高島鞆之助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高島 鞆之助(たかしま とものすけ、天保15年11月9日(1844年12月18日) - 大正5年(1916年)1月11日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人、政治家。薩摩藩士・高島喜兵衛の四男。諱は昭光。階級は陸軍中将、位階は正二位、栄典は勲一等、爵位は子爵。陸軍大臣・拓殖務大臣・枢密顧問官等を歴任した。また、現在の追手門学院小学校の前身である、大阪偕行社学院の設立者でもある。当時の自宅は上智大学四谷キャンパスのクルトゥルハイム聖堂として現存。
略歴
- 幕末:薩摩藩の藩校造士館に学ぶ。
- 明治元年(1868年):戊辰戦争に従軍する(- 明治2年(1869年)。
- 明治7年(1874年):陸軍大佐に任ぜられる。
- 明治10年(1877年):西南戦争では別働第1旅団司令長官を務める。
- 明治16年(1883年):陸軍中将
- 明治17年(1884年):7月7日、子爵に叙せられる。
- 明治20年(1887年):11月2日、勲一等旭日大綬章受章。
- 明治21年(1888年):大阪鎮台司令官。大阪偕行社附属小学校(現在の追手門学院小学校)を創設
- 明治24年(1891年):第1次松方内閣の陸軍大臣となる。
- 明治25年(1892年):枢密顧問官となる。
- 明治28年(1895年):台湾副総督となる。
- 明治29年(1896年)
- 明治32年(1899年):枢密顧問官となる(死去まで)。
- 明治40年(1907年):4月1日 後備役[1]
- 大正5年(1916年):1月11日薨去、勲一等旭日桐花大綬章受章。
栄典
- 50px 勲一等旭日桐花大綬章 - 1916年(大正5年)1月11日(没後叙勲)
- 50px 勲一等旭日大綬章 - 1887年(明治20年)11月2日
- 50px レジオンドヌール勲章コマンドゥール
親族
脚注
参考文献
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会、1991年。
- 熊本兵団戦史編さん委員会『熊本兵団戦史 満州事変以前編』熊本日日新聞社、昭和40年。
- 『陸軍予備役後備役将校同相当官服役停年名簿』(明治44年7月1日調査)424コマに記載。
テンプレート:S-off
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
大山巌
大山巌
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 陸軍大臣
第5代:1891年5月17日 - 1892年8月8日
第8代:1896年9月20日 - 1898年1月12日
|style="width:30%"|次代:
大山巌
桂太郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
(未設置)
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 拓殖務大臣
1896年4月2日 - 1897年9月2日
|style="width:30%"|次代:
(廃止)
- 転送 Template:End
- ↑ 『官報』第7180号、明治40年6月7日。