岡田武松
テンプレート:Infobox Scientist 岡田 武松(おかだ たけまつ、1874年8月17日 - 1956年9月2日)は、千葉県東葛飾郡布佐町(現・我孫子市)生まれの気象学者。
生涯
千葉県葛飾郡布佐町の海産物を扱う商家に生まれる。6歳で布佐初等小学校に入学、課外に和算を学ぶ。14歳で上京し、東京府立尋常中学校にに入学し、19歳で卒業し、第一高等中学校に入学。物理学を中村清二らに学ぶ。同級に桑木或雄(あやお)らがいる。このころ利根川の水害が多発しこともあり、防災科学や気象学に関心を寄せる。[1]。
東京府中学、第一高等中学校を経て、1899年、26歳で東京帝国大学物理学科卒業し、ただちに中央気象台(現・気象庁)に勤務。技手として予報課に勤務する。大日本気象学会編(後に日本気象学会)『気象集誌』に論文を発表する。翌1900年(明治33年)、各測候所の勤務者対象とする気象観測練習会で、気象学の講義を受け持った。[1].
1905年には予報課長として日本海海戦当時の天気予報を出す。この予報「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」は、連合艦隊から大本営宛に打電された有名な電報「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃沈滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の原典といわれる。
1911年、『梅雨論』で理学博士となり、1919年、東北帝国大学教授兼任、1920年、神戸海洋気象台の創設と同時に初代台長に就任。1923年には第4代中央気象台長となり、以後1941年、68歳までその職にあった。1942年から1944年に1927年刊『気象学』の姉妹編『理論気象学』全三巻を刊行する。中央気象台附属測候技術館養成所での講義案に新規の資料を付け加えた気象学基礎理論でもある。[2]。
在任中は世界に先駆けた海上船舶の無線通信(1910年)や地震観測網の整備・海洋観測船「凌風丸」の新造・全国気象官署の国営移管など、気象事業の発展に尽くしたほか、1925年に創刊された『理科年表』には、気象部の監修者として名を連ねている。
一方、研究者としても『気象学講話』『雨』『気象学』などの数多くの研究書・入門書の執筆や後進の育成にあたり、藤原咲平とともに藤原・岡田学派の総帥として活躍した。
1924年、イギリス王立気象学会よりサイモンズ金牌を贈られ、1931年、帝国学士院会員。1949年、76歳の時、文化勲章受章。
フェーン現象に風炎の字を当てたことでも知られる。 83歳で没した。
著書
単著
- 『氣象學』(岩波書店 科学叢書 1927年、1934年岩波叢書に、1938年岩波全書に収録)
- 『氣象學講話』(岩波書店 1928年)
- 『氣象器械學』(岩波書店 科学叢書 1931年)
- 『測候瑣談』(鐵塔書院 1933年)
- 『気象学礎石』(岩波書店 1937年)
- 『續測候瑣談』(岩波書店 1937年)
- 『理論気象学』(岩波書店 1942年)
- 『航空気象学』(岩波書店 1942年)
- 『気象学の開拓者』(岩波書店 1949年)
- 『気象学通論』(岩波書店 1949年)
- 『雨』(岩波書店 1951年)
- 『気象学講座・別巻』(地人書館 1955年)
共著
参考文献
- 岡田俊裕著 『 日本地理学人物事典 [近代編 1 ] 』 原書房 2011年 ISBN 978-4-562-04710-9
脚注
- ↑ 1.0 1.1 岡田俊裕著 『日本地理学人物事典 [近代編 1 ] 』 原書房 2011年 237ページ
- ↑ 岡田俊裕著 『日本地理学人物事典 [近代編 1 ] 』 原書房 2011年 242ページ
関連項目
外部リンク
- 岡田武松(田中舘愛橘記念科学館)
- 岡田 武松(日本気象事業のパイオニア)(川村学園女子大学) - 閉鎖(2009年3月17日時点のアーカイブ)