ウガヤフキアエズ王朝
ウガヤフキアエズ王朝は、日本に、かつて存在したという古代王朝であるが、通常は実在したとは考えられていない。
目次
概説
『ウエツフミ』「竹内文献」『神伝上代天皇紀』などの古史古伝に記載されている神武天皇以前の古代王朝で、火々出見命の子鵜萱葺不合命が開いた王朝とされる。
鵜萱葺不合命は、『古事記』、『日本書紀』の中では、神武天皇の父とされている[1]。『ウエツフミ』、「竹内文献」、『神伝上代天皇紀』などの中では神武以前に何代か続いた王朝の始祖とされている。しかし、これらの文書の中でも天皇の数や王朝の継続期間は一致していない。そもそもこれらの文書は史料価値が認められておらず、ウガヤフキアエズ王朝とは近代以降に偽作された架空の王朝だとするのが妥当であるとされている。
具体的な内容は、『ウエツフミ』「竹内文献」によるウガヤ朝、「富士宮下文書」によるウガヤ朝、『上代天皇紀』によるウガヤ朝と、大きく三系統にわかれる。誤解が広まっているが、「九鬼文書」にはウガヤ朝についての詳細な記述はない。
本来は「ウガヤ朝」といっていた。「竹内文献」では「不合朝」(あえずちょう)とよび、「富士宮下文書」では「宇家潤不二合須国世」(うがやふじあわすのくにのよ)などという。
「ウガヤ朝」という言葉を広めたのは吾郷清彦である。昔は、神話にでてくるニニギ・ホホデミ・ウガヤフキアエズの親子三代を、神武朝とか仁徳朝とか天武朝とか桓武朝などのような言葉と同じような意味でニニギ朝・ホホデミ朝・ウガヤフキアエズ朝といい、この三代をあわせて「高千穂三朝」(日向三代)といっていた。はじめ、吾郷清彦はこのようなつもりでウガヤフキアエズ朝を略して「ウガヤ朝」といっていた。これを「ウガヤ王朝」と書いて、あたかも皇室とは別の古代王朝が存在したかのような紛らわしい表現を発案したのは別の歴史本ライターである。
『ウエツフミ』によると、祖母山に天孫降臨したニニギの命は、この山の周辺に最初の都「二上(ふたのぼり)の大宮」を建設し、そこから大野川を下って大分市内の南大分あたりに「大分(おおきた)の宮」を構えて首都とし、現在の霊山(りょうぜん)に八咫鏡を祀る社を建てたとある。その孫である初代・ウガヤフキアエズの命の時代には、この地からタケルと呼ばれる国司を任命して、ほぼ全国を統治しており、その地名と実際に任命された人物名までが正確に記録されている。
『ウエツフミ』・「竹内文献」におけるウガヤ朝
『ウエツフミ』・「竹内文献」の共通点
『ウエツフミ』によればウガヤ朝は74代、「竹内文献」によれば72代続いたが、兄弟相続等もあるので世代数でいうと62世代。神武天皇とその兄・五瀬命は第62世代にあたる(ただしこれは女帝を経由して数えたもので男女混系での世代数。純粋に男系だけでたどると55世)。五瀬命も即位していて第72代(最終代)にあたる。
- ウガヤ朝の女帝
