー・コンピュータエンタテインメント、2000年)
- ニンテンドーゲームキューブ(任天堂、2001年)
- Xbox(マイクロソフト、2001年)
第7世代(2000年代中盤 - 2000年代末)
主要な機種は、Xbox 360・PlayStation 3(PS3)・Wiiの3機種である。WiiはWiiリモコンという体感型のコントローラを搭載し、ハイデフィニション(HD)に対応したPS3とXbox 360もPlayStation MoveやKinectを発売した。Kinectは発売4ヶ月で1000万台を超えギネス世界記録に認定された[12]。いずれの機種もかつてのハードで発売されたソフトの公式エミュレータを用意し、ネットワークサービスやコンテンツのダウンロード販売も行われるようになった。ビデオ・オン・デマンドなど海外ではXbox 360がスマートテレビのデファクトともいわれた[13]。
ソフトメーカーにとってはシェアの先行き不透明な状況が続き、前世代以上にマルチプラットフォームが増加した。Xbox 360とPS3は売れ行きは鈍く、人気ゲームの続編・リメイク・HD対応版の発売が多くなった。Wiiは今までのゲーム機の常識を変え体感型として出したため、新しくて面白さが分かりやすく普及に時間がかからなかったが、サードパーティーによるソフトのマルチプラットフォームリリースの対象から外れる事が多かった上、後年はWii専用タイトルの数も大きく減少した。結果的にXbox 360やPS3のラインナップが充実していく中、逆にWiiは新作ソフトが不足するようになり、後継機であるWii Uの登場を前にしてソフトがほとんど発売されないという状況に陥った[14]。
日本の新世代株式会社が2005年にWiiより早く体感型インターフェイスの採用・発売したXaviX PORTはゲーム機ではなくエレクトロニック・スポーツ・フィットネス機器あるいは体感型玩具としての戦略を取ったが、システムとしては紛れもなくカセット交換型のゲーム機であり、ゲーム機向けのフィットネス系ゲームである『Wii Fit』と特に競合する。
南米やアジアなどの新興国ではネットワーク対応や体感型などを盛り込みながらも安価で低性能なゲーム機が盛んにリリースされており、ブラジルで長らくセガの代理店として活動していたTectoy社が2009年に独自にリリースしたドリームキャストの後継機Zeeboや、中国におけるセガの代理店であるAtGamesがリリースしたZONEおよびそのバリエーションであるSEGA Reactorが代表的な製品である。先進国ではハードから撤退したセガは新興国ではTectoyやAtGamesなどを介してハード事業を継続しており、Tectoyからはメガドライブのモデルチェンジ版であるメガドライブ4も2009年発売された。
- XaviX PORT(新世代株式会社、2005年)
- Xbox 360(マイクロソフト、2005年)
- PlayStation 3(ソニー・コンピュータエンタテインメント、2006年)
- Wii、Wii Family Edition、Wii mini(任天堂、2006年,2011年,2012年)
- Zeebo(Tectoy&Qualcomm、2009年4月)
- Tectoy Mega Drive 4(Tectoy、2009年8月)
- ZONE、SEGA Reactor(AtGames&セガ、2010年)
第8世代(2010年代)
主要三大メーカーの次世代機はWii U・PlayStation 4(PS4)・Xbox Oneである。発売時期はWii Uが2012年11月、PS4とXbox Oneが2013年11月で、共に北米地域のホリデーシーズンに合わせて発売された。3機種全てで北米地域での発売が優先され、特にPS4とXbox Oneでは世界の主要ゲーム市場である日本・北米・欧州の中で日本での発売が最も後回しにされることとなり、日本のゲーム市場の存在感の低下を表すことになった[15][16]。
2012年にはスマートフォンやタブレットの普及によりコモディティ化した高度なモバイルハードウェア・ソフトウェア技術がゲーム機に転用され始め、クラウドファンディングの流行を背景にOUYAやGameStickなど新興企業の手によるAndroidゲーム機の企画・開発が相次いだ[17]。ゲーム開発自由な「オープンプラットフォーム」(インディーズ)[18]およびメディア在庫を持たない「デジタルディストリビューション」といった特徴は共通している。バーチャルリアリティ(VR)関連も話題を集め、ヘッドマウントディスプレイのOculus Riftや、トレッドミルのVirtuix Omniも登場した[19]。VRについてはSCEも発表している[20]。
2012年にSCEに買収されたGaikai/PlayStation Now、Windows AzureによるXbox Live、OUYA等との提携が報じられたOnLive、スクウェア・エニックスのProject FLARE[21]、Amazon.comのAmazon AppStream[22]、そしてSteam Box計画にも含まれる各クラウドゲームのサービス・プラットフォームが台頭した。ブロードメディアのG-clusterがシンクライアントとして初登場し、セットトップボックス(STB)であるNTTぷららのひかりTVにも使用された。国産タイトルの有償配信としてはUbitusのGameNow/G CLOUDが日本初であり[23]、データホテルのCLOUD GAMING PLATFORM[24]、NTTドコモのdゲーム、KDDIのSTBにも使用された。STBについては、Apple TV・Android TV/Chromecast・Roku・Amazon Fire TVでもゲームをサポートしている。
