山口弘豊
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山口 弘豊(やまぐち ひろとよ、1684年(貞享元年)- 1755年12月25日(宝暦5年11月23日))は、常陸牛久藩の第4代藩主。山口重治(第2代藩主・山口弘隆の三男)の長男。母は谷氏。正室は越前松平直堅の娘、継室は戸田光正の娘。側室は近藤氏ほか多数。子に山口豊隆(長男)、山口弘倉(四男)、山口弘道(五男)、娘(山口弘長正室)、娘(諏訪頼一正室)、娘(諏訪頼一継室)、娘(柴田康哉室)、娘(服部保命室)、娘(織田秀行正室)。官位は従五位下、伊豆守、但馬守、周防守。
第3代藩主・重貞には長男が早世した後に男児がなかったため、弟の重治を養嗣子にしていた。しかし、重治は後継者にふさわしくないとして廃嫡され、代わりにその子である弘豊が養子となり、元禄11年(1698年)の重貞の死去により跡を継いだ。享保10年(1725年)には牛久沼干拓工事などで手腕を見せた。また、藩主時代が33年の長きにわたったため、藩政が安定化した時代でもあった。享保16年(1731年)8月27日、病を理由に家督を養嗣子の弘長に譲って隠退し、宝暦5年(1755年)11月23日に死去した。享年72。法号は真竜定淵弘豊院。