このうち19人は女帝である。女帝の配偶者は『ウエツフミ』では「ヨサチヲ(世幸男?)」または「ヤサキヲ(弥幸男?)」とよぶ(「竹内文献」では「世幸男」の表記で統一)。ちなみに皇太女(女性皇太子)の婿は「タトリヲ(手執男)」といい、皇太女が女帝になると「ヤサキヲ」に昇格する。しかし、独身の皇太女が即位にともなって、はじめてヤサキヲを迎える例の方が多い。また男帝か女帝かを問わず、生涯独身だった天皇が何人かいる。ヤサキヲは、必ず皇胤(男帝の男系子孫)であるため、女帝が数代連続するケースがあるが、男系でのつながりは途切れない(皇子か皇孫か皇曽孫か皇玄孫であるが皇孫が多い。玄孫だと途中に別の女帝のヤサキヲがいる場合もある)。ヤサキとは『ウエツフミ』における年齢階層制での最高位をさす言葉で、女帝の配偶をさす言葉としてはややおかしい。系図上の傍系継承をした場合に、その配偶となる直系女性を女帝と改変している可能性もある。
『ウエツフミ』・「竹内文献」の相違点
『ウエツフミ』では、第74代ウガヤフキアエズの命も存在する。その幼少期の名前は「カムヌナガワミミの命」と書かれており、綏靖天皇(すいぜいてんのう)のことと解される(宗像本第39綴第4章)。のちに「ホホデミの命」と改名したとあるので、この記述が正しいとすれば「山幸彦」のことになるが、なぜ両者が同じ名前を持つのかは不明。ただし、この段階でウガヤフキアエズ王朝は滅亡したと考えられ、第74代の治世や人物像については記述が残っていない。
「竹内文献」では17代女帝には天津馬鞍之男尊という世幸男がいたことになっている。しかし『ウエツフミ』では17代女帝は生涯独身であり、アマツマクラノオノミコトは宿老級の大臣として登場し、女帝と結婚したような様子はまったくない。また『ウエツフミ』では48代と49代の間に、47代女帝が事実上の重祚をしているがこれは代数に数えられておらず、摂政あつかいのようになっている。しかし「竹内文献」では48代から49代に直接譲位したことになっていて、47代女帝が再登場したような記述はない。
『ウエツフミ』は54代の後半の記事から68代までの記事が散逸して失われてしまっている。吾郷清彦によると、「竹内文献」は歴史内容の叙述は『ウエツフミ』とまったく違っているものの、系図部分は『ウエツフミ』と一致しているため、『ウエツフミ』の散逸部分を「竹内文献」で補うことができるという[2]。
「竹内文献」は天皇が天之浮船という空を飛ぶ乗り物にのって万国を巡幸する話と越中にあったという皇祖皇太神宮が頻繁に出てくるほか、ミヨイ国、タミアラ国という沈没した大陸や、ヒヒイロカネという謎の金属などが登場する。
しかし『ウエツフミ』には、「星の神々が大鳥に乗って太陽系惑星を巡幸した」(宗像本第16綴第12章)という記述や、「ニギハヤヒら十神が磐船で天降りした」(宗像本第41綴第16章)という記述があり、宇宙船の存在を連想させるが、いったん地上に降臨した神や天皇が空を飛んだという描写は無い。 そのかわり、神霊現象・神道の祭祀・天文学・産業技術・医学・政治制度・文学(歌謡)・外国との交渉・裁判記録・民間伝承など多岐にわたり、「竹内文献」よりもはるかに内容豊富でバラエティーに富んだ記事に満ちている。
「富士宮下文書」におけるウガヤ朝
「富士宮下文書」[3]によれば、ウガヤ朝は51代続いたとするが、五瀬命は皇太子のまま薨去し即位はしてはいないことになっており代数に数えられていない。また歴代すべて男帝であって女帝は存在しない。また歴代すべて単純な父子相続になっているが「富士宮下文書」では皇統譜にかぎらずすべての系図にこの傾向があり、機械的につなげたにすぎまいと思われる。ウガヤ朝の天皇はすべて「神皇」、皇后は「神后」という用語を使っている。
