竹村健一

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テンプレート:Infobox journalist 竹村 健一たけむら けんいち1930年昭和5年)4月7日 - )は、日本のジャーナリスト、政治評論家[1]

来歴

大阪府大阪市東成区(現在の生野区)生まれ。旧制大阪府立生野中学校の1年生の時に、父の実家のある和田山町(現在の朝来市)に引っ越す。旧制兵庫県立生野中学校に転校。卒業後、旧制姫路高等学校文科甲類(現在の神戸大学文学部)に入学するが、学制改革により翌年新制京都大学に編入。アメリカ・フルブライト財団主催のフルブライト奨学金制度の第1号として、アメリカのシラキューズ大学に留学。

京都大学文学部英文学科を卒業後、毎日新聞社の英語新聞Mainichi Daily Newsの記者を経て、1963年山陽特殊製鋼へ入社し調査部長となる。しかし、1年後に山陽特殊製鋼を退社し[2]、以後は追手門学院大学英文科助教授、拓殖大学客員教授などを経て、マーシャル・マクルーハンのメディア論の紹介で注目されて文筆活動をはじめる。並行してテレビ・ラジオでも出演。

1980年頃、講演やテレビ番組などで「仕事ができない奴=資料を持ち過ぎの奴」との持論を展開し、自身は1冊の手帳に情報を集約して使っていることを紹介した。自らの監修によりオリジナルの手帳「これだけ手帳」を発刊し、その後30年にわたって発行され続けたが、2012年度版をもって発行を終了した。

1982年9月、同年夏に出した『もっと売れる商品を創りなさい』が月刊誌『アクロス』同年2月号の記事から盗用していることが発覚。記者会見で盗用の事実を認めて謝罪し、回収することになった。全文コピーが7ヶ所で87行、文意盗用が10ヶ所で67行というもの[3][4][5][6]

1985年より、ニューヨークマンハッタンのモット・ストリートとプリンス・ストリートの交差点付近にあるビルの壁面に、竹村の肖像壁画が描かれている[7][8]アデランスのCM撮影用に描かれたものであるが、絵を消すには1200万円の費用がかかることや、街路樹の位置の関係でビルの壁面が広告スペースとしては適さなかったため広告会社が手をつけなかったこと、ビルの所有者も気にいっていること、地元の人たちの評判も良いことなどの理由から、2012年現在もそのままになっている。

人物

論調は基本的に保守的・親米的で、ハイテク、情報産業を重視する傾向が強い。リゾートとリサーチの「二つのR」が日本の未来を決する、と繰り返し強調。原子力発電の旗振り役もしている。友人・知人にも保守派の論客が多く、日本共産党公明党とは主張が異なるものの、政党傾向や人物に偏らず、良いと思えるところは率直に評価する[9]

執筆スタイルは、口述筆記で喋ったことをテープに録音してそれを原稿起こししたり、新聞の切り抜き記事を編集者にリライトさせると言われており、1981年には36冊を出版するという量産ぶりで、1冊あたり最低3万部を売っていた[10]

広い見識を持ち、テレビなどでもたびたび『英国エコノミスト』、『フィナンシャル・タイムズ』など、日本の新聞では紹介されにくい海外紙面からの情報も幅広く紹介する。自身のブログでは、日本のマスメディアに出てこない重要なニュースや記事を定期的に発表していた。

ピアノ社交ダンステニスヨットを嗜んでおり趣味も多い。また、実業家として太陽企画出版・善光寺温泉ホテル(現在は廃業)を経営。2006年からは『AICJ中学校・高等学校』を運営する学校法人AICJ鴎州学園の理事長も務め、その母体である鴎州コーポレーションの取締役相談役も務めている。

