教育ニ関スル勅語
教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご)は、明治天皇が山縣有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に対し、教育に関して与えた勅語。以後の大日本帝国において、政府の教育方針を示す文書となった。一般的に教育勅語(きょういくちょくご)という。1890年(明治23年)10月30日に発布され、1948年(昭和23年)6月19日に国会の各議院による決議により廃止された。
概要
「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)は、1890年(明治23年)10月30日、宮中において、明治天皇が山縣有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に対して与えた勅語である。翌日付の官報[1]などで公表された。その趣旨は、明治維新以後の大日本帝国で、修身・道徳教育の根本規範と捉えられた。また、外地(植民地)で施行された朝鮮教育令(明治44年勅令第229号)、台湾教育令(大正8年勅令第1号)では、教育全般の規範ともされた。
さらに、紀元節(2月11日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(11月3日)および1月1日(元日、四方節)の四大節と呼ばれた祝祭日には、学校で儀式が行われ、全校生徒に向けて校長が教育勅語を厳粛に読み上げ、その写しは御真影(天皇・皇后の写真)とともに奉安殿に納められて、丁重に扱われた。
しかし、1945年(昭和20年)に第二次世界大戦の敗北によってGHQの占領下に入ると、1946年(昭和21年)には、「勅語及び詔書等の取扱いについて」(昭和21年10月8日文部事務次官通牒)と題する通達により、教育勅語を教育の根本規範とみなすことをやめ、国民学校令施行規則も改正して、四大節の儀式で教育勅語を読み上げることも廃止された(昭和21年10月9日文部省令第31号)[2]。
翌1947年(昭和22年)には教育基本法(旧教育基本法)が公布・施行されて教育の基本に据えられ、学校教育から教育勅語は排除された。さらに、1948年(昭和23年)6月19日には、衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」、参議院で「教育勅語等の失効確認に関する決議」が、それぞれ決議されて、教育勅語は学校教育から排除・失効されたことが確認された。
内容
テンプレート:複数の問題 教育勅語は、明治天皇が首相と文相にみずから与えた勅語であり、文中では「爾臣民」(なんじしんみん)、すなわち国民に語りかける形式をとる。
まず皇祖皇宗、つまり皇室の祖先が、日本の国家と日本国民の道徳を確立したと語り起こし、忠孝な民が団結してその道徳を実行してきたことが「国体の精華」であり、教育の起源なのであると規定する。続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの友愛、学問の大切さ、遵法精神、事あれば進んで国と天皇家を守るべきことなど、守るべき12の徳目(道徳)が列挙され、これを行うのが天皇の忠臣であるばかりか、国民の先祖の伝統であると述べる。これらの徳目を歴代天皇の遺した教えと位置づけ、国民とともに天皇自らこれを銘記して、ともに守りたいと誓って締めくくる。
これは、西洋の学術・制度が入る中、軽視されがちな道徳教育を重視したものである。もちろん、西洋文明にも宗教(キリスト教)を背景とした道徳教育は存在するが、それを直接日本人に適用するわけにもいかず、かといって伝統的に道徳観の基本として扱われてきた儒教や仏教を使うことも明治政府の理念からすれば不適切であった。このため、伝統的な道徳観を天皇を介する形でまとめたものが教育勅語とも言える。こうした道徳観は、伝統的な儒教とは異なるものであり、江戸時代の水戸学及び明の朱元璋の発表した六諭からの影響が指摘されている。
12の徳目
- 父母ニ孝ニ (親に孝養を尽くしましょう)
- 兄弟ニ友ニ (兄弟・姉妹は仲良くしましょう)
- 夫婦相和シ (夫婦は互いに分を守り仲睦まじくしましょう)
- 朋友相信シ (友だちはお互いに信じ合いましょう)
- 恭儉己レヲ持シ (自分の言動を慎みましょう)
- 博愛衆ニ及ホシ (広く全ての人に慈愛の手を差し伸べましょう)
- 學ヲ修メ業ヲ習ヒ (勉学に励み職業を身につけましょう)
- 以テ智能ヲ啓發シ (知識を養い才能を伸ばしましょう)
- 德器ヲ成就シ (人格の向上に努めましょう)
- 進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ (広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう)
- 常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ (法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう)
- 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ (国に危機があったなら自発的に国のため力を尽くし、それにより永遠の皇国を支えましょう)
発表の経緯
1890年(明治23年)10月30日に発表された教育勅語は、山縣内閣のもとで起草された。その直接の契機は、山縣有朋・内閣総理大臣の影響下にある地方長官会議が、同年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる。また、明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、榎本武揚・文部大臣に対して道徳教育の基本方針を立てるよう命じた。ところが、榎本はこれを推進しなかったため更迭され、後任の文部大臣として山県は腹心の芳川顕正を推薦した。これ対して、明治天皇は難色を示したが、山県が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得、了承させた。文部大臣に就任した芳川は、女子高等師範学校学長の中村正直に、道徳教育に関する勅語の原案を起草させた。