2013年にはValve CorporationがSteamOS/Steam Machine/Steam Controllerを発表した。Steam Machineは予てより構想が伝えられていたSteam Box、すなわち同社のPCゲームプラットフォームSteamのコンシューマ市場展開を担う家庭用ゲーム機・専用ゲーミングPCの規格である。LinuxベースのOSであり、WindowsやMac OS用のストリーミングプレイも有し、ハードウェアの仕様もオープンとなる。
- Wii U(任天堂、2012年)
- PlayStation 4(ソニー・コンピュータエンタテインメント、2013年)
- Xbox One(マイクロソフト、2013年)
クラウドゲーム機
Android搭載
- OUYA(OUYA, inc.、2013年)
- GameStick(PlayJam Inc.、2013年)
- GamePop(BlueStacks、2013年)
- M.O.J.O(Mad Catz、2013年)
- Vyper(Snake Byte、2014年)
- HUAWEI Tron mini game console(華為技術、2014年)
Steam Box
- Piston(Xi3、2013年) - 非公認Steam Box
携帯機
第1世代(1970年代)はまだ携帯型ゲーム機は存在していない。
第2世代(1970年代後半 - 1980年代前半)
ゲーム機が第2世代となり、据置型ゲーム機がブームとなっていた1979年、アメリカの大手玩具メーカーであるミルトン・ブラッドリー社から史上初のカートリッジ交換式携帯型ゲーム機Microvisionがリリースされた。MicrovisionはCPUがカートリッジ側についているなど、後のゲーム機とはずいぶん異なっていた。LCD画面が壊れやすいなど技術的な制約のため、商業的にほとんど成功せずに終わった。ROMカートリッジをハードに差し込む形式ではなく、1ハードにつき1ゲームという形式の電子ゲームが登場した。当時の電子ゲームはモノクロLCDすら搭載できず、LED表示によるものが主だったが、マテルが1976年に世界初の携帯型電子ゲーム機となるMattel Auto Raceをリリースして以降、各社から続々とLEDゲームが発売され、大きなブームとなった。
電子ゲーム
- Mattel Auto Race(マテル、1976年)
- Mattel Football(マテル、1977年)
第3世代(1980年代前半 - 1980年代中盤)
1980年代に入るとLCDが安価となり、LCDを搭載した電子ゲームがブームとなった。代表的な製品が、任天堂が1980年に発売したゲーム&ウオッチシリーズであり、モノクロでシンプルなゲームが多数を占めたが、非常に普及した。ゲーム&ウオッチの一部機種では、後に据置機の主力インターフェイスへと発展する十字キーも先行して採用された。任天堂、バンダイ、トミー、タイガー・エレクトロニクスと言った大手玩具メーカーの他にも多数のメーカーがさまざまな電子ゲームをリリースし、アーケードの移植も盛んであった。1982年、本体に太陽電池を採用し、電池が不要な初のゲーム機であるLCD SOLARPOWERシリーズをバンダイが発売した。1983年、2つのディスプレイを搭載し、3D表示を可能とした初の携帯型ゲーム機であるTomytronic 3D(トミー3D立体グラフィックゲーム)シリーズをトミーが発売した。1984年にはエポック社から、日本初のROMカートリッジ交換型の携帯型ゲーム機であるゲームポケコンが発売されたが、商業的にはまたしても失敗に終わった。
電子ゲーム
第4世代(1980年代後半 - 1990年代前半)
ROMカートリッジ交換型の携帯型ゲーム機が実用的なスペックを獲得し、多彩なゲームが楽しめるようになった最初の世代である。Atari Lynx、ゲームギアのスペックは第3世代の据置ハードとほぼ同等であり、PCエンジンGTは据置機第4世代のPCエンジンと互換性があった。モノクロ液晶を採用したゲームボーイは、当時としては卓越した性能と画質を持つ他機種に大きく劣っていたが、当時の液晶技術は未熟で消費電力も大きく、カラー液晶機種はさらに高価でバッテリー(単三乾電池)消費も激しかったなかで、コンパクトで長時間駆動できるゲームボーイは携帯型ゲーム機で最も人気を集めた。ゲームギアは日本では商業的に苦戦したが、北米ではゲームボーイに対して善戦した。実用的な携帯型ゲーム機の登場によって電子ゲームのブームはこの世代で終了したが、電子ゲームは販売されつづけて一定の市場を維持しており、時にたまごっち(バンダイ・1997年)のような大ヒットとなるものもあった。
第5世代(1990年代中盤 - 1990年代後半)