代数に大きな食い違いがあるように見えるが、『ウエツフミ』「竹内文献」の第2代をとばして、第3代が「富士宮下文書」の第2代に当たるとして順次ずらしていくと、「富士宮下文書」の第50代(=『ウエツフミ』「竹内文献」の第51代)までは名前や山陵地や治世中の事件などがよく一致する。なので『ウエツフミ』「竹内文献」の第52代〜第70代が「富士宮下文書」においては欠落しているらしい。そのあと「富士宮下文書」の第51代が『ウエツフミ』「竹内文献」の第71代にあたる。ただし、『ウエツフミ』「竹内文献」における女帝はすべて一般の皇后にあたる「神后」に、「ヤサチヲ」は一般の天皇に該当する「神皇」に名称(表記?)が変更されている。
歴史内容は、ごくまれに外寇(外国軍の侵入)と鎮圧などがあるぐらいで『ウエツフミ』ほど記事は豊富といえない。富士山のふもとにあったという阿祖山太神宮の話は、「竹内文献」には一切でてこないが、『ウエツフミ』によると、この地には香香背星之男の長(かかしつつのをのかみ)と呼ばれる勢力があり、ニニギの命の天孫降臨に際して、説得されてウガヤ王朝に合流したとされている。
『神伝上代天皇紀』におけるウガヤ朝
『上代天皇紀』のもので、これは代数が全部で72代であるという点が一致しているだけで他の内容(天皇の御名、宮都の場所、山陵地など)はまったく別である。女帝もわずか2名のみで、その代に相当する天皇は『ウエツフミ』や「竹内文献」では男帝になっている。
歴代の一覧
竹内文献・ウエツフミ
- 55代から68代までは『ウエツフミ』では原本が散逸してしまい本文が存在していない。
1代 武鵜草葺不合身光天津日嗣天日天皇
2代 日高日子身光天日天皇軽島彦尊(カルシマヒコ)
3代 真白玉輝彦天日天皇(マシラタママカガヒコ)
4代 玉噛尊天津日嗣天日天皇(タマカミヒコ)
5代 天地明成赤珠彦天日身光天皇(アメツチアカリナスアカタマヒコ[5])
6代 石鉾歯並執楯天皇天日天皇身光天皇(イワホコハナメトリタチ[6])
7代 櫛豊媛尊天日身光媛天皇(クシトヨヒメ)
8代 光徹笑勢媛天皇天日身光媛天皇(ヒカリトオルワラワセヒメ)
9代 千種媛天皇天日身光媛天皇(チグサヒメ)
10代 千足媛天皇天日身光万国棟梁天皇(チタラシヒメ)
11代 禍斬剱彦天皇天日身光万国棟梁天皇(マガキルツルギヒコ)
12代 弥広殿作天皇天日身光天皇(ヤヒロトノツクリヒコ)
13代 豊明圀押彦天皇天日身光天皇(トヨアカリクニオシヒコ)
14代 火之進奇猿媛天皇天日身光天皇(ホノスセリクシマシラヒメ[7])
15代 臼杵天皇天日身光天皇(ウスキネヒコ)
16代 産門真幸天皇天日身光天皇(ウブドマサキ)
17代 表照明媛天皇天日身光天皇(ウワテルアカリヒメ)
18代 依細里媛天皇天日身光天皇(ヨザミサトヒメ)
19代 少名形男彦天皇天日身光天皇(スクナガタオ)
20代 天津明少名大汝彦天皇天日身光天皇(アマツミノリスクナオオナヒコ[8])
21代 天饒明立天皇天日身光天皇(アメニギシアカリタチ)
22代 天押開神魂彦天皇天日身光天皇(アメオシヒラキカムタマヒコ)