パイプを銜えた独特な風貌、「大体やね」「ブッシュさんはね」(日本で、海外の政治家を「さん」付けで呼ぶことは稀)など、独特の口調や語の強調による特徴的かつ辛辣なトークによる評論を行うことで有名。このため物真似芸として、タモリが芸能活動初期の持ちネタとしており、「だいたいやねぇ」という口癖を使用した。また桑野信義がレパートリーとして加えており、物真似番組では竹村に扮する桑野と竹村本人が共演したことがある。しかめっ面ではあったものの、竹村本人は桑野の物真似にはご満悦だったらしく、本人もバラエティ色の強いCMやみずからのセリフをフィーチャーしたレコードを出すなど、ユーモアのある面も持っている。志村けんも竹村のものまねをしていた時期があった。

日本全国均一の航空運賃の発案者である。

フジテレビアナウンサーの冨田憲子に、番組内で「ドラえもんみたいですね」と言われたことがある。これはいろいろなことを幅広く知っているということを冨田流に喩えたのだが、竹村は「ドラえもんゆう漫画があるのは知っとるけどな」と素っ気ない受け答えをしていた。

交遊録

家族

竹村家の父祖は兵庫県朝来市生野町黒川の出身[11]

メディア出演

テレビ番組

ラジオ番組

CM

音楽作品

  • MOU CORI GORI DA(1981年発表)
    「愛のコリーダ」(クインシー・ジョーンズ)にあわせて『DA DA DA DA 大体やねぇ』『DE DE DE DE デリーシャスですよ』などと竹村の名言がミックスされた曲。CD「ウルティメイトベシャリストCLASSICS」に収録。
  • 竹村健一の手帖/ぼくなんかこれだけですよ。(1981年発表 SM28-5078)
    収録曲「BETTEDAVIS EYES」に、まだBOØWYでブレイクする以前の布袋寅泰編曲とギターで参加している。なおこれが布袋のプロ・ミュージシャンとしての初仕事である。

著書

下記以外にも、共著・訳書・監修などを含め、500冊以上の書物を出している。

単独著

  • 『世界珍行漫行』(祥伝社、1972年)
  • 『竹村健一の世相講談』(エフプロ出版、1977年7月)
  • 『竹村健一の逆発想&クイズ』(実業之日本社「実日新書」、1978年4月)

共著書

  • 堀江貴文)『世界一の金持ちになってみろ!-単純に考えればうまくいく』(太陽企画出版、2004年10月、ISBN 4-88466-409-4)
  • 日下公人渡部昇一)『日本の黄金時代が始まる-何を守り何を変えるのか』(太陽企画出版、2005年3月、ISBN 4-88466-413-2)

註記

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関連項目

外部リンク

  • 自著では職業の肩書きはないと語っており、名刺にも「竹村健一」とだけ表記している(『この人が忘れられない 私が出会った素晴しき一流人間37人』)
  • それから1年後に山陽特殊製鋼は倒産する。
  • 「竹村健一さん盗用 月刊誌から著書に転載」『中日新聞1982年9月4日
  • 「竹村健一センセイ『盗作事件』一部始終」『週刊現代』1982年9月25日
  • 「今週のことば ビジネス誌からの盗作で謝罪と回収 こうしたトラブルは初めて」『週刊文春』1982年9月16日
  • 「紳士と淑女 ビジネス雑誌の中身をそっくりいただいて本を書いていたことを謝った」『諸君!』1982年11月号
  • 「NYのマンハッタンで竹村健一の壁画を発見 アデランスCM撮影用の残骸」『噂の眞相』1991年9月号、p.9
  • [1]
  • 竹村健一『つき合い方人間学』青春出版社、p.221
  • 青木貞伸、井家上隆幸、植田康夫「座談会 テレビは出版を変えたのか!?」『』1982年8月9月合併号、pp.20-21.
  • 『人生のレールは一本ではない -悔いのない生き方をしよう-』三浦雄一郎・竹村健一 共著、2007年、太陽企画出版、27頁より「(竹村健一の)は、兵庫県生野という町からずいぶん奥に入った黒川村という寒村の生まれです。長男だったけど、戸数が10軒ほどしかないの暮らしに飽きたらず、次男に家督を譲り、自分から勘当されるようにして大阪に出てきた」