スペックは据置ハードの第3世代と同等か、やや上回る程度であり、第4世代から大きく向上してはいないが、携帯性に優れた薄く小さいボディを実現した。液晶技術の発達により、カラー液晶を採用した機種でも、長時間の運用に耐えられるようになった。赤外線通信機能などを搭載し、通信機能を生かしたゲームが流行した。ビジュアルメモリとPocketStationは、据置機の外部記憶媒体(メモリーカード)にゲーム機能を付加するものだったが、普及には至らず、後世代機においては採用されなかった。メガドライブと互換性のあるセガ・ノーマッドや、この時代にあえてモノクロで挑んだワンダースワンなどの意欲的な機種が出たものの、この世代ではカラー化を果たした任天堂のゲームボーイシリーズが一人勝ち状態であった。
- ノーマッド(セガ、1995年)
- ゲームボーイポケット、ゲームボーイライト、ゲームボーイカラー(任天堂、1996年,1998年)
- game.com(タイガー・エレクトロニクス、1997年)
- ネオジオポケット、ネオジオポケットカラー(SNK、1998年,1999年)
- ワンダースワン、ワンダースワンカラー、スワンクリスタル(バンダイ、1999年,2000年,2002年)
- ポケモンミニ(ポケモン、2001年)
据置機の外部記憶媒体
- ビジュアルメモリ(セガ、1998年)
- PocketStation(ソニー・コンピュータエンタテインメント、1999年)
第6世代(1990年代末 - 2000年代初頭)
反射型TFT液晶や反射型FSTN液晶を採用したカラー液晶のゲーム機が主流となった。スペック的には据え置きハードの第4世代を上回る程度の機能を搭載し、携帯型ゲーム機における表現の幅が飛躍的に拡大した。前世代と同様に任天堂以外の機種は振るわない結果となり、携帯型ゲーム機において任天堂の独占状態が確立した。この頃から携帯電話の普及率が激増したため、それを使った携帯電話ゲームが登場し始めた。N-GageのようにPDAや携帯電話機能を搭載したゲーム機も出始めた。N-GageはS60を搭載し、2008年にはアプリケーション・プラットフォーム化した。
- ゲームボーイアドバンス、ゲームボーイアドバンスSP、ゲームボーイミクロ(任天堂、2001年,2003年,2005年)
- GP32(GamePark、2001年)
- N-Gage、N-Gage QD(ノキア、2003年,2004年)
- Zodiac(Tapwave、2003年)
第7世代(2000年代中盤 - 2000年代末)
2004年に発売されたニンテンドーDS(DS)とPlayStation Portable(PSP)によって二分された。前世代までの乾電池に代わりエネルギー密度が高いリチウムイオン電池を採用し、明るいバックライト付き液晶となった。据置機同様にグラフィックの3D化が進み、デジタルメディアプレーヤー機能やネットワークを介したデータのダウンロード(ダウンロード販売)やオンラインプレイが可能となった。DSはブルー・オーシャン戦略でライト層もターゲットに据え、PSPはコア層を主なターゲットに据えた。DSはネットへのハードルを下げたニンテンドーWi-Fiコネクション[25]や、タッチパネルの採用は携帯型ゲーム機としては史上初であり、特徴的な2画面による『Touch! Generations』のヒットによってユーザー層が広がり、DSが教育にも取り入れられた(シリアスゲーム/ゲーミフィケーション)。WindowsやLinuxといったPC用OSを実行するソフトも開発された。PSPは「21世紀のウォークマン」を目指し、大型液晶画面と光学ドライブ、高性能マイクロプロセッサを搭載し、PlayStation 2に迫るゲーム表現を実現した。PSPは日本市場においては『モンスターハンター ポータブル』シリーズに恵まれたこともあり、任天堂のハードが一人勝ち状態であった前世代までとは違い善戦した。
- ニンテンドーDS、ニンテンドーDS Lite、ニンテンドーDSi、ニンテンドーDSi LL(任天堂、2004年,2006年,2008年,2009年)
- PlayStation Portable、PlayStation Portable go(ソニー・コンピュータエンタテインメント、2004年,2009年)
- GP2X、GP2X Caanoo(GamePark、2005年,2010年)
- Dingoo A320(Dingoo、2009年)
- Pandora(OpenPandora、2010年)
第8世代(2010年代)
任天堂はニンテンドー3DS(3DS)を、SCEはPlayStation Vita(PS Vita)を2011年に発売した。カメラによるAR(拡張現実)やコミュニケーション・ソーシャルを意識した機能が多数盛り込まれた。ニンテンドー2DS(海外のみ)やPlayStation Vita TVも登場した。2013年にはGPUメーカーとして知られるNVIDIAがTegra/Android搭載のSHIELDを発売した。新参Androidゲーム機はこの年のトレンドといえるが、同機はPCをサーバとするゲームストリーミングクライアントでもあり、新たなストリーミングサーバ技術とともに発表され注目を集めた。このことはクラウド市場への期待の高さと同時に、外部出力も相まって、Wii U同様に据置機/携帯機の区別の曖昧化を示すものでもある。