23代 天饒国饒狭真都国足天皇天日身光天皇(アメニギシクニニギシサマツクニタラシ)
24代 天饒国饒黒浜彦天皇天日身光天皇(クロハマヒコ)
25代 富秋足中置天皇天日身光天皇(トミアキタラシナカオキ)
26代 種浙彦天皇天日身光天皇(タネカシヒコ)
27代 建玉天皇天日身光天皇(タケタマヒコ)
28代 天之海童楽之雄天皇天日身光天皇(アメノイソリヱラギノオ)
29代 神豊実媛天皇天日身光天皇(カムトヨミヒメ)
30代 円脊之男天皇天日身光天皇(マロセノオ)
31代 橘媛天皇天日身光天皇(タチバナヒメ)
32代 花撰媛天皇天日身光天皇(ハナヨリヒメ)
33代 清之宮媛天皇天日身光天皇(スガノミヤヒメ)
34代 八千尾亀之男天皇天日身光天皇(ヤチオカメオノオ)
35代 花媛天皇天日身光天皇(ハナヒメ)
36代 若照彦天皇天日身光天皇(ワカテルヒコ)
37代 松照彦天皇 天日身光天皇(マツテルヒコ)
38代 天津太詞子天皇天日身光天皇(アマツフトノリトヒコ)
39代 神足伊足彦天皇天日身光天皇(カムタラシイタラシヒコ)
40代 神楯媛天皇天日身光天皇(カムタテヒメ)
41代 神楯広幡八十足彦天皇天日身光天皇(カムタテヒロハタヤソタラシヒコ)
42代 鶴舞媛天皇天日身光天皇(ツルマヰヒメ)
43代 豊足大御中天皇天日身光天皇(トヨタラシオオミナカ)
44代 大炊気吹天皇天日身光天皇(オオカシキイブキ)
45代 空津争鳥天皇天日嗣天皇(ソラツアラソヰカラスタケ)
46代 鳥言足清男天皇天日嗣天皇(カラスコトタリスガオ)
47代 大庭足媛天皇天日嗣天皇(オオニワタラシヒメ)
48代 豊津神足別天皇天日嗣天皇(トヨツカムタラシワケ)
49代 豊足彦天皇天日嗣天皇(トヨタラシヒコ)
50代 神足別国押之女天皇天日嗣天皇(カムタラシワケクニオシヒメ)
51代 国押別神足日天皇天日嗣天皇(クニオシワケカムタラシ)
52代 天津紅之枝玉天皇天日嗣天皇(アマツホノヱタマヒコ)
53代 天開明知国束天皇天日嗣天皇(アメヒラキアカリシリクニツカ)
54代 高天原輝徹国知天皇天日嗣天皇(タカマノハラカカリトオルクニシリ)
55代 天津玉柏彦天皇天日嗣天皇(【欠落】アマツタマカシハヒコ?)
56代 天津成瀬男天皇天日嗣天皇(【欠落】アマツナルセノヲ?)
57代 天津照雄之男天皇天日嗣天皇(【欠落】アマツテルヲノヲ?)
58代 御中主幸玉天皇天日嗣天皇(【欠落】ミナカヌシサキタマ?)
59代 天地明玉主照天皇 天日嗣天皇(【欠落】アメツチアカルタマヌシテル?)
60代 天照櫛豊媛天皇天日嗣天皇(【欠落】アマテラスクシトヨヒメ?)
61代 豊足日明媛天皇天日嗣天皇(【欠落】トヨタラシヒノアカルヒメ?)
62代 天豊足別彦天皇天日嗣天皇(【欠落】アマツトヨタラシワケヒコ?)
63代 事代国守高彦尊天皇天日嗣天皇(【欠落】コトシロクニモリタカヒコ?)
64代 豊日豊足彦天皇天日嗣天皇(【欠落】トヨヒトヨタラシヒコ?)
65代 勝勝雄之男天皇天日嗣天皇(【欠落】カチカツヲノヲ?)
66代 豊柏木幸手男彦天皇天日嗣天皇(【欠落】トヨカシハギサチテヲヒコ?)
67代 春建日媛天皇天日嗣天皇(【欠落】ハルタケヒヒメ?)
68代 天津日高日子宗像彦天皇天日嗣天皇(【欠落】ムナカタヒコ?)
