松平容衆
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テンプレート:基礎情報 武士 松平 容衆(まつだいら かたひろ)は、陸奥会津藩の第7代藩主。会津松平家7代。
生涯
第6代藩主松平容住の次男として生まれる。父が早世したため、わずか4歳で家督を相続し、藩主となる。文化10年(1813年)には将軍徳川家斉に拝謁し、従四位下侍従肥後守に叙任、ついで文化13年(1816年)には左近衛権少将となる。
文政5年(1822年)にわずか20歳で死去した[1]。
嗣子が無く、松平義和が高須藩相続前にもうけた三男で、水戸徳川家から極秘に引き取られ、弟ということになっていた容敬が家督を相続した[2]。これは14年前に死去した家老田中玄宰が万一容衆が早世した場合の断絶を恐れての緊急処置であった[2]。
このため、公式上は容敬まで続くことになる徳川秀忠の男系は、実際には容衆の死により完全に断絶した。
容衆の代の家臣
文政年間の容衆の代の主要家臣は以下のとおり。
- 簗瀬三左衛門、西郷頼母、田中志摩、内藤助右衛門、井上兵馬、諏訪伊助、丹羽織之丞、原田又助、神保内蔵助、北原出雲、山崎小助
【用人】
【城使】
- 相沢平右衛門、赤羽清次、三宅多門