スマートフォン/タブレットといったスマートデバイス用のモバイルオペレーティングシステムにゲームを意識した機能が盛り込まれた[26]。2008年にAppleのiPhone OS(現・iOS)のSDKが公開されて以降、iPod touch/iPhone/iPadといったiOS用のApp Store[27]や、GoogleのAndroid用のGoogle Play、SCEのPlayStation Mobileが提供された。これまで家庭用ゲーム機向けに展開されてきたシリーズがスマートデバイス向けに提供されたり、逆に進出するケースや連携も図られた。
- ニンテンドー3DS、ニンテンドー3DS LL、ニンテンドー2DS(任天堂、2011年,2012年,2013年)
- PlayStation Vita、PlayStation Vita TV(ソニー・コンピュータエンタテインメント、2011年,2013年)
- NEOGEO X(SNKプレイモア、2012年)
Android搭載
- SO-01D(ソニー、2011年)
- Archos GamePad(Archos、2012年)
- Wikipad(Wikipad、2013年)
- SHIELD(NVIDIA、2013年)
- Tek 807D/SUPERGAMER俺(Tekniser/スペックコンピュータ、2013年)
- UNU Gaming Tablet(Snake Byte、2013年)
- 摩奇MUCH/紐曼Newsmy/IPEGA/iben Sunwaytek/金星JXD/英利普Yinlips/GPD/等(中国)
立体視対応のゲーム機
1980年代にトミーから立体視対応のゲームが発売された(『宇宙壮絶戦車戦』、『ジョーズ』、『スペースレーザーウォー』、『ジャングルファイター』、『コスモ・ル・マン』、『ドッグファイト』、『シャーマンアタック』の7タイトルが確認されている)[28][29][30][31][32]。
任天堂からは1987年にファミコン3Dシステムが発売、セガからはアメリカ市場においてセガ・マスターシステムでSegaScope 3-D Glassesと『ザクソン3D』や『スペースハリアー3D』など複数の対応ソフトが発売された。1994年にはアタリから『ミサイルコマンド3D』と『Wolfenstein3D』のわずか2タイトルだったが、Jaguar VR ヘッドセットが発売された[33][34][35]。
1995年7月には任天堂からスタンドタイプのバーチャルボーイが発売されるものの、販売台数は振るわなかった。その後はしばらく立体視対応のゲーム機は発売されていなかったが、2011年2月、任天堂から新たに裸眼立体視対応の携帯型ゲーム機であるニンテンドー3DSが発売された。
ゲーム機戦争を扱った作品
『Console Wars』とは、1990年代のセガ・オブ・アメリカのCEOを務めたトム・カリスンスキを中心に任天堂との競争を描くブレイク・ハリスによる著書。スコット・ルーディン、セス・ローゲン、エヴァン・ゴールドバーグ、ソニー・ピクチャーズによる映画化も発表された。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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- ↑ 8.0 8.1 テンプレート:Citation
- ↑ これらのゲーム機のソフトはほとんどがアセンブリ言語で記述されていたが、世の中のプログラミングはC言語などに移行しつつあった。
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- ↑ Video Business誌の1995年1月号の記事「Game makers dispute who is market leader.」より
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- ↑ 「WiiU」不振・PS4は来年発売…“寒〜い”ゲーム年末商戦(産経新聞 2013年10月27日)
- ↑ Xbox Oneは2013年中には出ない? 日本マイクロソフトのゲームビジネスはどうなる? 日本マイクロソフトのキーパーソン3名に直球で聞いてきた(4Gamer.net 2013年7月2日)
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- ↑ http://www.gpara.com/news/05/10/news200510059886.htm
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- ↑ 3D立体グラフィックゲーム
- ↑ トミー3D立体グラフィックゲーム シャーマンアタック
- ↑ 3D立体グラフィックゲーム・宇宙壮絶戦車戦
- ↑ 週間電子ゲームレビュースペースレーザーウォー
- ↑ 週間電子ゲームレビュー宇宙壮絶戦車戦
- ↑ Jaguar VR
- ↑ ATARI JAGUAR VR HEADSET
- ↑ AGH Jaguar Review: MISSILE COMMAND 3-D