黒田継高
テンプレート:基礎情報 武士 黒田 継高(くろだ つぐたか)は、筑前福岡藩の第6代藩主。
生涯
元禄16年(1703年)、筑前直方藩主・黒田長清の長男として誕生。幼名は菊千代、のち長好(ながよし)と名乗る。正徳4年(1714年)4月23日、宗家であり従兄にあたる福岡藩主黒田宣政の養嗣子となった。同年5月1日、7代将軍徳川家継に御目見し、その偏諱を受けて継高に改名(「高」の字は祖先の黒田孝高から1字を取ったものであり、また孝高と同じく「黒田官兵衛」を通称とした)。同年12月1日、従四位下筑前守に叙任する。後に侍従、次いで左少将に任官した。享保4年(1719年)11月22日、養父宣政の隠居により家督を相続する。享保5年4月15日、実父の長清が死去。長清には継高以外に男子がいない、すなわち跡継ぎがいなかったため、これにともなって直方藩領は宗藩に返還・編入される形で継高のものとなった。
病弱な養父とは対照的に非常に頑健で精力的であり、吉田栄年(よしだ まさとし)・保年(やすとし)父子[1]を登用して藩政改革にも積極的に取り組んだ。運上銀の改定、享保の大飢饉後の窮民対策などがそれである。宝暦4年(1754年)には早良郡田島村に友泉亭を建てた。ちなみに吉田栄年と協力して行なった藩政改革は、一定の成果を収めている。
晩年の継高は、長男・重政、三男・長経という2人の次期当主となりうる男子を相次いで亡くし、後継者問題に見舞われた。継高や重臣は評議の上で、岡山藩主池田宗政の次男・政長改め長泰(後の相良長寛)を養子に迎えることに決定した。池田長泰は黒田継高の外孫であった。しかし、宝暦13年(1763年)9月、幕府は10代将軍徳川家治の従兄弟にあたる隼之助(一橋宗尹の五男、後の黒田治之)を養子にすることを打診してきた。結局、継高は隼之助を養子に迎え入れることにした。亡くなった重政の娘屋世を養女に迎え、隼之助と婚約させて、黒田家の血統維持をはかったものの、屋世は11歳で早世してしまう。明和6年(1769年)12月10日、隠居し、養子治之に家督を譲った。隠居後は図書頭を称した。安永4年(1775年)6月17日、福岡城にて死去。享年73。法号は功崇院章山道善。
一族
- 正室:幸姫(黒田宣政の養女、実父:黒田吉之、実母:本多忠利の娘)
- 側室:田中氏
- 三女・玉津院(黒田長邦室)
- 側室:小寺氏
- 長男・重政
- 六女・娘(南部利謹室)
- 七女・娘(広橋伊光室)
- 側室:三隅氏
- 側室:岸原氏
- 八女・娘(久我信通婚約者)
- 側室:三原氏
- 九女・娘
脚注