八島 (戦艦)
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戦艦 八島(1897年撮影) | |
艦歴 | |
---|---|
計画 | 1893年(明治26年)度予算 |
建造所 | アームストロング社エルジック造船所 |
起工 | 1894年12月28日 |
進水 | 1896年2月28日 |
就役 | 1897年9月9日竣工 |
その後 | 1904年5月15日沈没 |
除籍 | 1905年6月15日 |
要目 | |
排水量 | 常備:12,320トン |
全長 | 垂線間長:113.4m(372ft) |
全幅 | 22.5m(73ft8in3/16) |
吃水 | 8.0m(26ft3in) |
機関 | 円缶10基 3気筒3段レシプロ2基 2軸、13,500馬力 |
速力 | 18.25ノット |
航続距離 | 10ノットで7,000海里 |
燃料 | 石炭1,100トン |
乗員 | 741名 |
兵装 | 30.5cm40口径連装砲2基 15.2cm40口径単装砲10基 47m単装砲24基 45cm水上魚雷発射管1門 45cm水中魚雷発射管4門 |
装甲 | 複合装甲 舷側:最大18インチ(457mm) 甲板:最大4インチ(102mm) 司令塔:14インチ(356mm) |
艦名は日本の美称の一つ。日露戦争において戦没。
概要
「富士」と同じくして計画された日本海軍で初めての近代的戦艦の1隻。英ニューキャッスルにあるアームストロング社で建造され、1897年(明治30年)に竣工した。
竣工7年目に日露戦争が勃発し、旅順口攻撃や旅順港閉塞作戦に参加していたが、1904年(明治37年)5月15日午前11時10分に老鉄山沖で触雷した。爆発は右舷後部ボイラー室で起こり、その1分後に水中発射管室で爆発、艦内に浸水し右に大きく傾斜した。応急処置の後、午後4時25分より自力航行により擱座を試みたが刻々傾斜が増したため5時41分に投錨、軍艦旗を降下し総員退艦し、艦は夜8時半過ぎに転覆沈没した。同日に戦艦「初瀬」も沈没、日本海軍所有の主力戦艦6隻のうちの2隻を一挙に失うこととなった。
日本海軍は国民の動揺を恐れ、戦死者が無く、ロシア側にもこの事実が知られていなかった事から、日露戦争終結まで八島沈没の事実を秘匿した。
艦歴
- 1894年12月28日 イギリス、アームストロング社エルジック造船所で起工
- 1896年2月28日 進水[1]
- 1897年9月9日 竣工
- 1898年3月21日 一等戦艦
- 1904年 第1艦隊第1戦隊の4番艦として日露戦争に参加。
- 1905年6月1日 喪失公表[3]
- 6月15日 除籍
艦長
代 | 氏名 | 在任期間 | 備考 |
---|---|---|---|
0 | 有馬新一 | 1896年7月7日 - 12月11日 | 回航委員長、英国出張 |
1 | 有馬新一 | 1896年12月11日 - 1897年12月27日 | 1897年11月30日英国より帰着 |
2 | 片岡七郎 | 1897年12月27日 - 1898年11月2日 | |
3 | 内田正敏 | 1898年11月2日 - 1899年6月17日 | |
4 | 瓜生外吉 | 1899年6月17日 - 1900年5月21日 | |
欠員 | 1900年5月22日 - 1900年6月17日 | ||
5 | 島崎好忠 | 1900年6月18日 - 1901年7月6日 | |
6 | 丹治寛雄 | 1901年7月6日 - 1902年5月24日 | |
欠員 | 1902年5月25日 - 1902年10月22日 | ||
7 | 岩崎達人 | 1902年10月23日 - 1903年10月27日 | |
8 | 坂本一 | 1903年10月27日 - 1904年8月31日 |
同型艦
脚注
参考文献
- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑-日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年。 ISBN 4-87687-221-X
- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。 ISBN 4-7698-0386-9
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第2巻 戦艦II』光人社、1989年。 ISBN 4-7698-0452-0
- 福井静夫『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語(1)』光人社、1992年。 ISBN 4-7698-0607-8
関連項目
テンプレート:日本の戦艦テンプレート:Link GA- ↑ 明治29年6月14日東京日日新聞「東洋第一の堅艦八島号の進水」『新聞集成明治編年史. 第九卷』 挿絵付 (国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 明治30年12月1日国民新聞「戦艦八島回航」『新聞集成明治編年史. 第九卷』 挿絵付 (国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 「軍艦八島外五艦ノ遭難」『官報』第6574号 1905年6月1日(国立国会図書館デジタル化資料)