ルドルフ・ジュリアーニ
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:政治家 ルドルフ・ウィリアム・ルイス・ジュリアーニ3世(Rudolph William Louis "Rudy" Giuliani III, 1944年5月28日 - )は、アメリカ合衆国の政治家、ニューヨーク州ニューヨーク市元市長。市長在任期間は1994年1月1日から2001年12月31日。凶悪犯罪撲滅および市の治安改善に大きな成果を挙げたと言われている。アメリカ同時多発テロ事件時にはジョージ・W・ブッシュ大統領と共にテロリズムと戦う事を宣言し、「世界の市長」と称賛された。通称ルーディ。
目次
初期の経歴
ニューヨーク市ブルックリンに生まれる。両親はイタリア系移民の2世でカトリック教徒。ジュリアーニ一族の中には、警察官や消防士がいたが、犯罪者もいた。父親は暴力沙汰を起こし、警護が厳しいことで有名なシンシン刑務所で服役。釈放後は、ブルックリンでマフィアの義弟が経営するレストランや賭博場、違法金融業の用心棒になった。
マンハッタン・カレッジを卒業し、次いで1968年にニューヨーク大学のロー・スクールを修了しニューヨーク州南部地区連邦地裁で書記(law clerk)を務めた。
1970年に連邦検察官に任官。司法副次官、司法次官の首席補佐官等を歴任。当時は民主党員として活動し、1972年の大統領選挙では民主党の反戦候補マックガバン上院議員を支持した。しかし、1975年共和党のフォード政権がジュリアーニを司法次官補に抜擢。それ以来、共和党の法曹実務者としての道を歩き出した。1976年の大統領選挙の選挙でフォード大統領が敗退した際は、ジュリアーニも司法省を退官、弁護士生活に戻った。しかし、1981年の共和党レーガン政権の発足で、司法省のナンバー3にあたる司法副長官(司法次官)になる。1983年には、ニューヨーク南部管轄の連邦検事として、マフィアの掃討作戦の陣頭指揮を取り組織犯罪・薬物事件・経済事件などの対応・対策に取り組んだ。
検事時代には、仕手筋のイヴァン・ボースキーと、「ジャンクボンドの王」と称された投資銀行家マイケル・ミルケンという2人のウォール・ストリートの大物をインサイダー取引で告発したことにより、その名を広く知られた。他にマーク・リッチなど大物投資家をインサイダー取引で起訴。暗黒街にもメスを入れ、レーガン政権が展開した撲滅作戦においてジュリアーニが検事として陣頭に立ち、当時「ニューヨークのファイブ・ファミリー」と言われたマフィアの一掃作戦を始めた。そして、ガンビーノ一家のボス、ポール・カステラーノなどファミリーのボスたちを次々起訴、有罪に持ち込んだ。
事件のたびにメディアに登場、知名度が上がり、1989年、共和党から、ニューヨーク市長選挙に立候補したが、この時には、民主党候補のデイヴィッド・ディンキンズに僅差で敗れた。
ニューヨーク市長
1993年、再び市長選に立候補し、前回敗れた現職のディンキンズを破り当選。
治安の回復を目標に掲げ、ニューヨーク市警のトップにウィリアム・ブラットンを据え、割れ窓理論を用いて犯罪率の減少に取り組んだ。RICO法に基づき、マフィアのトップを重点的に取り締まった。検事の時代から、まずイタリアン・マフィアをターゲットにしてトップ達を逮捕、そのあと、その代わりに台頭してきた中国、ベトナム、カンボジア、イラン等のマフィアを各国別に対策を練り、頂上作戦を展開して大きな成果を上げた。警官を大幅に増やし、マフィアの温床となるSEXビジネスの撲滅作戦に乗り出すなど様々な手を打ち、ニューヨークの安全化に務めた。汚職警官を次々と告発、追放するなど、一時はマフィアより汚いと言われていた警官の規律を正した。そのうえで、各辻には警官が立つようになり、さらにハーレムの名物、出店も一掃。風紀を正すため、ところどころで火を噴いていたタクシーは新型車両に交換。
実際に犯罪率を半減させ、全国水準より低く抑えることに成功したことから、その目標は一般には達成されたと評価されている。これにより、ニューヨーク市は全米でも最も安全な大都市となったといわれ、ニューヨーク市を浄化した市長として名声を博した。なおギネスブックにおいても「最も多く犯罪率を削減させた市長」としてノミネートされている。