69代 神足別豊耡天皇天日嗣天皇(カムタラシワケトヨスキ)
70代 神心伝物部建天皇天日嗣天皇(カムコロヅテモノベタケ[9])
71代 天照国照日子百日臼杵天皇天日嗣天皇(アマテルクニテルヒコモモカヒウスキ)
72代 彦五瀬天皇天日嗣天皇(オオワダツヒコイツセ)
神倭朝・1代[10] 狭野尊天日嗣天皇(73代 カムヤマトイワレヒコ、幼名ヒタカサヌ)
74代 神大倭大磐余彦火々出見命 (『ウエツフミ』にだけ記述がある、幼名カムヌナガワミミ)
富士宮下文書
宮下文書より(歴代天皇 皇后摂政 皇太子)
1代 日子波瀲武言合命
2代 千穂高王命
3代 阿蘇豊玉王命
4代 不二田彦王命 佐田比女命
5代 佐津田王命
6代 津弥彦王命 櫛豊比女命
7代 阿知奈王命
8代 豊田彦王命
9代 宇摩子王命
10代 日野光王命 佐弥比女命
11代 太武王命 太加比女命
12代 武力男王命
13代 出見彦王命 彦瀬比女命
14代 万天子王命 太瀬比女命
15代 奈良田彦王命 屋根比女命
16代 佐彦王命 戸志比女命
17代 加目男王命 志毛比女命
18代 都留彦王命 摩津比女命
19代 多加彦王命 波奈比女命
20代 加佐田彦王命 奈加比女命
21代 登美田男王命 加仁比女命
22代 笠砂男王命
23代 津奈建王命
24代 久真佐彦王命
25代 宇佐彦王命 身奈比女命
26代 津田彦王命
27代 頭長男王命 多美比女命
28代 足長彦王命 多真明比女命
29代 手身武王命 明知桜比女命
30代 山守雄王命
31代 佐奈田男王命
32代 弥茂作彦王命
33代 田仲雄男王命
34代 貞仲雄王命
35代 田高彦王命 太留美比女命
36代 川上男王命 和仁比女命
37代 千利武王命 真佐比女命
38代 玉弥彦王命
39代 津加田彦王命 真江比女命
40代 川張雄王命
41代 禰利長男王命
42代 玉長彦王命
43代 波奈長王命
44代 照日彦王命 津波気比女命
45代 津気男王命
46代 種越彦王命 天佐比女命
47代 禰仲穂王命
48代 津加彦王命
49代 真加弥王命
50代 岩仲彦王命
51代 弥真都男王命 玉照比女命 五瀬王命(皇太子)
大日本国世・1代[11] 波限建神日本磐余彦火火出見天皇
注
- ↑ 『日本書紀』では神武天皇は天孫降臨から一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年)の年月がたったと述べた。『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』(ともに神道五部書のひとつ。偽書とされる。)では鵜萱葺不合命は83万6042年の治世とされる。
- ↑ しかし「竹内文献」の68代天津日高日子宗像彦天皇と系図上同一人物に当たるムナカタヒコが『ウエツフミ』ではなぜか皇子であって天皇とされていない等、不審な点が多く、「竹内文献」は創作で補ったのではないかという疑惑ももたれる。
- ↑ 富士吉田市の宮下家に伝来する古文書群で、「富士文献」とも総称されている。漢語と万葉仮名による記紀風の表記であるが、文法や発音などから江戸後期から近代の作であり俗文学の一種と考えられている。
- ↑ 両書は名前の細部も一致しない。ウエツフミに説明される名前の由来と竹内の漢字の当て方が不整合なばかりか、竹内の漢字の振り仮名とウエツフミの読みと合わないことが多い。
- ↑ ウエツによればアカタマは赤頭の略で、竹内の漢字は合っていない
- ↑ ウエツによればトリタチは執立の意で、竹内の漢字は合っていない
- ↑ 竹内は火之進とあるところウエツではホノスセリとなっている
- ↑ ミノリは「御祈」の意で、竹内の漢字は合っていないが「稔(みのり)」と同義の「萌」の字を誤写したものか。
- ↑ ウエツフミにはニギハヤヒ降臨伝承が記述されているがこの天皇の時代にあったという主旨ではない。
- ↑ 「竹内文献」では「不合朝」は72代で終わり、神武天皇から「神倭朝」となったとし、神武天皇をウガヤ朝73代とするような数え方はしない。
- ↑ 「富士宮下文書」では「宇家潤不二合須国世」は51代で終わり、神武天皇から「大日本国世」となったとし、神武天皇をウガヤ朝52代とするような数え方はしない。
参考文献または出典
- 『神代の万国史』竹内義宮 皇祖皇太神宮
- 『太古日本史』岩田太中 太中書院
- 『かきやわしウエツフミ』吾郷清彦 日本神学連盟
- 『ウエツフミ要録』吾郷清彦 霞ヶ関書房
- 『上つ記』(上・下)吉田八郎 国政記者会
- 『日本古代文書の謎』鈴木貞一 大陸書房
- 『開闢神代暦代記』岩間尹 三浦一族会
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