菅野真道
菅野 真道(すがの の まみち、天平13年(741年) - 弘仁5年6月29日(814年7月23日))は、平安時代初期の公卿。津山守の子[1]。姓は津連[2]のち菅野朝臣。官位は従三位・参議。
出自
百済系渡来氏族で、百済国第14代の王である貴須王(近仇首王)の子孫[3]。
経歴
宝亀9年(778年)少内記に任じられ、延暦2年(783年)外従五位下に叙せられる。この間、右衛士少/大尉・左兵衛佐といった武官や近江少目・同大掾・摂津介(摂津守)と地方官を歴任した。延暦4年(785年)安殿親王(のち平城天皇)の立太子にあたって、従五位下に叙せられ、東宮学士に任ぜられる。延暦9年(790年)連から朝臣への改姓を上表し、居住地に因んで菅野朝臣の姓を賜与されている[4]。
桓武天皇の信任が厚く、東宮学士の傍ら左大弁・左兵衛督・左衛士督と要職を歴任する一方、造宮亮として平安京への遷都事業にも深く関与した。またこの間、延暦8年(789年)従五位上、延暦10年(791年)正五位下、延暦13年(794年)従四位下、延暦16年(797年)正四位下と順調に昇進し、延暦24年(805年)には参議として公卿に列した。延暦24年(805年)には桓武天皇の前で藤原緒嗣との間でいわゆる「徳政論争」を行い、農民の負担軽減のために軍事・造作を停止すべきとの緒嗣の主張に強く反対するが、天皇は緒嗣の主張を採択し、計画中であった蝦夷征伐と平安宮造宮の中止、および造宮職の廃止と木工寮への統合が決まった。
大同元年(806年)平城天皇の即位に際して正四位上に昇叙される。翌大同2年(807年)観察使制度の設立に伴い山陰道観察使、大同4年(809年)従三位・東海道観察使に叙任。嵯峨朝の弘仁2年(811年)参議を致仕。弘仁5年(814年)6月29日薨去。享年74。最終官位は常陸守従三位。
真道は藤原継縄・秋篠安人と『続日本紀』の編纂を行い延暦16年(797年)に全40巻を完成させた。また、未完成に終わったが、桓武天皇の命により藤原内麻呂とともに格式の編纂を進めていたとされる。