一方で、検挙率の向上が市警においては重要な課題となり、その結果特にマイノリティー層を中心として市民的権利が警察により時に侵害されたとの批判もある。有名なケースとしては、白人警察官達が武器を携帯していなかったアフリカ系移民のアマドゥ・ディアロを指名手配犯と誤認し、41発もの弾丸を撃ち込み射殺した事件で、市警の暴力や人種差別に対し聖職者や芸能界などの著名人も参加する大規模な抗議デモに発展した。その強権的な手法に批判的な市民や人権団体などから、「ジュリアーニはヒトラーだ」[1]、ジュリアーニの名前をイタリアのファシズム理論を構築した独裁者ベニート・ムッソリーニに絡めて「マンハッタンのムッソリーニ」等の声が上がった[2]。
ニューヨーク市の治安回復と共に力を入れたのは中心部の再開発であった。タイムズスクエアは、長い間、危険な場所と認識されていたが、犯罪が減少するにつれその利便性が見直された。同地の再開発は積極的に推進され、観光客・家族などを中心とする一般消費者が深夜まで安全に訪れることのできるエリアとなった。ディズニー、MTVスタジオ、ABCスタジオなどが同地に移転し、この試みは一応の成功を収めている。また自身でもラジオ番組を持ち出演し貢献している。安全化→観光客増→税金収入アップでアメリカ経済にも好影響を与えた。ちなみに97年にニューヨークを訪れた人々が使ったお金は137億ドルに上り、ここから7億1000万ドルの税金収入がニューヨークにもたらされた。
一方、マンハッタンに新しい野球場を建設するという計画は頓挫した。
1999年4月、市長としての高い支持率を背景に、翌年の上院議員選挙にニューヨーク州から出馬することを正式に表明。民主党はヒラリー・クリントンを投入し、名物市長とファーストレディという異例の顔合わせのもと、1年にわたり激しい舌戦を繰り広げて全米の注目を集めるさなか不倫が発覚する。翌年5月、妻との離婚を発表し程なくして前立腺がんを理由に選挙戦から撤退した。
同時多発テロと市長退任後
犯罪対策などで成果を上げていたジュリアーニだが、2001年までは必ずしも全米で高い人気を博していたわけではない。しかし2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件は、彼を巡る環境を一変させた。
同事件でニューヨーク市のワールド・トレード・センターが2機のハイジャックされた旅客機の突入を受けると、さらなるテロの防止に奔走し、高い危機管理能力を発揮した。効率的に強いリーダーシップを発揮したことで、テロ対策を象徴する人物の一人として位置づけられ、全米のみならず世界からの賞賛を集めた。タイム誌によって2001年の「今年の人」に選出され、英国女王エリザベス2世から、2002年2月13日にナイトの称号を授けられた。また同年、ロナルド・レーガン自由賞を受賞。
退任後、彼はコンサルティング会社、ジュリアーニ・パートナーズを設立し、現在同社のCEOを務めている。2004年の大統領選挙では、ジョージ・W・ブッシュ大統領を強力に支持した。共和党大会で演説を行い、この演説は好評を博した。また活発に大統領への支持を呼びかける遊説を行うなど、ブッシュ陣営のキャンペーンに多大な貢献をした。このような動きの中で、ジュリアーニは全米における認知度を高め、一躍次期大統領の有力候補となっていった。
2008年米大統領選挙
予備選・党員集会
2007年2月5日、連邦選挙委員会に立候補の意思を示す文書を提出、その後FOXテレビのインタビューで「勝つために参戦する」と出馬を表明した。
後述のように、内政問題においては党内穏健派とされており、宗教右派など保守的色彩が強い層からは強い批判を浴びることもしばしばで、党内の指名獲得争いにおいて苦慮する場面も少なからず見受けられた。しかし、2007年11月にキリスト教右派の代表的人物パット・ロバートソンがジュリアーニへの支持を表明し、全米を驚かせた。その後も徐々に保守層への浸透を続けており、党内での指名獲得競争を優位に進めていった。
