鎌倉七口
テンプレート:座標一覧 鎌倉七口(かまくらななくち)とは三方を山に囲まれた鎌倉への陸路の入口で、現在一般に言われるのは以下の7つである。
- 極楽寺坂切通し([[[:テンプレート:座標URL]]35_18_33.4_N_139_31_54.5_E_region:JP-14_type:pass&title=%E6%A5%B5%E6%A5%BD%E5%AF%BA%E5%9D%82%E5%88%87%E9%80%9A%E3%81%97 位置])
- 大仏切通し([[[:テンプレート:座標URL]]35_19_7.6_N_139_31_53.5_E_region:JP-14_type:pass&title=%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E5%88%87%E9%80%9A%E3%81%97 位置])
- 化粧坂([[[:テンプレート:座標URL]]35_19_33.4_N_139_32_41.4_E_region:JP-14_type:pass&title=%E5%8C%96%E7%B2%A7%E5%9D%82 位置])
- 亀ヶ谷坂([[[:テンプレート:座標URL]]35_19_49_N_139_33_0.6_E_region:JP-14_type:pass&title=%E4%BA%80%E3%83%B6%E8%B0%B7%E5%9D%82 位置])
- 巨福呂坂([[[:テンプレート:座標URL]]35_19_42.6_N_139_33_15.9_E_region:JP-14_type:pass&title=%E5%B7%A8%E7%A6%8F%E5%91%82%E5%9D%82 位置])
- 朝比奈切通し([[[:テンプレート:座標URL]]35_19_36.5_N_139_35_22.3_E_region:JP-14_type:pass&title=%E6%9C%9D%E6%AF%94%E5%A5%88%E5%88%87%E9%80%9A%E3%81%97 位置])
- 名越切通し([[[:テンプレート:座標URL]]35_18_26.3_N_139_33_53.4_E_region:JP-14_type:pass&title=%E5%90%8D%E8%B6%8A%E5%88%87%E9%80%9A%E3%81%97 位置])
鎌倉七口の史料上の初見は、江戸時代初期の1642年~1644年頃に書かれたと思われる『玉舟和尚鎌倉記』である。その後、1659年の『金兼藁』、1674年の水戸光圀『鎌倉日記』、また、水戸光圀が命じて編纂させた1685年の『新編鎌倉志』にも相次いで言及を見出すことが出来る。江戸時代末では、1829年の『鎌倉攬勝考』、1841年の『新編相模風土記稿』に同じような記述がある。
鎌倉時代には「七口」の呼び名は無く京都の「七口」をもじったもので「鎌倉十橋」「鎌倉十井」などと並ぶ、いわゆる名数である。
『玉舟和尚鎌倉記』では「大仏坂」「ケワイ坂」「亀ヶ井坂」「小袋坂」「極楽寺坂」「峠坂」「名越坂」とあり、『徳川光圀鎌倉日記』になってケワイ坂を「化粧坂」、亀ヶ井坂を「亀ヶ谷坂」、小袋坂を「巨福呂坂」、峠坂を「朝比奈切通」、大仏坂を「大仏切通」、極楽寺坂が「極楽寺切通」、名越坂が「名越切通」と出てくる。
鎌倉時代の公文書とも言える『吾妻鏡』にその名が見られるのは「ケワイ坂(気和飛坂)」「六浦道(朝比奈切通)」「名越坂」、そして「山内道路」として出てくるのが亀ヶ谷坂ないし巨福呂坂であり、あとは現在の七口には数えられない「小坪坂」(「小壷坂」とも)および「稲村路」である。「大仏坂」は鎌倉時代には全く記録が無く、極楽寺坂は極楽寺の寺伝に開山の忍性が開いたとある。
現状の鎌倉七口は、巨福呂坂が新道となり痕跡だけ残して消滅。極楽寺坂切通しも普通の車道となり、明治時代以前の趣を残しているのは大仏切通、朝比奈切通、名越切通の3か所と多少趣を残しているのが化粧坂と亀ヶ谷坂切通である。
平成8年(1996年)、文化庁選定「歴史の道百選」に、「鎌倉街道―七口切通」として選出された。