この中村原案について、山県が井上毅・内閣法制局長官に示して意見を求めたところ、井上は中村原案の宗教色・哲学色を理由に猛反対した。山県は、政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼した。井上は、中村原案を全く破棄し、「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提として、宗教色を排することを企図して原案を作成した。井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対したが、山県の教育勅語制定の意思が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。
一方、天皇側近の儒学者である元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、1879年(明治12年)には儒教色の色濃い教学聖旨を起草して、政府幹部に勅語の形で示していた[3]。元田は、新たに道徳教育に関する勅語を起草するに際しても、儒教に基づく独自の案を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調した。井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した。
1890年(明治23年)10月30日に発表された「教育ニ関スル勅語」は、国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉として扱われたため、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されなかった。井上毅は明治天皇が直接下賜する形式を主張したが容れられず、文部大臣を介して下賜する形がとられた。
発表後
教育勅語が発表された翌年の1891年(明治24年)には、第一高等中学校の嘱託教員であった内村鑑三による教育勅語拝礼拒否(内村鑑三不敬事件)をきっかけに、各校に配布された教育勅語の写しを丁重に取り扱うよう命じる旨の訓令が発せられた。また、同年に定められた小学校祝日大祭日儀式規定(明治24年文部省令第4号)や、1900年(明治33年)に定められた小学校令施行規則(明治33年文部省令第14号)などにより、祝祭日に学校で行われる儀式では教育勅語を奉読(朗読)することなどが定められた。これ以後、教育勅語は教育の第一目標とされるようになった。
1907年(明治40年)には、文部省が教育勅語を英語に翻訳し、そのほかの言語にも続々と翻訳した[4]。
その一方で、西園寺公望・文部大臣は、教育勅語が余りにも国家中心主義に偏り過ぎて「国際社会における日本国民の役割」などに触れていないという点などを危ぶみ、『第二教育勅語』を起草した(西園寺による草稿は現在立命館大学が所蔵)。もっとも、この構想は西園寺の文部大臣退任により実現しなかった。
治安維持法体制下の1930年代に入ると、教育勅語は国民教育の思想的基礎として神聖化された。教育勅語の写しは、ほとんどの学校で「御真影」(天皇皇后の写真)とともに奉安殿・奉安庫などと呼ばれる特別な場所に保管された。また、生徒に対しては教育勅語の全文を暗誦することも強く求められた。特に戦争激化の中にあって、1938年(昭和13年)に国家総動員法(昭和13年法律第55号)が制定・施行されると、その態勢を正当化するために利用された。そのため、教育勅語の本来の趣旨から乖離する形で軍国主義の教典として利用されるにいたった。
第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、教育勅語が神聖化されている点を特に問題視し、文部省は1946年(昭和21年)に奉読(朗読)と神聖的な取り扱いを行わないことを通達した。その後、1948年(昭和23年)6月19日に、衆議院では「教育勅語等排除に関する決議」が、参議院では「教育勅語等の失効確認に関する決議」が、それぞれ決議されて教育勅語は排除・失効が確認された。
教育勅語はその後、軍人の規律を説く軍人勅諭と同列におくことで軍事教育や軍国主義を彷彿とさせる傾向があるとされ、戦後日本においては公の場で教育勅語を聞くことはほぼ皆無となっている。時折、何らかの形で注目されて教育基本法の存在もふまえた議論が起こるときもある。
文部省・文部科学省の中央教育審議会(中教審)、市区町村における教育関連の研究会・勉強会などでは、教育勅語が勅令ではなく法令としての性質を持たなかったこと、教育基本法が教育勅語を形骸化するものとなった一方で法令であること、教育勅語が過去に国会で排除・失効確認されていること、教育勅語の内容は道徳的な記述がなされているに過ぎない、等々をふまえ、教育基本法を論じる際には比較・参考の資料とされることも多く、一部では部分的な復活についての話題が出ることもあり、見直され、評価されることもある。教育勅語を教育理念の中に取り入れ、生徒に暗唱させている学校もある[5]。
文法誤用説
教育勅語に文法の誤用があるという説がある。すなわち、原文「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」部分の「アレバ」は、条件節を導くための仮定条件でなくてはならず、和文の古典文法では「未然形+バ」、つまり「アラバ」が正しく、「アレバ」は誤用である、とする説である。1910年代に中学生だった大宅壮一が国語の授業中に教育勅語の誤用説を主張したところ教師に諭された、と後に回想している[6]。 これに対して、教育勅語は漢文訓読調であるから、条件節であっても「已然形+バ」とするのが普通であるから、決して誤りではないとする説もある。
なお、塚本邦雄も歌集『黄金律』114ページ[7]で「「アレバ」は「アラバ」の誤りなれば」として「秋風が鬱の顛頂かすめたり「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」」の歌がある。
発行物
- 1940年10月25日、50年記念の切手が2種(2銭、4銭)、発行された。
脚注
参考文献
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関連項目
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