ジュリアーニの指名獲得に向けた運動には独特のものがあり、通常は多くの候補が重要視するアイオワ州やニューハンプシャー州といった序盤州や、最初の南部決戦となるサウスカロライナ州での勝利を捨て、1月26日のフロリダ州や「スーパー・チューズデー」(2月5日。20の州で予備選・党員集会が行われる)の大票田に力を集中するという有力候補としては異例の選挙戦略を取って注目を浴びた。
選挙戦当初から、全米でも民主党の有力候補を凌ぐ支持率を獲得してきた唯一の共和党候補であり、国民的知名度や中道層の支持を見込める点において、「本命」とする見方も少なくなかった。しかし12月に入り、序盤州での選挙戦や報道合戦が本格化してくると、それらの州での露出が減り、かえってジュリアーニの不在が話題になるほどであった。さらに12月後半には突然入院するなど健康不安も再燃し、支持率は漸減。2008年1月に入り予備選・党員集会が本格化する中、緒戦のアイオワ州から19日のネバダ・サウスカロライナ州に至るまで、多くの州で下位に沈んだ。戦略ミスを指摘する声も少なくない中、陣営は「計算通り」と強気の姿勢を崩さず、これらの州での選挙戦が加熱する中、多くの時間をフロリダ州での選挙運動に費やした。しかし29日の同州予備選では3位に終わり、選挙戦からの撤退とマケイン支持を表明した。
2008年大統領選挙において示した政策
内政では妊娠中絶問題でプロ・チョイス(女性の権利を擁護する)の立場をとり、同性婚には反対するものの同性愛者の権利を容認する姿勢をとっており、リベラル派で有名なニューヨーク自由党から支持を受けている[3]。また共和党の候補者の中では唯一銃規制を主張、経済については明確に「小さな政府」路線を取るが、総じて内政においては共和党穏健派に位置付けられており、80年代以降保守化が進む共和党にあって、指名候補となれば大きなインパクトをもたらすとされていた。
他方、外交においては強硬派として知られ、大統領選に向けた外交顧問団には、親イスラエル派のチャールズ・ヒルを筆頭に、「ネオコンの父」と呼ばれた政治評論家ノーマン・ポドレツ、マイケル・ルービン、ダニエル・パイプスといった著名なタカ派論客が名を連ねている。ジュリアーニ自身も党内きっての親イスラエル派であり、アフガニスタン侵攻後の2001年12月にはニューヨーク州知事のジョージ・パタキ、後継のニューヨーク市長に選出されていたマイケル・ブルームバーグと共に、イスラエルを訪問[4]。アリエル・シャロン首相と会談し、中東和平の実現のためにはイスラエルの生存権が最大限保障されなければならないとの立場をとり、テロとの戦いにおける米国とイスラエルの共闘を呼びかけた[5]。イランの核問題についても、核施設の破壊に言及するなど、強硬姿勢を崩していない。
その他
- 野球では熱狂的なニューヨーク・ヤンキースファンである。
- 2度の離婚歴がある。
- 信仰する宗教は、ローマ・カトリック。
脚注
関連項目
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ジョン・シェネフィールド
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国司法次官
第3代:1981–1983
|style="width:30%"|次代:
ローウェル・ジェンセン (en)
テンプレート:S-off
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
デイヴィッド・ディンキンズ
|style="width:40%; text-align:center"|22x20px ニューヨーク市長
第112代:1994 - 2001
|style="width:30%"|次代:
マイケル・ブルームバーグ
テンプレート:S-ach
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ビリー・グラハム
|style="width:40%; text-align:center"|ロナルド・レーガン自由賞
2002
|style="width:30%"|次代:
ジョージ・H・W・ブッシュ